Arts Calendar/column

アーツカレンダー<コラム>のページ


2003年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12

2004年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12

2005年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12

2006年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12

2007年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12

2008年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12

2009年1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12月


2009年10月のコラム


先週、ひさびさに目的のない休暇をとり、都内をあちこち歩き回ってきました。
そういう機会なのに、観たいとリストアップしてる展覧会はまだ始まらず、または忙しい合間に慌ただしく観に行ってしまい、心に残ることもなく、もう一回行くにはちょっと乗らないなぁと。
つまり、なにもすることのない一日でした。
家でゴロゴロするという選択肢も魅力的だったのだけど、せっかくの平日、週末よりは多少は空いていると思われる街歩きもいいかなぁと、ふらふらしてきました。

なんとなく東京駅に出て(定期があるもので)、現代美術館にでも行ってみようかなぁとバスに乗る。
展示はともかく、あちこちの美術館のフライヤーを集めて、ミュージアムショップを覗いて、図書室をちょっと見て、お茶飲んでという気持ちながら、いま展示は何だっけ?とバス停で待つ間に調べてみると、休館中!
まぁそれでも時間はたっぷりあるし、東京駅から現代美術館までのコースは永代橋や次々に現れる川や掘り割の風景が好きなので、バスに乗って降りて、折り返しで銀座に出ることにしました。
美術館前でバスを降り、そこで初めて、いま秋だ、ということに気付きました。
まだ紅葉とは言えないけれど、黄色味が強くなっている葉、かさこそという音、晴れて眩しくても夏とは違うゴールドの陽。
美術館横のプールの水が冷たそう。

待ち望んだ秋なのに、ブーツを履いてきたくせに、うかつでした。
8月の終わりあたりから、空気が違う、夜空がきれい、10月に入ってからは、さすがに日が短くなった、などと一瞬感じることがあっても、秋にじっくりと「向き合う」ことがありませんでした。
さっそく、今日は秋を愛でようと現代美術館前から木場公園のあたりを少し歩き、夏の間は見ることもできなかった水面の波紋を楽しんで。
銀座に出て、ウインドーショッピング。ブランドショップはどこもファーが出揃っているのを見るだけで、ランチの前に和菓子店で、秋のお菓子と抹茶を喫します。
ギャラリーやアートショップをいくつか冷やかして、並木通りのリンデンなんかを眺めながら、新橋でおうどん。
さっきの和菓子の余韻に出汁が美味しい。

外堀通り、桜田通りを行き、六本木。季節を感じる穴場の公園を眺め、こんどは青山に出て、ブックカフェでカプチーノ。
エアコンを使うことなく、外気と室内の温度がちょうど同じで心地よい。
窓からは色づき始めの木々も眺められ、外に出ると乾いた空気に近くのお寺の抹香が漂う。

さて、これから。
根津美術館が近いけど、改装後でまだ混雑してるだろうし、昔々の建物が好きなので、たぶんがっかりするだろう。
岡本太郎記念館もいいけれど、建物やカフェは気分だけど、企画展がちょっと秋向きでないなぁとか。
さっき和菓子をいただいたから、次は栗のケーキかな?などと食い気ばかりが先立ってしまうが、さすがにちょっと許容を超えて。

青山に行ったら、必ず本屋さんをいくつか見て歩かなければ気が済まず、やはり、この日も数時間。
読みたい本をすべて買うとすると資金もさることながら、持ち帰る体力もありません。
見るだけ見て、もう1杯コーヒーが飲みたいなと、エアコンに頼らない喫茶店へ。
コーヒーを飲み、開け放した窓から外を眺めていると、肌寒い。
いつもならば、これからという時刻に陽が傾き始め、今日は早いうちに帰りたいなぁと里心?も動く逢魔刻。

収穫といえば、「これで思う存分、本が買える」と思った大きなバッグを書店巡りが終わった後に買っただけ。
読みたい本のウィッシュリストは長くなるばかり。

でもなんだか、いいものばかりを目にし、口にして、とてもいい時間を過ごせたと思う一日。

(2009/10/26 WADA)


