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2009年6月のコラム

環境と嘘


 地球環境という言葉も一般的になり、温暖化対策、エコが当たり前になってきた。しかし違和感を抱く。洗って分別されたゴミも、実際は紙ゴミとともに焼却されたり、埋められたりしているという。リサイクルには手間、つまりエネルギーとコストがかかる。それを補助金や優遇税制で補う補助金行政。燃料電池は究極のエコで環境負荷が下がるというが、それを作るコストと環境負荷はどうなのか。電力の大半は原子力と石油・石炭燃料に頼っている。石油で直接車を走らせることと、それを電気に置き換えて使うこと、エネルギーのロスは考えられているのか。
 エコビジネスは温暖化や環境破壊を旗印して産業発展を求め、エコと発展は両立するかのように装う。厳島神社に光が灯る風景にエコの文字の広告。灯篭と付近の照明を電球型蛍光灯に変えたというが、蛍光灯のコストは10倍以上。そのためのエネルギーが消費される。
 地デジで膨大に出る旧テレビ・ビデオなどのゴミはどうするのか。高速道路の千円化はマイカーの人出を増大させ、二酸化炭素は確実に増えた。官庁も企業も都合のいいエコを掲げるが、景気を刺激し利益を得ることが眼目ではないのか。議論はいつの間にか二酸化炭素の排出量取引になっている。数字のやり取りでは実際の排出量は減らない。株価取引以上の虚構だろう。
 まずは手間、つまりゴミ分別の効果について、個々の自治体が実態を示すべきだ。エコを信じて費やされる人々の労力、エネルギーは無駄になっていないか。容器を洗う水の環境負荷はどうだろう。10年ほど前のダイオキシン騒動は幻想だったというが、いまの温暖化問題は10年、20年後には幻想になりはしないのか。少なくとも、環境負荷の大きい自動車産業や電気産業の口車に乗って、エコカーや大型冷蔵庫などへの買い換えは巨大なゴミを生むことを考えるべきだ。私たちも物欲をエコの名でごまかしてはいないだろうか。

(2009/6/29 志賀信夫)


TVCMを見ていて、せりふが聞き取れないことがある。もとより、見よう・ 聞こうと心がけているものでもないから「え?いまなんて言ったの?」と思っ ても、そのまま。 同じCMで何度かそういうことがあると、冒頭のコピーなり、曲が流れると、 不明のせりふを聞き取ろうと集中する。が、やはり聞き取れない。 それが、突然ハッキリと聞き取れる日がやってくる。 これは、耳が慣れたのではなくて、聞き取れないというクレームがあり、音だ けを編集しなおしたのだろうと思う。 放送する前に、指摘する人はいなかったのかと思うけど。 もしかしたら、わざと聞き取れないようにしてCMに集中させる作戦なのだろ うか?とも考えてみたけれど、聞き取れないCMはただ「聞き取れないCM」 であって、コピーや曲も、今日こそ聞き取るぜのスイッチでしかなく、何のC Mなのかは興味の対象ではない。 そして、晴れて聞き取れた日に、すべての興味は失われてしまう。 だから、作戦だとしたら、失敗だろう。 耳に入る音、特に声は耳に入るかだけでなく、どう届くかがとても大切だと思 う。 NHKのアナウンサーを連想させるような落ち着いた声と、ごく普通の話し声 では、声の様子で耳が話の重要さをふるいにかけて、小さい声をふるい落とし てしまう。 同時に正反対のことを聞いたとしたら、アナウンサー風の声を支持してしまう と思う。 犬や猫も、怒った口調・やさしい口調、また悪口を言われているような口調を 聞き分けていて、実際の話の内容を理解しているわけではないという。 ネコナデ声で叱ると猫のノドはゴロゴロとなってしまったり。 だから、怒ったような声の大きな鋭い人は、犬猫にあまり好かれないらしい。 あるローカルテレビ局で、休日の昼間にプロ野球中継がある。 ベテランと思われるの男性アナウンサーの実況と、現役の時はそこそこの成績 と活躍と人気のあった元プロ野球選手の解説。 いつも、この2人の組み合わせ。 アナウンサーは、NHKを定年退職後フリーとなり、この実況を担当している、 ような雰囲気。落ち着いた声で信頼感がある。 元プロ野球選手は、声の質があまりよくなく、また訛りも少しあって、人前で 話す訓練は受けていないだろうという様子。ハッキリ言ってざわざわと耳障り。 この頃は、アナウンサーも実況だけでは収まらず、野球理論や精神面がどうの と、よく語る。 このベテラン(っぽい)アナウンサーも同様で、プレーごとに感想・質問を交 えて、解説者に話を振り、持論を述べる。 が、よくよく聞いていると、このベテラン(っぽい)アナウンサーの話すこと は的を外れたことばかり。解説者に「いや、今のはですね・・・」と反論され たり、ルールの間違いを指摘されたり。 解説者は言葉少なで朴訥ながら、当たり前のことを正直に語っているようだ。 言葉を選びながら実況の間違いを指摘したりと忙しい。 アナウンサーをベテランっぽいと判断するのは、解説者がアナウンサーを立て る様子が、だいぶ年上の人なのだろうと感じさせるからだ。 暇に任せて、じっくりと聞いていると気付くけれど、ただ聞き流していると、 解説者の声は雑音になりがちだ。 この二人が何かの討論をしたとする。解説者の意見が正論だとしても、アナウ ンサーに押し切られてしまうのではないか。 大きくて、よく通る声。それが、大多数の意見とか正しい意見と思い込んでし まうのではないかと、ちょっと心配。

