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2009年4月のコラム

2003年4月21日のコラムに「携帯電話が使えないのは、たぶん今日だけ。
なのに1000円のカードを買ったら、使い切るまでに何年かかるんだろう?」と葛藤しながらも、1000円のテレホンカードを買った、と書いています。
そのテレホンカードを、先日、ようやく使い切りました!
実に6年間、使い続けたというか持ち続けていました。
1000円のカードは「105度数」という今では使わないような単位。携帯電話の圏外の地下から、病院から電話を架ける時だけ使っていたのですが、今思えば、そういう場所は多く、公衆電話とテレカというのは便利です。
もう、テレホンカードをどこで買えるのかも思いつかないのですが。
このテレホンカードはちびちびと、滅多に使わないものだから、どのくらい残っているのか、使うたびに足りるだろうかと思っていたものです。

残り22度数のカードを公衆電話に入れ、北海道に電話して、使い切りました。
気持ちがいいほどに、見る間に度数が減っていき、あっという間に警告音が聞こえます。
話はまだまだ終わらないので、財布を取り出し、100円玉をガンガン投入。
すっかり公衆電話のシステムを忘れていて、ありったけを入れたコインがどのくらい使われているのか、把握できないまま、ドキドキ。
電話の会話も大事な話だったのですが、それもうわの空で正にこの時の私は「目が点」状態。
電話ってこんなに高価いものだったんだ。。。

メールを使わない相手に急いで連絡をとるには、電話しかなく、大事な話なだけに「あぁ電波が〜」ということがないように公衆電話でかけたのです。
大したことのない用事は電話。記録をとっておきたい用事はメール。
ネットワークはこういう使い方に切り替わっているのだと確認した次第。
「詳しくはメールするから!」と言うためだけに電話することもあります。

それにしても、電話料金って。
携帯電話での通話は、キャリアや料金プランによって差はありますが、時間で課金されるのが通常です。
距離は関係なし。
IP電話やSkypeを使えば、通話そのものは無料というものもあります。
公衆電話で遠いところに電話するなんて、ものすごい浪費をしてしまったと軽く落ち込んでいます。

(2009/4/27 WADA)

●見ることと書くことと

 先週末、舞踊批評家協会賞の授賞式が行われた。今年で40回、毎年1回で40年続いている。この会の特徴は、すべての舞踊を対象とすることだ。1年間の日本舞踊、バレエ、モダンダンス、コンテンポラリーダンス、舞踏、ジャズダンス、フラメンコ、民族舞踊など、あらゆる舞踊公演から本賞と新人賞を数名決める。そのため、時には日本舞踊の人間国宝とスキンヘッドの舞踏家が一緒に並ぶという場面も生まれる。会員も30代から90代まで、日舞、バレエ、舞踏など専門が異なる批評家が一緒に討議する。
 批評家は嫌われ者である。舞踊に限らず表現者は、自分の舞台や作品を評価してもらいたい、誉めてもらいたいものだ。しかし批評家は批判的な発言も発するし、大きく傷つく人もいる。「批評家は必要悪だ」と公言するダンサーもいる。だが、批評家自身も表現者として、評価されたいのだ。
 この会の祝辞で年長の批評家が、批評があるから舞踊が残ると語った。実際、80年前のある舞踊家の来日公演を調べたときに、当時の批評が非常に役立った。印象批評もあれば衣装や音楽について事細かに記したものもあった。それらを重ね合わせると、舞台が手に取るようにわかる。さらに、批評の表現が現在とさほど変わっていないことにも驚いた。80年たっても批評は進歩していない。批評家協会は40年だが、この先40年でどの程度変わるのだろう。
 いや、舞台も長い目で見たら、5年や10年の変化はなんでもないかもしれない。それでも、一つ一つの舞台はそれぞれ違い、一過性、その場で消えていく。20名、10名しか観客がいなくても、観客に響く舞台がある。そういう舞台に出会ったとき、書く。観客として体験するだけでは、記憶から薄れて、消えていく。だから書く。そういう役割だけでも、批評を書く意味はあると思い、毎日舞台に足を運んでいる。もちろん時折、来るんじゃなかったと思うこともあるのだが。

