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2009年12月のコラム


●舞台と体と

 この日曜日、ライブをやった。マチネとソワレで、それぞれ2人ずつ、踊り手と音楽家をゲストに出てもらった。小さい空間ゆえに満杯。80代、70代という年長の伝説的舞踏家たち、そして若手の踊り手たち。若手の即興音楽家たち。いずれもよかった。といっても、舞台で演奏していると、満足に見られないのが残念なのだが。

 小さい公演を企画したのは3度目だが、やはり大変。会場予約交渉、チラシ制作、折り込み、メールやサイトでの広報、出演依頼と連絡、スケジュール、演奏曲目、予約対応、スタッフ集めなどがあり、当日も設営、受付、弁当・資材調達、進行管理、リハ、客入れ、演出、客対応、撤収、打ち上げまで、やることは一杯。観客が合わせて百人に満たないごく小さな舞台でも、それなりにやることがある。それも見よう見まねで、おまけに当日、舞台上なので、そのつどの指示ができない。そして稽古も含めると、かなりの時間を費やしている。

 毎日たくさんの公演が行われている。批評を書くために、平均すると毎日以上の数を見ている。それも大半は舞踏やコンテンポラリーダンス。だが、舞踊に限っても、バレエや日本舞踊などを含めると、その数倍はある。それぞれの公演に多くの人々が関わり、さまざまな役割を果している。演劇になるとさらにその何倍、十倍以上はあるだろう。この舞台にかけるエネルギーはすごい。そして、作る側と見る側のエネルギーが舞台を存在させ続けている。

 舞台は一過性である。終わったとたん、泡と消える。残るのは記録と記憶。しかしそのために、それゆえに、熱中する。そのなかで確実なものは、体しかない。だからきっと、僕は踊りを見るのだろう。そのなかでも、特に体そのもの、体一つで踊れる舞踏を見続けている。

 いよいよ年末、そして、新年を迎えるみなさん。お体を大切に。
来年はどんな舞台が見られるのだろうか。といっても、3日から予定が埋まっている。

(2009/12/28 志賀信夫)


1月31日まで、広尾のフランス大使館(旧庁舎)が公開されています。隣に新しい大使館・公邸が完成し、引越した跡。

そこにインスタレーション、アート作品が展示されています。
(期間中、アーティストは変わるようです)

「NO MAN'S LAND」
私は、ただ建物とたたずまい、内装が見たかったのですが、アート作品を視界にいれないというレベルで避けることはできず、まぁ、往時の佇まいなどは味わうべくもなかったという結果です。
元迎賓館、宮邸の東京都庭園美術館のように、面影を充分に生かした展示を期待したのですが。

「この部屋は元は大使の執務室で」とかそういった説明は一切なしで空き家になった部屋の特徴をさほど生かしたわけでもないアート作品で埋め尽くされています。
内装も、すべて素に戻された状態。調度はもともとあったものか、どこかから調達したのかはわかりません。
各部屋に手がけたアーティストがいたりすることもあるんだけど、彼らに尋ねることじゃないし。
残されているのは、作り付けのそっけないロッカーくらいだし。
そのロッカーに乱雑に突っ込まれているものは、大使館員の置き土産なのか、製作に使ったものの残りなのか、もしやアート作品なのか。
それさえも混沌と。
生活の気配の乱雑さを表現した(ガラクタ並べてみました、な)展示をしている部屋もあるので、悩んでしまうところ。

これは、、、まるで高校の文化祭。
教室を飾り立ててみたり、いろんな色の光で演出してみたり。
高名なデザイナーやアーティストが手がけた部屋もありますが、「これは他とは違う」と素人にもわかるような表現力もなし。
唯一興味深かったのは、大使館角部屋の電気コンセント。日本の型ではなくて、ヨーロッパの型だったこと。

いままでに、インド大使館とスウェーデン大使館のそれぞれ公邸には行ったことがあり、どちらもなかなか素敵なトコロだったので、フランス大使館はさぞや美しい「邸」であろうと期待したけれど、「キューブ」の状態ではなかなかそれが感じられなかった。
建て替えるくらいだから、当然に古く、建設当初は最先端だったスタイルもなんだか「昭和」を感じてしまうものがそこかしこに。
フランスっぽさはあまりなくて、感じる異国情緒は中国の大陸風。
「シルクロード@NHK」で見た風景に通じるものがある。

まぁ、ちょっとがっかりだったのだけど、「こういうところ」とわかった上で、もう一度行ってみようと思う。

(2009/12/21 WADA)

