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2008年3月のコラム

【コラム】

桜満開の週末。お花見に繰り出すというのは、嫌いだけれど、外出する=イヤでも桜が目に入るというロケーションに住んでいるので、結局、お花見。

ここばかりでなく、東京はいたるところに桜のポイントがある。
吉野の桜には比ぶべくもないけれど、立ち止まって見上げたり、車窓から眺めるには充分。

家から駅までのわずかな道程に、何本の桜があるだろう。
満開のソメイヨシノ、咲き初めの山桜、まだ蕾の八重桜。滝のような枝垂桜。
背景の松もがんばって、なかなかめでたい景色をつくる。

桜に埋まる小学校の前の歩道は、ハナミズキが蕾をぷりぷりにして待機中。
ハナミズキは、かのポトマック河畔に贈られた桜の返礼にと、東京都に贈られたもので、以後、東京の並木によく植えられる。

まだ花を咲かせず、新緑も見えない木々も、春の気配をその枝にうかがわせている。

藤城清治の影絵のような、きっぱりとしたちから強い線で、桜の雲錦を引き締める。
一面の、海のような桜の見事さもいいけれど、濃い緑、深い線に彩られてこそと思う。

(2008/3/31 WADA)

【コラム】

●IDって何だろう

一億総背番号制度が問題になった70年代、次に住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)が出てきたが、それでも海外のようにIDカードの呈示を求める国家にはなっていない。しかし巷に個人情報は驚くほど流布している。著名人のデータはある程度ネットで見つかり、学校や役所勤めだと、メールアドレスが推測可能なこともある。何より僕らがインターネットショップで、カード番号やパスワードなどを何度入力したかを考えると、恐ろしくなる。

ただ、運転免許を持たない身としては、保険証やパスポートの携帯も不安なので、希望者のみへの写真入りIDカード発行は必要かもしれない。車不用の都市生活では、老人が増えれば、免許証を更新しない人も増える。
それでも、自動販売機で煙草を買うために固有のIDカードが必要になるとは、誰が予測したろう。未成年者喫煙防止のためだが、ホームレスも買えなくなる。というのは、ホームレスの大半が家族の元などから失踪してきた人たちで、生活保護や施設入所を拒否する理由が、「家族に知られたくない」。
だからIDを持てないのだ。

一方で新商品を次々と開発・発売しながら、販売を抑え、税の減収を導く煙草の矛盾。十代から喫煙してもいまは止めている人がほとんどだが、「選挙も酒も煙草も十八でよい」という、参政権引き下げのための布石なのか。この十年で喫煙は驚くほど抑制されている。米国由来の健康キャンペーンが蔓延しているのだが、ヴェジタリアンも含めて、実にうさん臭い。禁酒法でギャングの酒による資金が政治に流れていた米国は、禁煙法でまた稼ぐのではと思ってしまう。

電車カードも便利になり、一瞬でクレジットカードから振り込まれる。しかしこの便利さは極めて危ういのではないか。IDの意味をもう一度考え、現代の流れに対してどう警鐘を鳴らすか。いま考えないと、撮り返しのつかないときが来るのではという不安がよぎる。

(2008/3/24 志賀信夫)

【コラム】

流行ものの着物が嫌いな私にとって、少々つらい3月です。

1月の成人の日は、当日のみのことで、その日の外出を控えれば、「ああいうの嫌い」な着物姿を目にすることはありません。

3月のこの時期は、大学の卒業式がバラバラと行われ、自宅も会社も回りに大学が多いので、頻繁に着物の若い女性を見掛ける毎日です。

最近の振袖の柄は、形式・様式と無縁なリアルな(だけど空想の)洋花を描いたもの。花の色は、12色の色鉛筆そのままの安直な白・水色・ピンク。

着物の地色は、子供用水彩絵の具に黒を少し混ぜて作る緑・黄土色・赤紫。裾に黒を持ってきて、無理矢理ぼかして繋げたように染めているものを多く見掛けます。

帯も帯締も、敢えて季節感や年相応な色遣いを避け、無意味をテーマにしてるようです。

さて、最近の目立つ傾向として、足元が靴という人の多さも目立ちます。
矢羽根に袴にブーツを合わせて、大正ロマン風が流行ったこともありましたが、今のはただいつもの靴。
草履が馴染まず、現場までは慣れた靴を履かざるをえない人もいるかもしれないけど。
でも、スニーカーは。。。
しかも、袴ならまだしも、振袖には。。。
そんな姿を、服飾のプロが「これもアリだよね。可愛いと思う」などと言う。
まぁいいけどサ。
着物の汚れ方と傷むことなんて、考えたこともないのかな。
と、苦々しく思うのです。

そして、バッグは本気でいつものままのを持つのが主流。
さらに、キャスター付スーツケースを引きずる。

着付をしてもらうなら、着物・帯だけでなく、下着も小物も着付道具も持参するものだと思いますが、何かがたりなかったのか、朝から着崩れして袴の上にお尻が出ていたり、袴の裾から着物が出ていたり。

これは、美容室など、お世話するほうの責任も大きいでしょうねぇ

総じて、美しくないのです。
着物としても、洋服の色遣いとしても。
着付けた姿も、せっかく可愛い顔立ちなのにと思う人も多いのに。

こういうのが喜ばれる=流行ですよと勧める誰かの錯覚なんでしょうか。
成人式と卒業式しか着るつもりのないものを、とことん納得のいくものを探したり、オーダーする人は少ないのは当たり前。
これなら「浮かない」と言われたものを、そのまま買う人を非難はできません。

