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2008年4月のコラム

【コラム】

新緑がぐんぐん元気に伸びていて、ちょっと見ない間にも垣根や塀から枝をはみ出させています。
今頃の、無秩序伸び放題の緑が大好きです。
発光するような明るさが雨や曇りよりも強くて、天気を錯覚しそうになります。
夜桜のための雪洞やライトアップは片付けられても、新緑があれば夜道もかなり明るく感じます。

これから、梅雨明けまで(とくに私は太陽が苦手なので)、雨の日にそれに負けない明るい緑を楽しむ散歩がいい季節です。
雨の日、窓から雨粒を受ける葉っぱを見てるだけではもどかしく、それを揺らして水玉を飛ばしてみたくなります。
我慢できなくなったら、夜道をコンビニに用がなくても行ってみたり。伸びた緑を避けようもないくらい狭い道を選んでみたり。

もうちょっと大人らしく雨と緑を楽しむなら、東京都庭園美術館に行きます。
しとしとと雨が降る中、芝生と露の感触を楽しみながら、庭を歩き、美術展を見ながら途中で雨の庭を覗き見し、佇むキリンや鹿(の像)を眺め、木々が霧雨を飲み込むような風景をみながら喫茶室でコーヒーを飲む。
降水確率100%の空いていそうな平日に、わざわざ休暇をとって出かけたりします。
庭園美術館の手入れの行き届いた中にも野趣のある大木たちが、ひときわ大きく、見ている間にも成長しているように感じられます。
ゆっくりと大木のリズムで流れる時間に取り込まれるような危うさもいい。
アールデコの邸宅の「何か」に魅入られてしまいそうな、というより、魅入られてしまいたい。

こんなところで、夜をすごせたら、と思います。
色っぽい意味でなく、何かに出会えそうなドキドキを期待します。
昔、ここで飼われてた猫の密やかな気配を感じたり、華やかな宴のざわめきが聞えてきたり。
夢・現のはざまを、雨の帳が分かつように思います。

(2008/4/28 WADA)

【コラム】

●呉越同舟

 チベット問題は面白い。といったら怒られるだろう。日本の聖火リレーも善光寺の出発
地辞退など揉め始めている。だがスーダン紛争について、スピルバーグや映画人が中国に
抗議したダルフール問題はいつの間にか忘れ去られた。今度はチベット暴動と中国への抗
議が花盛りだ。
 ダルフール問題は、民兵を使った虐殺が指摘されるスーダン政府を、中国が武器輸出と
石油取引などで援助しているためだ。スーダン紛争は、ナイル川の水利権とアフリカ系、
アラブ系の民族対立にキリスト教とイスラム教の対立、さらに石油の発見による利権争い
でややこしくなった。ただ石油利権は中国だけでなく欧米諸国も進出しており、中国攻撃
には欧米側の思惑があるようにも見える。
 チベット問題は難しい。ダライ・ラマを奉じるチベットの独立を認めない中国は、周辺
民族統治のために強権的な立場をとってきた。その反動で暴動が起こる。ロシアのチェチ
ェン紛争などと同様である。しかし続く中国叩きには欧米からの東洋への差別意識が背景
にないのだろうか。

 冒頭に「面白い」と書いたのは、この問題に関する日本の反応だ。左翼は人権問題の視
点から抗議し、右翼は中国叩きの一環で抗議している。そのため、チベット問題を考える
集会には、左右の論客や支持者たちが集り、呉越同舟の観を呈したという。
 靖国問題を描いた映画が国会議員の一言で上映中止に追い込まれる一方、当の議員らは、
南京虐殺否定映画を議員会館で試写している。沖縄戦の集団自決に軍が関与した問題も法
廷で再燃した。そして今回イラクの自衛隊派遣が違憲とされた。国際貢献の名の下に軍隊
を派遣する人たちの思惑には利権が絡むことを、もっと明らかにすべきではないだろうか。
そして僕たちにできるのは、大上段な日本の貢献論ではなく、ダルフールやチベットの人
々にとって、そして僕たちにとって何が必要で、何が必要ではないかを考えることのよう
に思う。