●「文化再び」

 科学技術、スポーツに続いて、演劇界も事業仕分けについて声明を出すなど、行動を始めた。しかし舞踊界には、そういう動きが少ないようだ。新国立劇場の活動や芸術文化振興基金、国際文化事業も対象になっているのだが、舞踊界の反応は鈍い。

 そんななか、個別にでもパブリック・コメントに書き込んで意見を届けようという動きが出てきた。舞踊批評家を中心に振付家などが連名で呼びかけ文を送っている。僕もその一員なのだが、舞台に追われて、なかなか文章をまとめられない。だが、難しいことを書く必要はないとも思う。

 日本人の特性といえるのかわからないが、物いえば唇寒し、出る釘は打たれるといった、自ら意見をいわず、他人の意見に一票を投じるという姿勢が強いように思う。また、発言すると、偉そうにとか、目立ちたがりといって揶揄する風潮もある。しかし、自発的に関わっている芸術文化の世界では、自分が好きな世界ゆえに、それを守っていく、よくなるように働きかけるということは重要だと思う。
 パブリック・コメントというと難しそうだが、意見というのは、いいと思うか、悪いと思うか、正しいか、正しくないか、好きか、嫌いかに集約される。それをまずシンプルに述べるということが、始まりのように思う。

 事業仕分けについては、文化対象事業のみならず、全体はイエス、しかしディテールはノーという意見があるように思う。そのノーの部分をはっきりいっていかないと、全体の肯定論に押し流されてしまうのではないかと危惧している。今回、役所などでは、静かにして通りすぎるのを待つ、目立たないようにするという風潮があるようだ。しかし、自由な芸術文化活動がそれに倣う必要なまったくない。そしてまた、事業仕分けを一時的なお祭りとしてとらえるのではなく、その結果と意見の反映を、きっちりと見続けていくべきだ。この件については、ぜひ、以下を見てほしい。

「行政刷新会議事業仕分け対象事業についてご意見をお寄せください」
http://www.mext.go.jp/a_menu/kaikei/sassin/1286925.htm

(2009/12/14 志賀信夫)


大好きなマラソンシーズンになりました。
もちろん、走るのではなく沿道で小旗を振るわけでなく、テレビ中継が好きなのです。
ランナーのフォームの良し悪しはただ単に素人が見て美しいか、の知識しかありません。
が、それでけっこう的を得ているようです。

今年からは舞台が横浜に変わったけれど、東京国際女子マラソンは東京の街が金色に輝く時期に 開催されていました。
国立競技場をスタート・ゴールとする、都内の広範囲を走るコースは街を見るのも楽しかった。 いかに日の短い秋とはいえ、ゴールの時間ではまだ傾きもしていないのに、レースのクライマックスを演出する照明のような金色の陽の光が「あはれ今年の秋も去るめり」という物悲しい風情。
月桂冠を戴くトップの選手に抜かれた選手の切なさが沁みました。

京都で開催される全国高校駅伝。
京都の観光地図を広げ、コース脇の寺院や甘味処に思いを馳せながらの観戦です。
紅葉のピークを過ぎてから京都に行くことが多いのに、不思議と駅伝にはぶつかったことがない。
一回くらいライブもいいなぁと思うのだけど。

高校生ながら国際大会に出場の選手を擁する強豪校と、陸上があまり得意でない県の代表とでは プロとアマの差のような走りの違いがあります。
タスキを渡す相手がいなかったり、転んでしまったり、高校生にとっては逃げ出したくなるような失敗も、「これがなくちゃおもしろくない」というテレビ観戦席ですが、いつしか、どの子もみんながんばれ!と声援したくなり、「スポーツの部活、やっとけばよかったなぁ」とその一瞬だけ後悔するのです。

別府大分マラソンで、年内のマラソンが終わるという印象があります。
子供の頃、クリスマスだか年末だか、とにかくまとめてたくさんの買い物をするために、デパートに向かう車の中でラジオ中継を聞いていたのを覚えています。
車内がなかなか暖まらないような寒い日。
12月のデパートなんて、きらびやかで豊かで、1年でいちばん華やいだ気分で行くところなのに、駐車場に入るまでの渋滞ですっかり乗り物酔い。
エアコンを止めて窓を開けて外の冷え切った空気が鼻につんとして。
その車内に流れていたのが別府大分マラソンの中継でした。
だから、今でも、テレビ中継を見ていると外気の冷たさがよみがえるような気がします。

(2009/12/7 WADA)


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