Arts Calendar/column

2008年8月のコラム

●花火

 夏の風物詩のひとつ花火大会もそろそろ終わる。今年は多摩川に行った。圧倒的な人出に驚く。多摩川の面白さは二つの花火大会が同時に見られることだ。世田谷側と川崎側で同時に競うように打ち上げられる。たまたま川崎側の打ち上げ場所の真ん前で、予め席を取っていた人が、親切に入れてくれたのは幸運だった。目の前の河川敷から上がり、軌跡まで凝った新しい花火が多かった。視界一杯に広がる花火、特に金色や銀色に揃った花火の美しさには圧倒され、思わず涙が出た。舞台の感動ともまた違うのだが、これはどういうものだろう。山上から見た自然の風景の感動にも似ているが、それは眺めているうちにじわっとくるもの。花火の感動はそうではない。畳みかえるように重なっていく花火が、空一杯に広がり輝いていくとき、何か見たことのないものを目の当たりにしているという感覚と、その光の変化、リズム、音に五感のどこかが震わせられる。

打ち上げ花火は小さな火薬の玉を数百以上、均等に詰め込んだもので、それぞれ完全に均一に作られ、かつ整然と並んでいないと円球を描かないという。今回の花火は、その円球の中にハートやスマイルマークを描くなど、かなりハイテクニックだった。以前は毎年、花火職人が火傷などと報道されたが、いまはコンピュータ制御されているものも多いという。

 一方、打ち上がる軌跡は、大砲や機関銃の発射にも似て、戦争の映像を思い起こさせる。空爆の後遺症で花火の音を聞くと怯える人がいるという。スマイルマークは元々ベトナム反戦のピースマークだが、平和の花火がこれほど進化する日本とは反対に、アジアでも再び中国国境、ロシア国境などで新たな戦火が立ちのぼりつつある。日本では戦争のリアリティが消え、英霊や大東亜といって再び国家が論じられている。空の上から見た天下国家ではなく市民の視点に立ち戻り、平和の花火以外のものを打ち上げないようにしたい。

(2008/8/25 志賀信夫)

競争原理

 徒競走が苦手だった。速く走れる人がうらやましかった。それに比べて球技、特にサッカーは、うまくすると攻撃を防ぎ、運よくシュートすることもでき、PKだと子どもが大人を負かすチャンスがある。かなりはまった。

 オリンピックが始まった。テレビで開会式を見た人が度肝を抜かれたという。『初恋の来た道』などのチャン・イーモウ監督が総合演出と聞き、見逃して残念だった。その規模は中国が総力を結集しただけあり、凄いものだったらしい。石原知事が見に行って、とても真似できないと、東京開催を諦めてくれればいいとその人はいう。
 オリンピックの経済効果はかなりのものがある。しかしその整備・工事は土建屋社会の拡大だろう。地価の値上がりでバブルの再現を夢見るのか。誰も彼もがオリンピックという時代ではない。そういいつつ、北島の金メダルには興奮した。

 1964年のオリンピックのための整備は、敗戦後わずか20年の日本の経済力のみで行ったのではない。世界銀行からの融資で高速道路や新幹線などを整備した。日本が行う政府開発援助、ODAと同じ開発のための資金協力である。つまりオリンピックも実は欧米の資金によって成り立った。日本は戦後賠償で中国にODAを行い、中国はアフリカに援助をしている。だが、中国も発展の一方で国内格差は拡大しているという。

 お祭り好き、熱しやすく醒めやすい国民性からも、日韓ワールドカップのように、新東京オリンピックはお祭り騒ぎになる。しかし金銀銅の数を競う国威発揚モードには注意したい。その建設を支えるのは外国人や中高年の低賃金労働者。誘致者は景気回復のきっかけにしたいのだろうが、競争原理の強調から派遣などの非正規雇用が1/4を超える現在、お祭り騒ぎに隠れて、ますます社会保障がないがしろにされ、弱者切捨てが加速するのではないか。そういえば徒競走は、徒(いたずら)に競い、走ると読めるのだが。

(2008/8/11 志賀信夫)

「私って運が悪いから」という友人がいる。旅行でも必ず雨が降るし、それで風邪ひいたりするし、という。
運が悪いから、旅行で雨が降るのではなく、雨が多い時期に旅行するから降るのだということに気付きもせず、すべて「運」の一言で済ませてしまう。

そして、その人は占いが大好き。
誰かが何か言えば、「何座でしょ!」「何型でしょ!」と始まる。
だいたい、星座だの血液型・名前という自分の努力でどうにもできないことを占いの対象にすること自体、私は嫌いだ。
自分でどうにもできないから、占うのかもしれないけど、占いの結果が出たところでどうするつもりなんだろう。
考え方で変えられることや、努力を否定して、悪い結果を抱き続けていればいいのだろうか?
星座だとしたら、12分の1、血液型で4分の1。
地球上の全員の運勢や性格がそれだけの種類しかないならば、なんて簡単な世界なんだろう。

「運が悪い」なんて目の前で言われると「ごめんね。私が生まれてなければ、あなたの運はよかったかもね」と嫌味のひとつも言いたくなったり。
人に運の善し悪しがあるならば、それはその一人のものではないと思う。
人やものを取り巻くすべてのものが巡って作用し合っているのだから、誰かがとても運が悪いとしたら、家族や周りにいる友人のせいと言っているようなもの。
「私が友人でいることも、あなたの運なんだよ」と言ってもピンとこないらしい。

ということを、高校野球を見ていると思う。
誰かの致命的なエラーや凡打。そこで人生のすべてが終わってしまったような泣きそうな顔でベンチに引き上げる。
でも、君だけのエラーじゃないんだよ。甲子園に今いることは、君が生まれてきたからで、君がいなければ、大会屈指の好投手を擁する相手チームだって甲子園まで勝ち上がることはできなかったんだよ。
君のとんでもないエラーがあるから、劇的なサヨナラホームランが出るかもしれない。
最後のバッターになった君が、将来の大打者の礎なんだよ。

直径10センチにも満たない球が、地球上に今いくつ飛んでいるだろう。
その一つだけが君のグローブめがけて飛んでくる。これだけでもすごいことだと思わない?

なんて、炎天下で懸命にがんばる球児には寝言だろうけど。

(2008/8/4 WADA)


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