着物離れと言われる中、どんなものでも着てくれれば良し、なのかなあ。

少し前、昔着物と称して、へんてこな着こなしが可愛い・新鮮、私達が着たかったのはこんな着物、と持てはやされ、コーディネートのカリスマなんて人も現れていました。
ところが今はそのブームも薄れ、約束事を踏まえ、きちんとすっきり着ることが良しとシフトしてます。
これは、私好みなので続くと嬉しい。

冒頭に「流行もの」と書きましたが、私が嫌なのは、美しくない着物です。
そして、考えのない着物姿です。

会社からの帰り道、銀座で地下鉄を乗り換えると、これから「ご出勤」という人を見掛ける時間帯です。
着物を着てるけど、着付はだらしなく髪はゴムで束ねただけ、マスカラだけはバッチリという様子で、始業前にどこかで着付ヘアメイクをやってもらうのでしょうが、元が美人で玄人好みの着物だから、人目をひきます。
このような姿は別物と教えてくれる人がなければ、憧れてしまう人もいるかもしれません。

聞く耳がないから と 教えてくれない の悪循環かもしれません。

(2008/3/17 WADA)

【コラム】

●闇の中

 先日、神奈川・大倉山公園で、舞踏家が踊るのを見た。すっかり晴れた日だったが、風は冷たく、少々凍えがちだった。夕方の5時すぎから、木の間にたたずみゆっくりと動く。白塗りはせず緩めの服のまま、1メートルを10分以上かけて動く。そして倒れて、また起き上がり、風を受けながら立って向かってくる。静かだが緊張感ある姿が自然のなかに吃立する。夕方から静かに日が暮れてやがて闇に沈むまで、自然の光の変化をその体を通して感じる舞台は、このうえないものだった。

 闇は急速に訪れる。太陽が沈むと、木と体が同じ色になり淡くなる。しかし地面を見るとまだ明るい。それは夕焼けを眺めるのとは違う。そして寒さゆえに観客も次第にゆっくりと足を動かしたり、少し屈んで膝に負荷をかけたりするのが、踊りのようにも見えた。
 光と闇について想いを馳せると、谷崎潤一郎を思い出した。『陰翳礼賛』というエッセイだ。谷崎は新しい家を作ったときに、純日本家屋には電気や暖房などの機器、スイッチなどがそれを損うということを書く。そして西洋的な白い明るさに対して、日本では本来、光のみならず闇を大事にしてきたという。

 昭和8年に書かれたこの文章は近代化、西洋化によって日本の闇は失われつつあるとする。確かに僕らが子どものころの昭和30年代は、家にまだ闇があった。電灯の傘の上、押し入れや箪笥の陰、廊下の隅。そして谷崎のいうように、日本家屋と障子は、外光の微妙な変化を屋内に感じさせるものだった。
 自分の部屋を見ると白い壁に明るい床で、まんべんなく光が当っている。これは日本のモデルにした西欧建築がアメリカの映画やドラマ、雑誌の写真を模倣したせいではないか。いまでは過剰すぎる照明で、エネルギーの無駄も多いはずだ。屋外も街灯が白々と照らし出し、空の雲を白く染めている。時には光だけでなく、闇を求めてみるのもいいかもしれない。

(2008/3/10 志賀信夫)

【コラム】

どうにも読めない本というのがある。

小説であっても、ノンフィクションでも、エッセイや随筆と言われるものでも、その私なりの読み方は、文体やリズムに乗ること。
語彙の宝庫のような大家も、ケータイの辞書機能レベルの作家のも、まず、そこが読み始める第一歩だ。
書かれているのが、日々雑感であろうと、世界の不条理を憂えていようと、波長の合うリズムでなければ、「乗って」読み進むことが難しい。

他愛ないことであっても、するっと読んだのち、リズムを反芻して、そこで初めて消化吸収するか、吸収せぬか、となる。
馴染みにくいリズムで、飲み(読み)難い文章もあるが、反復するうちに病み付きになることも多い。

たいていは、立ち読みして「いける」と判断してから買うのだが、書評やコピーだけでネットで買う時に限って失敗する。
お勉強の本ならば、それでも、まぁ読むけれど、楽しもうと思う本は本当にツラく悲しい。
空腹で、目の前にご馳走を並べられ「さあ、どうぞ召し上がれ」とすすめられるのに手が届かない、悪夢のようでもある。

逆に、気に入った作家を立て続けに読んでしまい、食べ飽きてしまうこともある。
これは、図書館を利用した時に起きやすい。
何冊もの予約の順番が一度に来てしまい、やむなく他の本を放って、咀嚼と嚥下に努めた結果、「もう一生分いただきました」となってしまう。
何事も、旬を逃してはただの腹塞ぎとなるのだろう。

年に1冊か2冊の新刊を待つ作家が何人か。そこにご新規の作家が少しずつ加わっていくくらいが、じっくり味わうにはいいだろう。
そろそろ、あの人の本が出る頃、と花便りと初物の売り声や節句の準備とともにゆるやかに季節が巡るのが理想。
早く読みたい、もっと読みたいという欲が、読書のペースにも異常気象や消化不良をもたらしているかも知れない。

(2008/3/3 WADA)


無断転載禁止 掲載:アーク編集室

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