愛の発見

加藤和彦が自殺した。『帰ってきたヨッパライ』『あの素晴らしい愛をもう一度』や、サディスティック・ミカ・バンドなどの活動は記憶に残る。 木村カエラを入れて新生ミカバンドを結成した記憶も新しく、なぜ、という気持ちが強いだろう。

 報道によるとうつ病だったらしい。うつ病というのは、私見だが、社会 や人と自分の関わりに疑問を持つところか始まるように思える。つまり、外部との問題を自分の内部に転嫁してしまうということがあるのではないか。

 加藤は六十過ぎの団塊世代だが、僕自身、五十を過ぎると次第にやれることが見えてきて、日常の仕事にも飽きてくる。なんともいえない疲れがあり、何のために仕事をしているのか見えない自分に気がつく。つまり、生きがいが見えないのだ。だが、その生きがいというのは、評価だという気もする。成果を評価され、誉められたいという気持ちだ。

 加藤和彦は、もう音楽でやることはやり尽くしたと語っていたという。確かにさまざまな仕事で評価された。しかし作品自体よりも、「加藤和彦」という看板、括弧付きの評価という部分もあり、それを自覚していたのではないか。そういう意味で、一度高い評価を得た人というのは難しい。周囲はそれ以上を求めるからだ。同じようなことをするとマンネリと叩かれ、実験的にやったり、他ジャンルに進出したりしても、遊び、余技といわれる。あれほど優れた映画監督北野武を評価しない人も多い。いっそベンチャーズのように、過去の栄光で食べ続けるほうが楽なのだ。 こういった評価も、突き詰めれば、愛を求めるということではないか。誉められたいとは、もっといえば、愛されたいということだろう。こう考えると、うつ病というのも、愛する対象がない、そして、愛されていないという思いが心に根強いてしまうことなのかもしれない。社会や人との関わりも一種の愛情に基づいているとすれば、愛の発見がいま、必要なのかもしれない。

(2009/10/19 志賀信夫)


温かい飲み物が美味しい季節になってきました。
真夏でも熱いお茶やコーヒーばかりでしたが、秋になれば、お湯を沸かすコンロの火や湯気までも愛しくなります。
味わうことももちろんだけど、日本茶・抹茶・紅茶やコーヒーも、淹れるとか点てるという行為や時間がいいのです。

日本茶・煎茶道のお作法は難しくて、お茶一杯飲むのに、そんなことせんでもええやんと思ってしまうのですが、長くお稽古を続けている茶道・お抹茶のお作法は美味しくいただくために理に適ったものと心酔しているので、家庭用の省略形ながらしゃかしゃかと茶筅を振るっています。
この茶筅を振るう力の入れ具合やお湯の温度で、旨味のある、ほの甘い抹茶が点てられます。お菓子なしでも充分な一碗に。
点てる+片付ける時間に比べ、味わう時間が格段に短いので、割りに合わない気がしないでもないのですが、お点前の時間も含めて「お茶の時間」です。
むしろ、誰かのために点て、自分は飲まなくてもいいくらいです。
点ててあげて飲んでもらう、点ててもらっていただく、このやりとりもいい間合いかもしれません。

紅茶の場合は、時間との勝負です。
お湯がぼこぼこしゅんしゅんと沸騰するまでの間に、ポットに茶葉を入れカップもセットして、電気ケトルの前でポットとともに待 機。これ以上は無理というところで、自動的に電気が切れるので、その瞬間にケトルを持ち上げてポットにお湯を注ぎます。
ケトルをポットに近づける、ではなくて、ポットをケトルに近づける、これが鉄則なほど、沸騰したてのお湯が重要です。
優雅に、なんてやってる場合じゃありません。このときばかりは大繁盛の中華料理店の厨房の勢いが大事。
さて、ミルクもピッチャーに入れ、自分の部屋に運び込み、茶葉が開くまでの数分間に読みたい本を積み上げ、音楽を選びます。
時間を見計らってカップに注げば、あとはゆったりと。
お茶が濃くなりすぎたら、冷めてもいる頃合だし、差し湯をして、また長い時間をかけてだらだら飲みです。

