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2009年9月のコラム


「祭りの準備」

 横浜のバンクアートで、大野一雄フェスティバル2009が開かれている。
今回はピナ・バウシュの追悼展と、舞踏の始まりという『禁色』にまつわる舞台や討議、海外からの来日公演もある。ダンストリエンナーレ東京は青山劇場などで開かれた。これは内外からカンパニーやダンサーが集まり、ほぼ毎日、公演、ワークショップ、レクチャーなどを行い、ダンスフィルムも上演された。

 今年は行けなかったが、越後妻有のアートトリエアンナーレでも、美術とダンスのコラボレーションがいくつもあった。また、新潟で開催されている水と土の芸術祭でも、舞踏家が踊っている。近年は美術のフェスティバルで、ダンスや舞踏が参加することが多い。昨年の横浜トリエンナーレは身体表現に焦点を当てていた。

 ダンスやアートのフェスティバルもいわば一つの祭りだが、同じ身体でも、スポーツの祭りで頂点にあるのがオリンピックだ。そのために再開発をして経済効果を期待するのは、景気振興策としてよくわかる。しかし巷の人々は至って冷静、悪くいえば無関心だった。始まれば熱中するのは、ワールドカップでも同じだったが、やはりひとときの祭りにすぎない。人々はいまスポーツに税金を費やす必要はない、それより介護や年金問題に対応してほしいと願っているのではないか。毎日世界のサッカーや野球が放映され、日曜の昼はスポーツ番組で埋め尽くされ、スポーツは氾濫しており、1964年とは状況がまったく違う。

 また、ワールドカップでもそうだったが、スポーツは基本的に戦いの場であり、国際競技会は国家意識の発揚の場となる。すると「愛国心」が流行る。政治家が求めるのは経済と国威発揚だとしたら問題だろう。この祭りの夢が消えたことを惜しむ人はどれだけいるのか。そしてその準備のツケは誰が払うのだろう。税金を使って音頭を取った政治家やタレントに払ってほしいと思うのは、僕だけだろうか。

(2009/10/5 志賀信夫)


この頃、「あとがき」のない本が多くなっているような気がする。
目的もなく、ただ活字にまみれたくて本屋さんに行って、お気に入りの作家のものでも、新しく見つけたものでも、とにかくページを繰るのが楽しみで仕方がない本を買い込み、家で本格的に読む前に喫茶店でひと呼吸おく。
その時、本文は読まずに目次とあとがきをまず愛でるのが、私に限らず本好きの嗜好であると思うのだけど、その楽しみのあとがきがない。小説ならば、目次もないものも多い。

なきゃいけないものでもないし、ないほうがいい本もあったりするけど、でも、あって欲しい。
書きたくもない「良い子の」読書感想文の強い味方でもある「あとがき」。

作家の考え方によって、あとがきで作家の言い分を書くことを潔しとしない人もいるのだろう。
言い分=言い訳みたいで、小説を書き終わってから(読み終わってから)の照れが垣間見えてしまい、興醒めになることもあるし、あとがきがないことで、物語世界にどっぷり浸かっていて欲しいというメッセージでもあるかもしれない。
一方で、あとがきは作家の余裕でもあるかと思う。
雑誌に連載されたものでも、書き下ろしでも、その筆を置いた直後に出版された単行本には、あとがきがないのが多いような。。。
そのような本には、説明不足の部分がややあったり、誤字脱字が多くて、リサイクル書店にすぐに安価で出回るような、まぁ読み捨てる雑誌に近い感覚で出版されたイメージもある。
そういう本が増えると、書籍のデジタル化もやむなし。というか、それでいいよと思ってしまう。
買いにいく手間も時間も、保管する場所も、さらにリサイクル書店に持っていく手間もかけたくないから。

中身には影響がなくても、もくじやあとがきは装丁の一部のようなものだと思う。

そんな中で、つい最近買ったのは「圏外へ」(吉田篤弘著:小学館)。
小説家より、デザイナー、装丁家としてのスタートで書物の世界に入った人だけに、小説の中身も装丁・ブックデザインも楽しみな作家。
中身の活字は目に入れないようにして、装丁、本の姿をまず楽しんで、それから「あとがき」をと最後のほうからページを繰る。
と、そうだった。この人はいつも「あとがき」がないか、「あとがきにかえて」として物語のタクトを置くのだったっけ。と思い直し、でも、もしかして今回は「あとがき」があったりしてと、ドキドキしながら、めくってみる。
この本は、ペーパーバックのようなガサガサの紙で刷られていて、かなりな厚みにもかかわらず、軽い。
等間隔に木目のように黒い筋が天地や小口から見える。数ページ、真っ黒のページが間にあるってことか。
ここに物語の仕掛けもあるのだろう。
やはり、「あとがき」はなく、物語の終わりとおぼしきところから、真っ黒いページが続く。
早く読みたい!でも、読み終わりたくない!と、なんとそそる「あとがき」か。

(2009/9/28 WADA)


下町に学ぶ

 向島を案内してもらった。この地は下町、木造住宅が密集している。関東大震災、東京大空襲などに遭い、隅田川河岸のため以前は水害も多かった。そして永井荷風が『墨東奇譚』で描いたように、色街、花街だった。その名残は建物に表れている。いまも芸者のいる料亭街があり、かつて春をひさぐ女性たちがいた店の建物も残っている。玄関の装飾などが妙に凝っていたりするのだ。
 ここを歩くと挨拶が飛び交う。案内してくれた人は、山登りで人がすれ違うときの挨拶と同じで、習慣だという。「向島村です」と笑う。小さい町工場も多く、移転して分譲住宅も増えている。しかし狭い路地には古い住宅が密集する。最近、若いアーティストなどが下町に住み始めている。小さなカフェもできた。外国人や大学生なども気に入る人が少なくない。レトロな雰囲気ももちろんだが、ご近所付き合いで人の暖かさに触れることも一因のようだ。

 いま、人との交流がどんどん狭くなっているように感じる。近所の人と話をいつしただろう。必要なことだけ連絡し、それ以上の交流を持たない。仕事、遊び、やりたいことがたくさんあって忙しい。しかし自分のことばかり考えるのは、引きこもりや心身症の原因ではないか。
 マンション住まいも交流を減らす一因だ。入れ替わりも多く、回覧板も扉の前に置いていく。しかしテレビやゲームには時間をさく。歩きながら携帯ゲームをする大人、新しいゲーム機やソフトに並ぶ40代を見ると、閉じていると感じる。
 いきなり下町に移り住むのは無理だろう。むしろマンションでも交流をすればいい。入り口、エレベーターで挨拶、ちょっとした会話。それだけで顔見知りになる。若い女性に声をかけると、胡散臭がられるかもしれない。子どもは視野が狭く、なんでも「うざい」と思う。おせっかいなおじさんに思われるかもしれない。それでも、挨拶くらいは…。下町を歩きながら、そう思った。

(2009/9/7 志賀信夫)


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