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2009年5月のコラム

子供の頃からずっと、今の季節になるとツツジの色は目に痛いと思っていた。
そして、ツツジとサツキの違いについては、頭が痛い。
ウェブでざっくり調べてみると、サツキは「サツキツツジ」というツツジの一種だという。
ツツジに比べて遅く、5月頃に咲くのでサツキだとか。
旧暦五月のことなので、今の暦で言えば6月半ばに咲いていたらサツキなのだろうか。
いやしかし、ツツジの一種なのだから、旧暦五月に咲いたってツツジと言ってもいいわけだ?
他にも、葉の長さや形が違うとか見分けるポイントはいくつか挙げられていたが、目の前のこの花がどちらか?についての決め手はわからずじまい。

この季節、家族とくに母親と散歩することが多かった。植木市に連れて行かれたり、植物園に連れて行かれたり、そういう道々で「ツツジだ」と言えば、「あれはサツキ」と直されて、その隣を「サツキ?」と聞けば、「ツツジでしょっ!」と何もわかってない子扱いされてきた。
母も、ちゃんとわかっていたのかは怪しい。
そんなこともあって、ツツジにもサツキにも思い入れは特になく、どちらかといえば、避けて通りたい花でもある。

そして、避けて通りたいもう一つの理由が、その色の鮮やかさだ。
渋い和の色を好む爺むさい子供であった私には、どうしても馴染めないキツい色。
若葉、新緑のグラデーションが美しい中に暴力的とも言える、あの赤。
これこそが「くれない」という色名なのだが、もしかしたら、この世の花の中でいちばん苦手な色かもしれない。
これが南国原産で、その陽射しの中ならば、鮮やかな花の色も(好みは別にして)受け入れることはできるが、日本庭園の築山に咲くツツジ(だかサツキだか)は、目を瞑って通り過ぎたい色。
まして、その紅と葉の緑は補色の関係。結構クラクラする色遣い。

とはいえ、ツツジ(だかサツキだか)にも、甘い思い出はある。
子供の頃、三軒先のカズエちゃんに教えてもらった遊び。
ツツジの花をむしり取り、その花の根元から蜜を吸うというもの。
カズエちゃんからは、ワイルドな遊びをいくつも教えてもらって、今もまだ手足に残る傷跡のほとんどは、彼女と一緒にいた時についたものだ。
そのカズエちゃんは、今時分に公園などに行くと躊躇せずに植込みに入り込み、茶摘みのようにツツジを摘んでは吸っていた。
彼女の通った後には紅の花びらが投げ捨てられていた。
真似して吸ってみたものの、やり方が悪いのか甘いような気もするが、彼女ほど夢中になって花をむしり取るほどの美味しさは感じられずに、カズエちゃんの気の済むまで待っているイライラを思い出す。
ということは、甘い思い出ではなく、痛い思い出なのだなぁと思う。

(2009/5/25 WADA)

●風邪気味

 インフルエンザ騒動はすごい。他国ではここまで騒いでいないようだ。だが、仕事で鳥インフルエンザの原稿を書き、最前線の担当者に取材もしたので、日本の対応はマニュアル通り進んでいると思う。むしろ危険なのは風評、噂によるパニックだ。それを助長するのがマスコミのような気がする。報道の自由の名の元に、専門家の意見を拡大解釈して流す姿勢が時折、透けて見える。危険を煽ることがジャーナリズムの使命のような勘違いがまかり通っている。
 感染症対策は自由の制限を伴う。最も危険な状態になれば、報道を含めたさまざまな活動が制限される。人間とウイルスの戦争であり、民主主義的手続きも含めて、個人の自由を制限しなければ戦いに勝てない。少なくともしばらくの間、すべての国がこの件について統制社会的にならないと防げないのだ。それは、今回の「停留」措置を拡大してみれば、想像できるだろう。
 『クライマーズ・ハイ』を見た。小説も読んだが、映画も面白かった。御巣鷹山の日航機墜落事故とそれを報道する地元紙を描いたものだ。スクープ取り、社内の意地のぶつかり合いと災害の現実が描かれ、新聞、公器もきれいごとではないとよくわかる。
 こう書くうちに神戸、関西での感染拡大が報道された。幸い早期に対処すれば軽症で短期に治るという。香港風邪のように強力なウイルスに変異した場合や、鳥経由の新型インフルエンザが入ってきた場合のシミュレーションとしても、今回の対応を生かせればいい。それは政府などの対策機関のみならず、マスコミの報道についてもそうだろう。
 『クライマーズ・ハイ』で、事故現場を取材して興奮する記者に、主人公が発する「500人はお前を調子づかせるために死んだんじゃない」という言葉は、かつてその地方紙に所属していた作家のリアリティであり、マスコミに対する警鐘である。少なくとも今は、インフルエンザ熱に浮かされないようにしたいものだ。

(2009/5/18 志賀信夫)

昨年のこの時季は、奈良薬師寺の日光菩薩・月光菩薩がいらっしゃってた上野。
今年は阿修羅だぜぃ!

