Art's Report site/ZAKKAYA PARIS

戸田昭子「雑歌屋パリ」

自己紹介

1992年よりパリ在住。フランスの制度の中で舞台やコンサートを経験し、公的に職業アーティストと言う肩書きをもらいました。フランスの声楽教授国家資格をとり、指導もしています。西洋音楽の生まれたところで、島国の人間が音楽を教えるとは?歌うとは?を実践中です。遠く離れているために忘れてしまった日本の文化や考え方もあるでしょうし、芸術に対し見方が変わってきたこともあるかもしれません。

余談ですが、私は関節リウマチという不治の病とつきあっています。誤解が多く、音楽との葛藤さえ生む病気です。病気と共生するために、知らず知らず芸術の力に、何かを期待しているのかもしれません。

vol.1

フランス語のART 〜 ARTISTE とARTISAN〜

CULTURE、教育と文化、芸術

病と音楽

フランス語のART 〜ARTSTE とARTISAN〜

フランス語のartと言う単語を日仏辞書でひいてみると、Art=芸術、だけではなく、いろんな意味が出てくる。美術、技法、ワザ・・・

art dentaire、歯科医術、なんてものまである。

その”アート“に関わってくる人というと、もちろんARTSTE、アーティストがあり、またARTISAN、という単語も出てくる。

辞書に先に出て来るARTISAN(アルティゾン)は「職人」の意味。続きには、“Artisan d’art アートを作る職人=芸術品を作る職人”という例がある。『古』としては、 “芸術家”の意味もあった、という。artisanat(職人階級)を境にartisteが続く。ARTISTEは、辞書にはそのままアーティスト、芸術家、とある。

(a)芸術家、(b)(得に)画家、彫刻家 (c)俳優、演奏家、芸人 (d)(優れた)職人“少し皮肉に”(?)

現在のフランスには、このふたつが、さまざまな職業をまとめた公的な名称として存在する。ARTISANとして中に含まれる“職人”はパンを焼く人、ペンキ工、水道工事屋、などなど、手を使ってものを作ったり、力仕事、地道に何かを築く、日常に欠かせない人々だ。

ARTISTE アーティストも、中身が多い。アーティストとつく名称も、つかない場合もある。俳優はcomedien コメディアン(舞台俳優)、acteurアクター(映画俳優), ダンサーはジャンルによって分類。日本では、サーカスの出演者は“芸人”かもしれないが、人気があり、サーカス出演者を育てる学校もあるフランスでは“サーカスのアーティスト”である。

音楽では、演奏家と歌手は別で、“楽器”を弾く人は“ミュージシャン”。クラシック歌唱で仕事をしている場合はオペラ歌手に限らず ARTISTE LYRIQUE(リリック・アーティスト)。対して、シャンソンなど他のジャンルの歌手は、CHANTEUR de VARIETE=ヴァラエティ歌手(訳が悪いが)。気をつけねばならないのは、合唱を職業にしている人々で、ARTISTE du CHOEUR (合唱アーティスト)と呼び、決して、choriste 合唱団員などと言ってはならないのである。アーチストなのである。

ARTISAN, ARTISTE, どちらにも「アート」が付くのがおもしろい。服のデザイナーは個人名をもつ“アーティスト”でも、実際に作品を作り上げるお針子さんは、職人。陶器なら、もくもくと同じ絵を何枚も手書きで描き続ける人々はARTISAN。同じ人がデザインを考えても、それは会社の製品の名のもとに売り出され、“個としての名前”は出ない。だから彼らはあくまでもARTISANなのである。これが日本であれば「陶器作家」という“ARTISTE”でありえる。

けれども、一枚一枚の陶器を美しく仕上げるために、小さな作業を熱心に、あるいは無心に繰り返す彼らartisanはアーティストなのではないだろうか、と思うことがある。辞書には(d)(優れた)職人“少し皮肉に”とある。(何故“皮肉に”と書かれているのか全く理解に苦しむのだが)優れた職人は、アーティストでありうる。“皮肉”ではなく、「賞賛をもって」。(変な日本語だ)

私がそう感じるのは、おそらく彼らの仕事へ値するまなざしのせいだ。毎日同じことをして、でも、その仕事に対して、愛情があふれている。昔ながらの“ほうき”を天然の材料で作っている人、今は珍しくなった材料で寒い中、屋根をふく人々だって、好きで続けている仕事だ。でなければその仕事を選んでいない。彼らの目が、名声を追わないアーティストであることを語っているのだ。