(2008/4/21 志賀信夫)

【コラム】

「レインコートくらいは新しいものを」と母が毎年、レインコートだけは新調する。
とあったのは誰のエッセイだったか。色や柄を吟味してささやかな贅沢と流行をレインコートに込める、というような。
レインコートに凝るのは、いろんな服を揃えた上での、かなり余裕のある生活のようにも思えるのだけど。
逆に、和服の世界ではレインコート=雨ゴートというのは、和服で外出をしようと思うなら、真っ先に用意しておくべき実用品となる。水に弱い素材の多い和服では、「降りそうな」だけで雨ゴートを着て外出するくらいの気遣いが必要とされる。

屋外で仕事をする人以外、雨の日だけに着るコートを持っている人は少ないのではないかと思う。それも、ビニールの簡単なものか、災害にも耐えられるような頑丈なもののどちらかで、マッキントッシュの、バーバリーの、いわゆるレインコートとは別のものだろう。
愛用する人がさほどいるとは思えないのに、「レインコート」という言葉は廃れることなく耳にし、目にする。

「衣」の中でも、贅沢な趣味性の高いものというイメージがある。着る機会の少ないものを用意する余裕はなかなか持てない。しかも、やはり「いいもの」でなければダメ。そして、バタバタとした日常には似合わないものでもある。

吉田篤弘の小説を読むと、レインコートは、大事なモチーフとしてよく登場する。準主役という時もある。思い浮かべるのは、「刑事コロンボ」が着てるような薄いベージュの何の飾りもベルトもないようなシンプルなものだ。往々にして防水のとれた役立たずのレインコートなのだけど、それさえあれば、どんな嵐の中でも散歩が楽しめるように思える魅力的なもの。
読むたびに、あぁいいなぁ、レインコート欲しいなぁと思うのだけど、実現には至っていない。

小学生の頃は、レインコートを持っていた。1年生の頃は雨が降れば着せられていたと思うのだけど、子供には脱いだレインコートの始末ができない。
丸めてランドセルに突っ込んで、教科書が濡れるという本末転倒なことになったり、教室のロッカーに放置したり。
歩き方も下手だし、それ自体が軽い素材で風に負ける。レインコートの本来の威力が発揮できずにびしょびしょになっていた。そんなことの繰り返しで、レインコートはジャマなものと刷り込まれているとも言える。

レインコートは、歩く人のためのもので、電車に乗って移動する人間には向かない。
服を風雨から守ってくれるけれど、電車の中ではびしょぬれで回りに迷惑をかけることはわかっている。電車と外と出たり入ったりするたびに着たり脱いだり、脱いだらバサバサと水滴を払ったうえで手に持っているのもジャマにはなるし。傘も持たなきゃいけないし。雨が上がっても着続けるには、通気性が悪くて蒸し暑い(上等のレインコートは通気性もいいらしいけど)。
たまに、駅でスーツの上に着たビニールのレインコートを脱いでいる人を見かけるけど、どうも不便そうだなぁ(というか、あれはしなくない)としか思えない。

と、先週の台風のような風雨のなかで、傘よりレインコート!とコンビニで半透明のビニールのを買おうかとも思ったのだけど、やはり、脱いだときのカサバリを想像すると手が引っ込んでしまう。

それよりも、私の欲しいのは、吉田篤弘の小説に出てくるようなレインコートだしっ。
なによりも、何年もかけて着込んでクタクタにしなければならない。もう買い換えなきゃというところまで年季をいれなければならない。
いいレインコートを手に入れたら、きっと、台風の中をニコニコしながら散歩するだろうと思う。

レインコートがないから、この雨じゃ外に行けない、とウラハラに、レインコートがあるから、ただ散歩したい。

(2008/4/14 WADA)


無断転載禁止 掲載:アーク編集室

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