行かずとも見られるというのは、貴重でありがたいことではあるけれど、私は、音楽でも美術も神社仏閣(宗教と言い切るには抵抗があるので)も現場主義なので、出開帳の仏像には「いつもは見られない角度」の邂逅を期待する。

ガラスケースなしというのが、最近の出開帳の傾向のようで、今回の阿修羅展も阿修羅立像を含む[八部衆]と[十大弟子]を遮るものなしに間近に見ることができる。

興福寺の伽藍は広大でそこにいくつものお堂があり、それぞれに中尊が世界を作っておられる。
晴れて暖かい日にしか行ったことがなく、あおによしというよりも、もうちょっと水分や日陰が欲しいと思うなか、ひんやりと湿った空気のお堂と、その均整のとれた世界観は何ものにも代え難く、心拍が落ち着いていくのがわかる。

という体感は、やはり博物館での展示には期待できないが、見せかたの工夫は格段に進歩していると思う。
長方形の広く天井の高い空間に、[八部衆]と[十大弟子]が向かい合って立つ。
真後ろに回り込むことはできないけれど、360度の鑑賞が可能。
どうしても「ありがたく拝観させていただく」のではなく、「ジロジロと射るように見つめる」ことになってしまう。
異形の[八部衆]と僧形の[十大弟子]が向かい合うのは、異文化の国際会議の様相でかなりシュールであるが、この展示室の四隅に立ち、すべての仏像を一度に視界に入れるのは、なかなかの眺め。
それぞれが彫刻としての、計算され、立ち続ける姿の完璧なバランスがよく見えて、かっこいいんだ!これが!

[八部衆]のうち、阿修羅立像だけが別室で円形ステージに立つ。
「見るたびに思ったよりも小さい」というのは、誰もが阿修羅立像に持つイメージで、今回もそう感じた。
興福寺国宝館で見るときよりもさらに小さく、もっと言えば貧相に見えてしまう。
いつもいつも、ものすごく美化して記憶しているらしい。
[八部衆]の他の仏像には感じない、この痛みとか欠けたるものへの感情が、阿修羅だけ特別視する日本人の宗教観かもしれない。
(まぁ、阿修羅だけ裸だからねぇ。。。)

可哀想な感じの阿修羅立像をみんなが取り囲んでじろじろ見る様子に、阿修羅の寄せた眉間の皺がさらに深く、虐められっ子の表情に見えてきて、ちょっとばかりテンション下がる。

次の展示室は、壮大!
鎌倉時代の慶派隆盛の中金堂を、かなり分解した展示で魅せる。
もうこれは、ホントにお寺感覚ゼロ。
それぞれに当てられるライティングから浮かぶシルエットまで演出され、誰もがカメラを構えたくなるフォトジェニックな四天王がジグザグに並ぶ。
かっこいいとしか言いようがないですから。
サモトラケのニケやミロのビーナスの欠けているからこその美に通じる[八部衆]五部浄の痛みとか、阿修羅の悲壮感を否定するように。
四天王にしても、お顔の彩色はかなり落ちている。でも、それが歌舞伎の隈取りと錯覚しそうな強さに見える。
強調されたポーズの細部にまで集まる力は、暴力や権力でなく、父性・母性の強さである安心感、まさに守護の力だと思う。

そうして見ていくと、お寺のお堂に仏像で表現される世界は、本当によく出来ているなぁと思う。

四天王の位置からも、どうしても視界に入る大きな薬王菩薩立像と薬上菩薩立像。
こちらも大きい。
4メートル近くの大きさで、美しく優しいって、どうして?

この展示室になると、かなりフェードアウト気味ではある。
[八部衆][十大弟子]で苦みに浸り、四天王で熱い血流を感じたあとに、大きくて優しい菩薩を見上げ、見下ろされ、釈迦如来のお顔を間近で愛でる。
化仏や飛天の無垢な表情を見るうちに、シンフォニーの最終楽章、タクトが止まったのちの余韻に浸る。

(2009/5/11 WADA)

休み時間

 毎年、ゴールデンウィークは一つくらい「らしい」イベントがあるが、あとは日常と変わらない。「捨てられない人」の状態の部屋を片づけるという大望を抱くのだが、着手できないうちに終了してしまう。やむなくパソコンを手にして、あわててコラムを書く。

 今年は、ある美術家が埼玉の山の中で一週間、焼物窯で窯入れをするというので、遊びにいった。毎日十人以上の男女が、手伝いつつ飲みつつと集まってくる。薪割りをしてみたり、初めて会う人たちと話しつつ、馬を撫でたり、特に何をするでもなく過ごす時間。驚くほどリラックスした。自然の中で行われるダンス白州やトリエンナーレなど屋外のフェスティバルには、毎年出かけるのだが、このリラックスはどうしてか。ちょっと考えて、ようやく思い当たった。ほとんど時計を見なかったからだ。
一晩で見たのは3回くらいか。何となく、そろそろという感じで、薪をくべたり、飲んだり食べたりした。
普通は、いつも時間に追われている。屋外の展覧会やフェスでも、公演時間やいくつ回るなど、結局、時間が気になる。よく「舞台は待ってくれない」というのだが、始めの「出」には遅れたくない。そこに舞台の一つの重要なポイントがあるからだ。「出」はいいのだが、そのあと失速するという舞台も多い。だが、いい場面がある可能性が高いのは、やはり「出」だ。観客の緊張のなか、一歩を踏み出す踊り手の緊張は、想像できないが、そこがまず重要だろう。そうやって土日、何本も梯子をして回ると、時間に追われる。

 たった一晩だが、窯焚きを見ていて、いろんな意味で贅沢だと思った。もらってくる薪だというが、一晩でかなりの量を費やし、常に火がある。そこに何人も集い、時には土にまみれる。そして来た人の音楽や会話を楽しむ。こういう時を過ごせることがなかなかない。時間に追われる自分を改めて認識した。こういう休み時間が必要なのだ。

(2009/5/4 志賀信夫)


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