コーヒーは、お抹茶と紅茶の中間の気分でしょうか。
いずれも同じように淹れる道具をセットして、お湯が沸くのを待ちます。
紅茶ほど、沸騰した瞬間にケトルを取り上げるようなスピードは必 要ではなく、かといってお抹茶のように温度を下げながらのお手前でもありません。
おもむろに、という言葉がちょうどいい。
沸騰したら、おもむろにケトルを持ち上げて、ドリッパーに数滴、落とします。
粉がほんのりと温まったら、お湯を細く細く、慎重に気を静めて"の"の字を書くようにドリッパーに注ぎます。
ブリオッシュのように見事に粉が膨らめば美味しくなる。同時にカップに落ちるコーヒーの、水琴窟もかくやという、いい音が響きます。
カップの中がよく見えないと、あとどれくらいお湯を注ぐべきか悩ましく(どうしてもお湯の分量が感覚でわからなくて)、多かったら別のカップを持ってくればいいのだけど、それだと思ったよりもコーヒーが薄くなるということかしら?とまた悩ましく。
プレス式のポットやドリッパーもありますが、淹れる時間が楽しく、後片付けが楽という点で、紙ドリップが一番好き、とはいえ、好みの味と粉の量の感覚が一番わからないのも紙ドリップです。
計量スプーンにこのくらい山盛りにして、このカップにたっぷり淹れるのがベスト、と決まるまでに一袋飲みきってしまい、次のコーヒー粉ではまた感覚が違ったり。。。

そんなことを繰り返して、秋が深まっていきます。

(2009/10/12 WADA)


「祭りの準備」

 横浜のバンクアートで、大野一雄フェスティバル2009が開かれている。
今回はピナ・バウシュの追悼展と、舞踏の始まりという『禁色』にまつわる舞台や討議、海外からの来日公演もある。ダンストリエンナーレ東京は青山劇場などで開かれた。これは内外からカンパニーやダンサーが集まり、ほぼ毎日、公演、ワークショップ、レクチャーなどを行い、ダンスフィルムも上演された。

 今年は行けなかったが、越後妻有のアートトリエアンナーレでも、美術とダンスのコラボレーションがいくつもあった。また、新潟で開催されている水と土の芸術祭でも、舞踏家が踊っている。近年は美術のフェスティバルで、ダンスや舞踏が参加することが多い。昨年の横浜トリエンナーレは身体表現に焦点を当てていた。

 ダンスやアートのフェスティバルもいわば一つの祭りだが、同じ身体でも、スポーツの祭りで頂点にあるのがオリンピックだ。そのために再開発をして経済効果を期待するのは、景気振興策としてよくわかる。しかし巷の人々は至って冷静、悪くいえば無関心だった。始まれば熱中するのは、ワールドカップでも同じだったが、やはりひとときの祭りにすぎない。人々はいまスポーツに税金を費やす必要はない、それより介護や年金問題に対応してほしいと願っているのではないか。毎日世界のサッカーや野球が放映され、日曜の昼はスポーツ番組で埋め尽くされ、スポーツは氾濫しており、1964年とは状況がまったく違う。

 また、ワールドカップでもそうだったが、スポーツは基本的に戦いの場であり、国際競技会は国家意識の発揚の場となる。すると「愛国心」が流行る。政治家が求めるのは経済と国威発揚だとしたら問題だろう。この祭りの夢が消えたことを惜しむ人はどれだけいるのか。そしてその準備のツケは誰が払うのだろう。税金を使って音頭を取った政治家やタレントに払ってほしいと思うのは、僕だけだろうか。

(2009/10/5 志賀信夫)


無断転載禁止 掲載:アーク編集室
TOPpage/