Arts Calendar/column

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2008年9月のコラム

運動会、遠足の季節になってきた。
友人と子供の頃の思い出、なんて話をしていて、思いだそうにも幼 稚園時代の運動会・遠足の記憶がとても薄いことに気がついた。
住宅地の中の幼稚園だから(いまも近所にあるが)、「お外遊びの時間」も30人くらいの幼児で、わぁわぁきゃーきゃーといっぱいになる程度の園庭しかない。
何メートル走だか忘れたけれど、園庭にまっすぐにコースを作れないほどで、「かけっこ」は斜めのコースだったと思う。
あとは玉入れにお遊戯くらいで、午前中で終わってしまったようだ。たしか、秋の運動会を1度しか経験していない。年少組の時は風邪をひいて欠席したのだろう(ものすごく虚弱な子供だったの で)。写真もなかったし。

春の運動会のほうが大々的で、遠征して開催。東京・青梅市にある 「鉄道公園」というところまで。貸し切りバスで行った。
公園内か、すぐそばに原っぱのようなのがあったのだろう。そこで、かけっこというか、走り回り、お遊戯をして、お弁当。
乗り物酔いの激しい子供だったので、バスを降りてすぐのかけっこやお遊戯に参加した記憶はない。
おそらく、木陰でゴロゴロしていたのだろう。

午後になると元気を取り戻し、鉄道公園で機関車に乗って(よじ上って)みたりして、家族単位で自由行動。そして、またバスで帰る。というもので、遠征といえば聞こえはいいけれど、明らかに運動会と遠足を抱き合わせた企画。
だから、「遠足」という記憶が薄いんだと思う。
なんとなく鉄道好きなのは、このときに培われたものかもしれない。

そして、秋の遠足。
春に反して、これはものすごく近場だ。
幼稚園の隣に、園長先生が畑を持っていて、そこで「おいもほり」をする。毎日毎日、幼稚園に通う時に必ず通るし、幼稚園の庭とはフェンスを隔てたのみ。
だから、それは遠足とは言わなかった気がするが、行事としては秋の遠足に代わるもので、子供ながらにこれがうちの遠足と認識していただろう。

私が通う幼稚園の近くには、2つの幼稚園があり、家は近所ながら通う幼稚園は別という友達が何人もいて、「へんなの!そんなの遠足じゃない!」などと言い合っていた。
それでも、春に貸し切りバスで鉄道公園まで行くのは、幼稚園児の行動範囲としては立派な小旅行なので、まぁ相殺という気分で収まっていたのだろう。

今は、園舎も建替えられ、かつてのイモ畑も幼稚園の敷地に入 り、30mくらいなら、まっすぐにかけっこもできそうだ。

(2008/9/29 WADA)

●価格を破壊

 北欧のアパレルメーカーH&Mの日本上陸で、他のメーカーは戦々恐々としているだろう。キャラクターブランドだが、デザイン性が高く安いのみならず、有名デザイナーやタレントデザイナーを採用し、話題性もある。GAPと比べると大人向けで、OLを中心に売れそうだ。GAPも米国ではユニクロ同様、購買は中間層以下だから、同じ層がターゲットだ。

 テレビでH&M担当者は、安い理由を大量生産と中間業者を減らし常にコスト削減していると述べていたが、日本のアパレルは実に中間業者が多すぎて、単価が高くなっている。ファッションは付加価値に金を出すものだから、ある程度はやむを得ないが、この参入によって少し改善されはしないかと期待する。
 しかし、食品に目を転じると、ハンバーガーが100円は、やはり不自然に見える。不二家も88円シュークリームを出している。100円ショップはそれどころではない。老眼鏡からバービー人形まで100円だ。では100円ショップは、開発途上国搾取なのか、多少でも産業が栄えてプラスになるのか。フェアトレードとは逆行するが、外国人の日本土産にも利用され、すっかり定着している。