(2009/4/20 志賀信夫) 

私は語学がまったくダメです。
困る場面がないわけではないけれど(現在、外資系企業に勤務だが)、周りにいつも通訳クラスの達者な人たちがいるので、「まぁ、いっか」で済んでます。
通じる英語を使える人って、必死で勉強したのではないんですね。
いきなり海外赴任したり、帰国子女だったりで、必然で英語(または他の言葉)環境に放り込まれた人の場合は、英語同士の会話を聞いていても、スムーズに流れているように感じます。
逆に、必死で語学学校に通うなどの勉強をした人の英語は、なにやら耳障りで、会話が続かない様子。
職場に、超一流英会話スクールに10年通っている人がいるんだけど、この人の英語がいちばん通じません。
どんな会話でも、「I am」か「this is」からしか始められないので、相手が主旨をつかむのに時間がかかります。
そんな会話を聞くにつけ、英会話スクールに行くのは止めようと思ってしまいます。
英会話スクールが悪いのではなく、この人の性格というか、そういうもののせいだと思いますが。
この人からしたら、英語の質問に平気で日本語で返す私は、信じられないというか赦しがたい存在だと思います。

聞くのと読むのは、なんとかなるものの、応えるのは、難しい。
日本語でも、いい加減に頭にうかんだ言葉を、どうオフィシャルに変換するのかが気を使う点ですが、英語でなんか無理ですから。

中学生頃に聞いていた洋楽を、最近、聴き直す機会がありました。
いやあ、ビックリ!
けっこう、聴き取れるようになっています。
聴き取ると同時に、感覚で意味を理解できてる。
そういえば、百人一首も繰り返し聞いているうちに、突然に意味が閃くことがありました。
源氏物語や紫式部日記も何度か繰り返していると、現代語訳にすることなく、云わんとすることが掴めているのです。
子供が母国語を話すようになるのも、そういうものだし。
ああ、そうか、語学はこうやっていけばいいんだ、と開眼して、そのまま。
「これならいつでもできるもーん」

(2009/4/13 WADA) 

●桜と花火

 この休みはライブイベントに出たために、盛りの花見には参加できなかった。会場が吾妻橋だったので、大川、つまり隅田川沿いの桜はよく見え、集う人々を後目に会場に急いだ。
 一日開けてテレビを見ると、テポドン打ち上げが話題になっている。日本を超えて太平洋の彼方に消えた。ただロケットを追尾できていないのには驚いた。そして打ち上げの誤報。
 日本の軍備は実戦的でなく、軍需産業と米国追従、右翼対策のためなのではないか。世界の趨勢は軍備を縮小し、人道支援、国際協力に回すことだが、日本ではODA悪玉論が根強い。実はODAは右翼左翼両方から攻撃されてきた。NGOは左翼系から始まり政府の開発に批判的だった。右翼はODAより軍備増強、他国を助けるより権力増強という視点で批判する。
 確かに70年代までは、企業とつながる援助や、相手国家を利して住民に役立たないこともあった。しかし30年たった現在、NGOとの共同事業や村や人に直接届く支援が増え、大プロジェクトは少なくなった。海外で青年海外協力隊や専門家が数千人活躍し、1万人が日本で研修し、また文化事業の国際交流基金もODA予算であることを知る人は少ない。アフガニスタンやイラクの復興も医療から道路修復や遺跡保護など多様である。アフガニスタンでNGOの青年が殺された。農業支援で現地に根づいていたが、自衛隊の補給活動により日本を見る目が厳しくなったためだという。
 テポドンのような事件があると、急に愛国派や軍備派が生まれる。しかしミサイル追尾も満足にできない軍隊が核爆弾を迎撃できようもない。それよりも人道支援や国際協力を外交に活用するほうが、よほど効果的でないか。
 いま満開の桜もすぐに散る。花の命は短い。花火のように、ぱっと散るのが日本の美学。しかし人間魚雷「桜花」で特攻する時代に舞戻らないためにも、テポドンなど一つの花火のように、冷静にとらえたい。
 

(2009/4/6 志賀信夫)   


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