舞台のオモテに立つ側の私は、舞台の光の当たらないところにそんな人々がいる、と思う。「舞台を成功させよう」というひとつの目的のもと、打ち合わせと準備におわれ、時間に追われ、睡眠時間を削り、条件にもまれ、ひたすら地道に作業を進めるのが、舞台スタッフというプロの“ARTISTE”たちだ。フランスでは、公的に“スタッフ“という類の名称が与えられ、決して”職人“ではないのだが、その仕事の性格からは、職人気質を感じ、そこには必ず”ARTISTE“が、いる。

舞台にのる方の「アーティスト」は、それぞれの仕事をこなしているはずなのだが、「舞台が、コンサートが成功しますよう」と、それだけを本気で祈って本気で仕事をしている人が、どれほどいるのだろうか?アーティストという名称は、ひとつの落とし穴でもある。

CULTURE、教育と文化、芸術

日本では、午後の早い時間に学校が終わり、クラブ活動や習い事をする時間がある。子供から大人まで(たぶん働き盛りの人を除いて)、習い事はほとんど普通のことだろう。洋物から和物、楽しみのため、教養のため、いろいろな理由と目的で、多くの人がいろんな習い事をしている。

フランスでは”コンセルヴァトワール“で音楽の勉強が出来る。「音楽学校」と訳しているこの施設は、パリならおよそ各区に一校ずつある他、地方都市も、各市にあるし、小さな町にもある。国と、その市の援助金他でなりたっているようだが、一応有料。パリなら読み書きが出来るようになる7歳(小学校2年)から入れる。1年目は、「ソルフェージュ」=「楽譜を読む」勉強のみで、楽器には触らせてもらえない。クラス数に限りがあるので、申し込みの時点から、早い者勝ちだ。2年目から楽器レッスンを受けられるが、人気のあるピアノなどは募集数が限られるので、入るのに試験がある。逆に、人気の少ない楽器のクラスには空きが出てしまうので、希望のクラスに入れなかった生徒にはそういうクラスを勧める、ということもあるという。進級試験もある。

他では、アソシエーションによる教室に登録することも出来る。パリなら、たとえばパリ市が援助している(らしい)CENTRE

d‘ANIMATION アニメーション・センター、(言うなれば「文化センター」?)というものがこれまたあちこちにあり、幅広くいろんな習い事を提供している。コンセルヴァトワールは子供・若者優先だが、こちらは大人にも門が開かれている。音楽以外も豊富で、クラシックバレエからヒップホップ、体操、絵画、パソコン・・・音楽は試験がないので、コンセルヴァトワールよりは、ゆるやかに、自由にすすむ。ただ、こちらの方が費用が高い。

フランスでは平日4時半まで授業。学校が休み、あるいは半日となる水曜に習い事が集中する。この日のコンセルヴァトワールやアニメーションセンターは、子供と親やベビーシッターたちでごったがえす。

フランスの学校教育には、日本のような音楽の授業がない。中学校に入ってやっとリコーダーを吹く程度。教会や私立カトリック学校付きの“聖歌隊”はあっても、映画「コーラス」の大ヒットのお陰で「公立の各学校に、合唱隊をつくれ」とお達しがでたというのが現状である。歌う時間はあっても「楽譜を読む」勉強はしない。「楽譜」というと、顔色をかえて「それはできません」というフランス人の大人が珍しくないのは、そのせいである。譜面を読めるというのはまるで「特権」でさえある。

日本にいるときは、“コンセルヴァトワール”の名に気をとられ、フランスでは音楽専門教育が徹底していると思って感心していたのだが、実際フランス生活に入り込んでみたら、普通の教育に音楽が取り入れられていないのに驚いた。学校のあとに部活もないのでは、失業だけが理由でなくとも、不満が募るのも当然だろう。

しかし、フランスでは習い事は有料=“贅沢”なのだ。フランスの庶民の給料で生活はしていけるが、その上の”プラスアルファの趣味“は、庶民の金銭感覚では、とても高いものになる。うまい例ではないが、例えばフランスの劇場は、日本の値段と比較すれば大変安い。日本では外来オペラの数少ない学生券が、1万円以上もしていたが、フランスではその値段で、最上の席が取れるので、日本の感覚なら安いと言えるかもしれない。が、フランスではもし学生が1万円払って何かを見に行くことがあったら、”目玉が飛び出るような贅沢なこと“になる。庶民感覚では、最低の席でさえ、高い。映画も安いと思っていたが近年は8ユーロ前後となり、(一作品が普通)決して一般の人々に安いとは言いがたいものになってきた。また、ある程度の収入があっても、そういうものにはお金を払わないケチ、という人もいる。