 ただ安さには裏があることが、今回の廃棄米騒動で露呈した。利益のために食の安全を脅かす業者は後をたたない。価格破壊は市場を活性化し、消費者に経済的なメリットはあるのだが、同時に生産者への圧迫につながり、時には安全性を脅かす。これは単純な図式だ。米に毒を入れることは、主食の米のみならず日本酒と焼酎、お菓子に毒を入れることになるのが、いみじくも判明した。
もしこれらが安全でなくなったら、日本の食文化は破壊される。無意識によるテロ行為といったらいいすぎだろうか。
 またいみじくも、日本がいかに役人天国であるかが露見し続ける一端を担った。企業も役人も信頼できない。だが、僕たちもその一員なのだ。

(2008/9/22 志賀信夫)

日曜日は仲秋の名月。 そして、月曜日が十五夜。

仲秋の名月といえば、思い出すのは、中国の「銭塘江の逆流」とアマゾン川の「ポロロッカ」。
スーパーマーケットの名前ではなくて。

月の作用で、仲秋の名月の頃、銭塘江とその対極にあるアマゾン川 では、河口から上流に向かって、川が遡る。
黄河や揚子江などの大河でも起きる現象とのこと。

どちらもNHKの番組で映像を見たのだけど、半端な勢いではない。
サーフィンができそうな波が川を遡っていく。

銭塘江では、お祭騒ぎで大きな人出となり、屋台なんかも出る。
アマゾンは、もう少し真摯で、木々の間に取り残された魚による大漁のチャンス、神様の恵みに感謝する時、というような感じだった。

アマゾン川は、何本もの支流で同時に起きるし、ジャングルの木に勢いが削がれるのか、人的被害にはさほど触れていなかったが、銭塘江では川岸の見物人を時に飲み込みながら逆流していく。

遡るのは昼の数時間のみだったようだが、数日間に亘って波が押し寄せてくる。
大きな流れがいくつか来ると、何事もなかったような、いつもの、流れが定かでないような大河に戻る。
数日間の不思議が終わってしまうと、まさに波が引くように日常 に戻っていく人々の気分の高揚が、なんだかはしゃいだ夏の終わりの合図でもあるような。

日本でも、河口に多少の変化が見られる川があるそうだ。

(2008/9/15 WADA)

●舞踏とブラジル

 ブラジルから舞踏グループを呼び、公演とワークショップがようやく終った。今年は移民百年で、記念事業として助成を申請したが、通らず苦労した。数百団体が日本から行くが、日本に来られるのはごくわずか。現地で盛り上がっているが、日本では報道も少ない。かつて『海外移住』誌を10年以上担当して多くの日系人に出会い、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイを訪れ、米国でも日系人大会を取材した。そのとき見上げていたビルが 1週間後に崩壊した。

 米国は人種の坩堝というが、ブラジルは多民族がもっと溶け合っている。例えばこの舞踏グループも日系、欧州系、アフリカ系それぞれのルーツを持つ人たちだ。ブラジルで多くの日系人は農園労働者から這い上がった。国立大学の進学率が高く、地位が高い仕事に就く人も多いブラジルで舞踏というと、疑問を持つ人もいるだろう。日本でダンスの美術や演出を行い、70年代に舞踏とダンスのコラボレーションを成功させた楠野隆夫が、1977年ブラジルに渡ってこのグループを作り、ブラジルのダンスや演劇に大きな影響を与えた。やがて大野一雄を始め多くの舞踏家を受け入れ、南米に舞踏を広めたが、2001年に隆夫は亡くなった。カンドンブレなどのブラジル独自の精神世界を描く舞台だった。

 公演のあとのシンポジウムで、観客のなかから文化人類学者の山口昌男が、この舞台の聖霊的存在と日本のおばけとの共通性を話したが、聞き取りにくい言葉で熱心に語る山口に拍手が起こった。山口はしばらく前に、脳梗塞で倒れた。歩けず発話は不自由ながら、話の内容と意識は明晰だった。以前に大野一雄と車椅子同士で対座していた姿を思い出した。舞踏はそういう不自由さも含めて、踊りをつくる。大野一雄はその象徴的存在ともいえる。山口の言葉には強いエネルギーが感じられ、観客にじんわりと広がっていったのが、目に見えるようだった。

