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2009年11月のコラム



文化の行方

 公開報道される事業仕分け。税金の無駄遣いを排するのは歓迎だが、目の前の費用(コスト)と利益(ベネフィット)だけを考えているのは問題だ。科学事業について、ノーベル賞受賞者などが反論した。スパコンが必要かどうかは別として、いまのやり方だと、将来に向けた事業は目先の視点で排除される。

 文化事業も同様である。芸術関係の助成金が大幅に削減されようとしている。芸術文化はどこの国でも国などの支援で発展してきたが、日本は欧米と比較してそれが弱いと指摘されてきた。それなのに、この削減はどういうことか。助成金がなくなると、舞台も展覧会もコンサートもかなり減り、質が落ちることは目に見えている。身近に知る舞台人も、助成があっても、本人は赤字で公演する場合が少なくない。それではスポンサーを得ようといっても、日本の企業は文化に出資するスタンスがほとんどない。さらに現在は企業の業績不振から、これまであった芸術賞や支援が次々と打ち切られている。残るのは企業が投資して回収できる劇団四季や欧米サーカスなどのエンターテイメントだけだ。

 そんな観客動員数で文化は語れないことを、みんな知っているはずだ。文化をバランスシートではかること自体、無理なのだ。確かに助成金団体などの外郭団体が天下りの受け皿になっている。しかしそれは組織自体を問題にすべきであり、対象となる事業を一緒にして金額だけではかり、事業を削減する。これはおかしいのではないか。

 もちろん、ただ文化に金を出せといっても始まらない。中国は映画産業を国家プロジェクトとして、北京をハリウッドにと世界進出を始めている。日本も、文化保守派と前首相の文盲度によってつぶされたマンガ、アニメに対して、輸出を前提に支援するなど、国際化を見据えた文化支援策を強く進めるべきだ。これまでの産業立国の幻想は、安価な労働力を持つ中国などBRICsの台頭に打ち破られつつあるのだから。

(2009/11/30 志賀信夫)



もうやめて

 性懲りもなく、また五輪。景気回復を外に頼ろうとするのも経済政策の貧困ゆえだが、それ以上に、東京で五輪を望む者がどの程度いるのか。無駄に費やした150億こそ、いま始まった「仕分け」をしてみて、不要な支出は返還されるべきだ。
 広島と長崎が原爆の地としてそれを訴えるためにというのは、よくわかる。記憶は風化し、核保有論を唱える国家幻想論者も登場する現在、被爆国日本ならではの国際政治が有益なゆえに、意味がある。だが、これまでタカ派で通してきた知事が、その広島との共催というなりふり構わぬ行動はいったいなぜか。
 それはプライドと意地だろう。国内ニーズのない五輪招致を掲げたこと。その過ちをいつまでも認めず、強い首都、強い日本をアピールしたいのだ。知事は開催地投票に負けた直後、勝った国がずるいと難癖をつけて、国際問題になりかけた。明らかに意地を張る子どもではないか。これで次回も立候補などしたら、世界の笑い者になることは必定だ。
 これまで中国叩き、アジア蔑視を続けてきた。自ら戦いもしない第二次大戦を誇り、過ちを認めず強者の立場をとろうとする。しかし、いま中国が日本を凌ぐ勢いで発展し、他のアジア諸国をリードしようとしている。むしろ、それに対抗できる国際政策、経済政策を打ち出すときだ。五輪などで争うのはそこからの逃避ではないか。
 知事は少なくとも数十億、自費で返還し、そのうえで対中国、アジアに向けた経済政策で、首都から日本全体を富ませる方針を打ちだすべきだ。残された任期を無駄な五輪ゲームではなく、実質に費やしてほしい。
 問題になった東京ワンダーサイト、五輪。いずれも税金を使い文化支援のふりをする。ならば、憧れる明治人のように、自分の資産で行うべきだ。一家で税金を吸い上げているのだから、連帯責任で債務を返還するのが男だ。さもなくば、都民はリコールの声をあげるべきではないか

(2009/11/16 志賀信夫)



Amazonから電子書籍リーダー「Kindle」が発売され、電子書籍が当たり前になる日が近づいているようだ。 日本語対応されるのと、まずは著作権がどうのという問題をクリアしなければならないだろうから、日本での発売はまだ時間がかかるのだろう。

電子書籍がアリかナシか、という話なら、私はアリ。 通勤時間が長いので、そこで本が読めればいいのだけど、私の目には電車内の読書はキツイので、積極的に読むことはない。
それでも急にコーヒーが飲みたくなって寄り道したり、待ち合わせの相手が現れるまで、などのために文庫本は1冊、バッグに入れている。
いつどこを開いてもおもしろく読める本、古い随筆や歌集、古典など、古書店でみつけては買っておく。 ところが、そんな著作権の切れた作品は「青空文庫*」に収録されているものも多く、それならばiPhoneでかなり快適な環境で読める。 文字の大きさ、明るさなどカスタマイズできる。活版印刷を思わせる、少々古臭いフォントや古びた紙のような色を背景にすることもできる。 古書店で定価以上の値段で買うよりも青空文庫で無料で読めるのはありがたい。 逆もあって、青空文庫で読んで気に入って、古書店で探し出してでも自分の本棚に並べたいものもある。