(2009/6/22 WADA)

●「死を描く」

 原爆の図を見た。丸木位里・俊夫妻による連作である。名前を知っている人は多い。しかし実際に本物を見た人はどの程度いるだろうか。僕も広島の資料館かどこかで見たように思っていた。そしてこの日曜、埼玉の丸木美術館を訪れた。

 絵の前に立ち、我を忘れた。特に1950年から52年にかけての絵が恐ろしいほど魅力的だ。唯一無二の芸術である。広島出身の位里と北海道出身の俊が、原爆投下数日後に訪れたその地で見た光景、家族や人々から聞き写真で見た姿などを元に描いた。ほとんどが死骸や傷ついた肉体でありながら、悲惨さやグロテスクさというより、例えようもない美しさが伝わってくる。肉体の多くは裸で、エロティシズムも感じとれる。それは何よりも死体を亡きがら、死んだ「もの」としてではなく、生きている存在として描こうとしているからではないか。

 現在80歳を超えた美術評論家ヨシダ・ヨシエは、かつてこれを背負って1950年代に巡回展を行った。その後、作品は海外各地を巡り、反戦を訴えるという役割を50年以上果たしている。しかしそれ以上に作品として美しく魅力的だ。破壊され、どこまで姿を壊されようと、肉体そのもののもつ美が描かれている。 最近、松井冬子などによる屍体の絵画が紹介される。しかし、これはそういったセクシュアリティや想像力を喚起する作品ではない。肉体の美が作品の美として現前している。位里(いり)は妻、俊(とし)とともに、日本画の新たな表現を追求し続けた。俊(とし)はかつてミクロネシアに渡り、裸体の美しさに惹かれてそれを描き出そうとした。この男と女、両方の視線と感覚が重なって一つの作品を生み出したところに、作品の魅力があるのかもしれない。

 原爆の図の作品の力、肉体、身体の力に圧倒される体験は初めてのものだった。死を描くことの意味、死と肉体の美しさについて、森林公園に近い川のせせらぎを聞きながら、考える休日だった。

(2009/6/15 志賀信夫)

全国刑務所作業製品展示会・全国刑務所作業製品即売会というのに行ってきた。
「懲役受刑者に改善更正を目的とした刑務作業を実施(パンフレットから引用)」し、作られた製品の展示即売会だ。
初めて行ったのだけど、どこにもマニアのかたはいるようで開場時間前から長蛇の列。
つまり私も開場時間前に並んでたわけだけど。
年に一度のこのイベントを楽しみに待ってた人がかなりいらっしゃる。

製品のクオリティはかなり高い。
全国の名産品の職人が本気で手取り足取りの指導をしているそうで、ナントカ大臣賞受賞作品として全国工芸展などに並んでいてもおかしくないほどの、製品がたくさん。
実際にナントカ大臣賞と貼ってある家具などもあったが、さすがにここは法務大臣賞だったりする。

木工品も食品や野菜も、疑いようもなく純国産品で、製品検査は万全。作った人の名前はもちろん明らかにされたりはしないけれど、今の日本で出所のはっきりしている製品であることは随一だろう。

「お味噌が美味しい」と前々から聞いていたので、お味噌を買って、あとはちょっと冷やかす程度で、と思っていたものの、製品が豊富で真面目な仕事、値段が安いといいこと尽くめ。
桐の下駄は1500円〜1万円。フルオーダーの紳士靴が4万円を切る値段と金銭感覚が崩壊しそうだった。
家具も、量販店には置かれそうもないほどいいものが量販店以下の値段。
これほどにいいものが並んでいるとは想像もしていなくて、会場を何度も回って大興奮。
来年も絶対に行こうねと友人と誓い合う。今年前半で、一番楽しいショッピングだったと思う。