(2008/9/8 志賀信夫)

2,3年ほど、携帯電話のアラームで毎朝起きている。
時計、特に目覚まし時計を選ぶのは、本当に難しい。

見た目はレトロな、ベルが二つ乗っかっているようなのが好きだけど、アナログ時計によくある「カチコチ」と音が聞こえるのが苦手。
また、実際にハンマーがベルを打つようなものは、その音が大きく響くのがやはり苦手。毎朝、鳴るたびにドキドキして起きるような 気がする。
音のことからすると、デジタルの時計がいいのだけど、電池で動くものは「ほんとに動いてる?もうすぐ電池切れじゃない?」と心配がつきない。
今は元気に動いているけど、朝までに電池切れで鳴らなくなったどうしようと思うと、うかつに寝てなんていられない。
そんな心配やら、苦手をクリアしているのが、携帯電話のアラームということになる。

まず、「カチコチ」は聞こえないし、ベルの音色は様々えらべて何なら好きな音を探してくることもできる。
たいてい、寝しなに充電器に乗せるので、電池切れの心配はまずない。ということで、部屋にロクな時計がないまま、数年を過ごしている(腕時計も嫌いなのでロクなものがない)。

しかし、なんだか貧乏臭い。何でもかんでも携帯でというのは、精神が貧しいという気がしてならず、一念発起して、目覚まし時計を探すことにした。
探してみると、ない。時計屋さんというのがまず近くになく、あったとしても、どうだろう、店に入ったら年貢の納め時、選ぶ余地がないような気がして、量販店に行ってみた。
たかが、朝起きるだけのために、なんだか妙に大掛かりで派手で、飛んだり跳ねたりして、いかにストップボタンを押させないかと作られたものが多い。朝からそんなにアクティブならば、目覚まし時計なんかいらないんだけど。

他にはACアダプターで電源をとるもので、やっぱり朝起きる一瞬のためだけに、24時間365日も電気を使いっぱなしはいかがなものか?と柄にもなくエコな発想が頭をよぎる。
次は、おしゃれなインテリアショップなんてとこに行ってみる。人気のプロダクトデザイナー作の、なかなかステキなものがいろいろと揃っているけれど、朝起きる一瞬のためだけ、と頭にまた浮かんでしまって、お高い目覚まし時計には手が出ない。

「朝起きる一瞬のため」とはいえ、時間を知りたいのは一日の中で何度もあるわけで、そんなことを思いつく方がよほど貧乏性だとは思うけど、ちらっと見れば、オーディオにも時刻は光っているし、狭い部屋のこと携帯電話はやはり手近にあるわけで。
そんな中、ようやく、とっても安くて機能もそこそこ揃った静かなデジタル時計が見つかった。とっても安いくせに電波時計で気温も世界の時刻も知ることができる。

ところがこいつが食わせ物。時刻はとことん正確なのだけど、暗い中でデジタル文字が光らないのだ。点灯ボタンはあるけれど、押し方にコツがいり、力加減を間違えるとセットしたアラームがリセットされてしまう。そんなの設計で却下じゃないのか?ふと目が覚めて、「いま何時?」と手探りで時間を見ることができないなんて。

そして、やはり安物買いは損。数日でアラーム音は息も絶え絶えな音になった。吃驚するような騒音で目覚めたくはないけど、自分の体調より時計の体調を気遣うような音で起きるのは嫌なものだ。
やがて、液晶の文字も幽霊のようになってしまった。もちろん、電池は取り替えてみた。それでも、元気を取り戻すことはなく、1ヶ月ほど枕元に置いてあっただけで、何の用途もないものとなってしまった。
結局、携帯電話のアラーム機能が、理想の目覚まし時計なのかもしれない。

(2008/9/1 WADA)


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