本も好きだけど、読書も好きな私には、それが紙であろうとディスプレイであろうと抵抗はなく、読めるのならなんだっていいのかもしれない。
読後の満足を比べると、故人となった作家や古典に気に入る本が多く、新刊で何度でも読みたい、手元に置きたいと思う本はごく少ない。
ならば、買って一時的にでも、本棚なり部屋のスペースを取り、処分するにはコストもかかり、後ろめたさもある本よりも、一度読んで気に入らなければDeleteできる電子書籍の魅力は大きいと思う。 Deleteしなくたって、データ容量は少ないから、ずっと保存してもたかが知れてる。 簡単に捨てられるのが魅力だなんて情けないけれど。

先日も、いっぱいになった書棚を整理し、処分する本を抜き出したら、ここ数ヶ月に買ったものの多さに散財を嘆いたばかりだ。
すぐに処分することになる文庫本10冊(読破時間にして5時間ほど?)で、高くて買えないとずっと躊躇してる本が買えてしまうかと思うと、○| ̄|_

たとえ1冊でも読んでる人の、人となりを想像してしまったり、よそのお宅に伺えば、なによりも書棚に目が行ってしまう。
数冊でも山のような蔵書も、本のある景色は心躍る。
図書館でも書店でも、あふれるような本に囲まれるのは至福の時でもある。

毎日の膨大な発行は自由に本が読める、書ける環境に恵まれている証拠でもあるけれど、残したいものを記すのが本であるのに、すぐに処分されてしまうものばかりというのは宝の持ち腐れというか「文化」の使い道を間違っているのかもしれない。
ちなみに、昨年11月の売上部数ランキングには「血液型自分の説明書」や自己啓発本、TVドラマ絡みの小説などが上がっていて、今、リサイクル書店の100円コーナーで頻繁に見かける顔ぶれでもある。
出版部数より購入者の書棚や書店での「生存率」を調べるのも面白そうだと思う。
出版部数でなくて生存率で印税が支払われたら、著作権を主張して、読む機会を奪う作家も減るかもしれない。

新刊こそ電子書籍でまず発表し、それから活字版をオンデマンドで発行するというのはどうだろう?
どうしたって電子書籍は嫌な人はいるだろうから、ブックレットのような体裁で発行するのもあって、あとから丈夫な表紙を発売したりして。
もちろん、電子版は無料とは言わない。印刷・製本された本よりもずっと安価であるべきだけど。
うかうかと吟味せずに本を買ってしまうのを改めればいいのだけど、セーブできたそのお金で、少々高くなってもいいから、「読みたい本」「手元に置いておきたい本」を買いたい。
中世のヨーロッパのように、装丁も凝りに凝った本が現れそうだ。
つまり、そこまでしても欲しい本、が読みたいわけ。
生存率の高い本と書店の隆盛は比例すると思う。

青空文庫*
著作権の切れた文学作品を収集・編集しインターネット上で公開している電子図書館
http://www.aozora.gr.jp/

(2009/11/9 WADA)


浅草と伝統と

家でゴロゴロするという選択肢も魅力的だったのだけど、せっかくの平日、週末よりは多少は空いていると思われる街歩きもいいかなぁと、ふらふらしてきました。
 浅草は妙に好きな町だ。通りを延々歩いていくと、予想がつかない店がポツポツ現れる。
そういう発見、町歩きが楽しい。

 いま、花やしき裏で、『下谷万年町物語』が上演されている。唐十郎脚本、蜷川幸雄演出、渋谷の西武劇場で上演され、再演されなかった幻の作品。それが28年ぶりに蘇った。演出は中野敦之で劇団唐ゼミの舞台。唐十郎の横浜国立大学の教え子たちの劇団だが、もはや学生劇団ではなく、迫力ある舞台を見せる。

 唐ゼミは浅草花やしきの裏手にテントを建てた。この芝居は、浅草近くにあった下谷万年町のおかまの長屋が舞台だからだ。唐はこのあたりに住んでいた体験から、おかまが百人出る芝居を書いた。いまも北に20分ほどで吉原があるが、以前はかなり猥雑な世界だったようだ。

 最近、知人に芸者2人ができた。1人は舞踏家から転進し、1人はストレートに芸者となった。
1人は政治家の接待がなくなり、日舞などの稽古代が持ち出しらしい。もう1人は劇場で15分踊るのに数百万かかったという。スタッフのご祝儀などすべて負担する。伝統文化を支えているのはこういう世界だ。華道、茶道も金がかかるのが伝統のように思わせるが、実は昭和以降、戦後に作られた金集めシステムのような気がする。

 浅草にはそういう「日本の伝統」より、庶民の楽しみの伝統がある。吉原に近い小さい飲み屋や食堂には、独特の雰囲気が漂っている。荷風やグルメはテレビや雑誌で掘り尽くされたが、そうでない場所が浅草にはまだ残る。
 例えば浅草観音温泉。浅草寺左手にすぐある公衆浴場のような温泉だ。しかし、中に入れば広く、地方のひなびた温泉にひけをとらない風情がある。早朝から開いており、芸者などのお姉さん、水商売や地元の人たちが仕事前後に立ち寄るオアシスだ。
 昼間は観光客で賑わうが、夜は静まる。そんななかで、まだ見ぬ浅草を探したい。そんな気にさせる何かが、この町には残っているように思う。

(2009/11/2 志賀信夫)


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