こうなると、テレビが一番かんたんな娯楽となる。(これも年間税金として有料ではあるが)日本のようなバラエティ番組は少ないが、くだらない番組もあるし(教育番組は殆どない)、映画もそれでほぼ毎日見られる。また、フランスの田舎に住んでいたら、舞台を見ることはいちいち車での外出を意味し、面倒くさいことだ。

コンセルヴァトワールや文化センターへ「行く」ことは、「行ける」金銭的余裕があることで、庶民には贅沢なこと。学校では音楽教育がなされない。フランスの教育で、実際に“文化”にどれほど接してるのだろうか?音楽に関しては乏しく、不公平であるとしか、言いようがない。もし音楽教育が徹底していたら、もう少し、フランスの庶民は文化・芸術に関心をもつのだろうか?若者が暴れることも、減るのだろうか?

CULTURE“カルチャー”「教養・文化」を意味する言葉は、一方で「培う」という意味であり、CULTURE=「耕作」、つまり「農業」である。

「パリは文化都市」でも、「フランスは農業大国」。

学校教育の責任は大きい。

病と音楽

世の中には不治の病というやっかいなものがある。あまりにも費用がかかるため、研究治療が見放されている場合すらある。逆に、治らなくとも治療が出来て、日常生活が営めるという病気もある。私の場合は関節リウマチである。関節リウマチは現在、不治である。単なる「リウマチ」(=どちらかといえば、関節の痛みなど)ではなく、膠原病のグループに入るので、薬物治療が欠かせない。放っておいたら寝たきりになる可能性もある。近年治療法がどんどん改良され、「きちんと治療をしていれば」、ほぼ普通の生活ができる。

まだ病気だということを知らなかった頃、手があまりにも痛むので、私は20年続けていたピアノを放棄した。書くことも放棄した。自分の名前を書くのさえ、痛みで書けないほどだったのだ。病気とわかり、治療はしていたが、手首を曲げられなくなっているのに気がついたときには“手”遅れ。でも手術を繰り返し、現在はまた、そんな手首でも、多少はピアノも弾けるようになった。昔から好きだった“弾き語り”も復活し、コンサートをする気にもなった。そして、日本へ行く際に、オフ会コンサートを実現した。

患者仲間はピアノに注目していた。この病気は放っておけば進行し、手も足も変形する可能性がある。想像できるだろうか。手が痛くて、舞台に感動しても拍手すら痛くて出来ない。箸は、意思に関係なく落っこちる。(それ以前に箸をもてないが。)足に来たら、人魚姫状態となり、歩けない。無理をすれば、翌日あちこちの関節が腫れる。痛みで普通の生活が出来なくなる。私も日本にいたら、おそらく、障害者の資格を取れる。

本当は、私はまず歌手であり、“ピアニストは少し“だけなんだけど、仲間のピアノへの期待は、無理もないことだったのだろう。

オフ会のお知らせを、ネット上のまだ見知らぬ仲間にしてもらっている頃、私の掲示板に、中傷の書き込みがあった。それはどう考えても、同じ病で手を使えなくなった人が、私がピアノを弾くことに嫉妬している、としか取れないものだった。私がフランスに戻ってからも、驚いたことに他の関節リウマチ患者さんの掲示板で、そんなやり取りが相次いだ。HPの持ち主は、関節リウマチだが、趣味で鍵盤楽器を弾き続けている。書き込みは「私は同じ楽器を弾いていて、コンクールにも優勝し、続けるために大金をかけて防音室も作ったが、関節リウマチになり、すべてあきらめた」というものだった。

しかし、決して「だから頑張ってください」というためではなく、「あなたは、音楽を続けていて図々しいですね」としか、としか理解できない誹謗だったのだ。

音楽療法というものがある。一方では、結果としてはげましや希望を生み、治療もなりうるはずの音楽なのに、それが逆に嫉妬を生み、病気の人々をさらに苦しめる。

一般には、悲しいときには歌いなさい、とか、音楽のお陰で癒され、元気が出た、ということが多い。けれども私はそれが通用しないということも体験した。心底まで悩んでいたときには、うたうなんて、そんな力は出なかったのである。音楽は、苦しむ材料でしかなかった。

個人的には、音楽は純粋に単なる音楽であり、芸術であってほしい、と思っているのだけれど、同時に音楽の力は、はかりしれない。

いつのときも、音楽に、ポジティヴにその力があることを望みたい。

(vol.2 「CULTURE、教育と文化、芸術」へつづく)