気にする人には出所のはっきりしている部分がネックだと思うけど、会場で店員さんをやってた人によると、こういう場だけでなく一般市場にもかなり出回っているそうだ。

ところで、木工品のコーナーに茶道の茶箱手前に使う茶筅筒と棗があった。きちんとした塗り物で、銘などはもちろんないけれど、お稽古で使うにはもったいないくらいの品。
これらは、茶箱に入れてセットとして売られているのが普通だけど、見たところ茶箱はない。
担当のかたに「茶箱はないんですか〜?」と尋ねてみると「そうなんです!セットにしたいんですけどね〜、茶箱つくれる人、出ちゃったんですよ」
横にいた友人は、茶箱は別に売れてしまったと解釈したのだけど、茶箱を作れる技術を持った受刑者が刑を終えて出所したということ。
後継者不在なんですね〜と、担当のかたと笑い合ってしまったんだけど、これは喜んでいいのかイケナイのか。
ある程度のレベルのものを作るには、熟練までの期間が長いということで、それは、ねぇ、それなりの罪を犯したわけで、いいものが多いことをどちら側に立って考えればいいのだろう。

家具のうち、鹿児島刑務所では、屋久杉を使った伝統工芸と言える応接セットもある。
他にも、駕篭?笥や御神輿や剣道の防具セット、将棋盤、南部鉄器、萩焼、備前焼。
会場にはなかったけれど、仏像などもあるそうだ。
こういうものを作れる職人さんが減っている中で、受刑者という人々がその技を受け継いでいるのは、ホントになんともコメントのしようがないのだけど、実際に製品を見た後では、「頑張ってください・偏見に勝って」と言うしかない。

屋久杉の家具などは、何百万円もするし、一般家庭には立派すぎる?笥なども市価に比べれば格段に安いとはいえ、やはり100万円近い。
それらには「予約済み」と札がついていたりして、この日を待って買った人、また実物を見て予約をする人がかなりいる様子。
値段は何百万円とついているけれど、制作者には月2万円程度しか手元には渡らないそうだ。
特別なものを作った人には、それなりに出所時に手当が渡されるのだろうけど、自分が作ったものを「すごいね〜見事だね〜」と言いながら見る人の様子を見てもらいたいと思う。

そして、会場には裁判員制度を知らしめ、理解を求めるコーナーもあった。
この場ではどうだろうと思ってしまう。

(2009/6/8 WADA)

●「神の日」

 日曜日、知人の展覧会で銀座に出た。日曜日、ギャラリーは休みが多い。月曜から土曜という展示期間がほとんどだ。他にも二つ知人の個展があったが、休みで見られない。考えてみると、普通の勤め人にとって、ギャラリーは行きにくい。平日は6時か遅くて7時まで。1週間の会期で、やはり行けるのは土曜しかない。
 個展への道すがら、ロンドンからくり博物館なるものを見つけて覗いてみた。小さいが銀座の一等地で、入場無料。だが、からくり人形を動かすためにはコインを買って入れなければならない。そこで外国人と知りあって、知人の個展に連れていった。客が少なく、日曜、ギャラリーは休みが多いという話をしたら、日曜の休みはキリスト教と関係があるのかと聞かれた。
 1週間、1カ月と意識せずに使っているが、太陽暦と曜日はキリスト教に基づいている。その米国人に教会に行っているかと尋ねたら、米国で日曜礼拝に行くのは白人以外が多いといわれた。そういえば、子どものときに、日曜礼拝も何度か行った。親が信者じゃなくても、子どもが集まってきた。
 米国ではミュージシャンなどが、日本の新宗教を信じて、その関係で来日することがある。南米でも日系社会を中心に、かなり広まり、アンゴラでも信者がいるらしいのは、ちょっと驚きだ。一方、モハメド・アリはイスラムに惹かれ、ヒッピーはクリシュナ教にはまった。
 異文化社会の宗教に惹きつけられるのは、古今東西同じかもしれない。ただ、太陽暦と世紀、月や曜日の浸透は、キリスト教文化の圧倒的な影響力を示している。もちろん曜日を変えて、西洋文化に抗するつもりもない。ただ画廊、ギャラリーは日曜開廊だといいと思う。そのほうが、もっと客がくるのではないか。美術館と合わせて月曜休みという手もあるのではないだろうか。実は画廊の人々、ギャラリストは日曜に美術館に行く。だが、バイトでもいい、日曜やっていると、もっと訪れる人は増えると思う。

(2009/6/1 志賀信夫)


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