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2008年2月のコラム

【コラム】

●新書流通計画

 出版界はフリーマガジン以外は、新書が花盛りという印象だ。岩波新書に代表され、老舗の中公、講談社などに加えて、大手、中堅、新興出版社が次々と参入している。新書は著作がある学者などが入門的に書き下ろすものと、まったく新しい企画ものに分かれる。子どものころ、光文社のカッパブックス『頭の体操』は大ベストセラーだった。また新書ミステリーの書き下ろしも、当時は松本清張や梶山季之、近年は『新宿鮫』などで、いまは「ノベルス」と呼ばれている。
 現在隆盛の新書はやはり入門・ガイド系列だろう。定価が700円前後と安く、文字も大きく読みやすい。読書術などの「術」、整理法などの「法」、老人力などの「力」ブームを経て、いまはなぜか「品格」ブームだ。保守化の現れもあるが、政治も経済も生活も、すべて利権と拝金、効率主義が目立つので、倫理や美意識に頼るしかない。「さおだけや」などの疑問形タイトルも以前からあるが、いずれも「眼から鱗」「新しさ」が流行る。
 学生時代は門外漢の知識を得るため、レポートなどに役立った。いまはネットから膨大な知識が得られるため、新書にはもっと個性が求められる。ただ各社が月に4、5冊、合わせて百冊以上と膨大に出る時代。読み捨てられ再版されないものがほとんどかもしれない。新古書店に持ち込んでもいくらにもならない。ならば友人知人にあげるのがいいか。
 最近読んだ新書には、その著者が、かつて最初に自費出版した少部数の本に、「コメントを書いて友人に回してください。できたら最後に僕に戻してください」と書き、1冊戻ってきたという話が書かれていた。ならば読んだ新書は「ひまつぶしにどうぞ」とあげてしまうのがいいかもしれない。「読んだら人に回してください」と書いてみようか。古くなっても「新書だから古書じゃない」として次の人に渡るかもしれない。

(2008/2/25 志賀信夫)

【コラム】

遅ればせながら、新東京国立美術館へ。
「横山大観」を見に行く。

東京に新しい美術館がオープン、またはリニューアルと続いた昨今、ようやく制覇というところか。
例えば、好きな仏像で言うと、天平や藤原の時代に造られた頃は、金を纏ったり鮮やかな彩色が施されていて、かなりカラフルで派手な姿だったはず。
再現された、その姿にはまったく心動かされないのに、古色を帯び、あるいは欠損した姿に感動する。
そういう感覚に近いのか、新しい美術館には、何かとケチをつけたくなる。

寒いのもイヤだし、太陽も嫌いなので、正面玄関を避け、乃木坂駅から直結の入口から入る。東京都現代美術館に似た歩き心地。
吹き抜けの開放感がある一方、3階までの展示室の壁とガラスのカーテンウォールとの空間(つまり通路)が意外と狭く外観より狭く感じる。
正面のガラスウォールの外は、広々としているが、樹木などなく、南向きで夏場はつらかろう。

ところどころにコインロッカーがあるのはいいが、向かい合ったロッカーの間が狭く、荷物の出し入れは片面ずつ譲り合わなければならない。
新国立美術館は、収蔵品を持たない美術館であるから、展示室は無個性で蛍光灯の明るさだ(蛍光灯じゃないかも知れないが)。
でも、横山大観展ならば、それらしい演出も欲しいなぁと思う。
演出なしでも力強い作品であるべきだけど。
こういうところに、古色があればなぁと思ってしまう。
壁が黄色味があるとか、木を使うとか。

ポール・ボキューズのレストランに興味はあったけど、一人だったし、他に用事もあるしで、2階のカフェに行く。
次に行くことがあったら、1階や地階のカフェテリアでいいや、という感想。
ミュージアムショップも。。。

地階には、デザイナーズチェアが置かれ、自由に過ごすことができるスペースがある。
このスペースには、他の美術館のポスターやフライヤがあればと思う。
これが一番強く思ったこと。
六本木にはギャラリーも多いし、銀座や上野にもアクセスはいい。東京の美術の拠点になればいいのに。

(2008/2/18 WADA)

【コラム】

■コラム2008

●音楽メディア

 『R25』誌によると、強化ガラス製CDはやたら音がいいらしい。団塊下世代の僕たちは音楽メディアの進歩を目の当たりにしてきた。小学校のときに父親が出始めのステレオを買ったが、付属のレコードが「いま右のチャンネルで話しています」とステレオ効果を確認するものだった。いまのDVDのように雑誌にソノシートが付くことがあり、三島由紀夫の自衛隊演説は大事に保存している。中学高校時代はアンプとスピーカーを自作し、録音はオープンテープからカセットへ移ったが、ウォークマンは衝撃で、音楽の携帯が始まり、録音はDATへ移る。

 レコードもデジタル音源化が進むが、反発するように当時、ゼンマイ鉄針の蓄音機を譲り受けて聴いていた。最初のステレオには78回転があり、どこの家にもSPレコードが眠っていた。そしてCDの登場。それでもレコードと真空管アンプはいまも愛される。

 ウォークマンの普及と貸しレコード・CD屋の認可により、ダビングコピーが圧倒的に増え、40代以上は処分に困っている。録音メディアはMDに移り、さらにCDコピーもiPodに代表されるメモリオーディオの時代。ダウンロードが始まり、ピンボタンサイズに数百曲収録し、3〜4センチのサイズで映像も見られる。コンピュータメディアがカセットテープから7インチ、5インチ、3.5インチのフロッピー、ハードディスク、メモリへ移り、それが音楽メディアと合体した。

 メディアの発達は手に入る情報を圧倒的に拡大した。かつては新しいレコードが手に入ると、集まって聴いたりしたが、いまは恋人が電車で並んで違う音楽を聴く時代だ。コミュニケーションが変化し、個に閉じ篭る要因が増大する。電車で聴かれている音楽が一斉に響き、携帯で送られる情報が外にディスプレイされたらどうなるか想像してしまう。情報の獲得に比例して、どうも人間関係をうまく取り結べなくなっているようにも思えるのだが。

(2008/2/11 志賀信夫)

【コラム】

ブリヂストン美術館の印象派を見たあと、いつもならティールームによるところを日本橋を渡ったのは、゛日本画「今」院展゛が開催中であったため。
「院展」というと私がもっとも敬遠する美術展であるのだけど、見たい数点のために気付かなかったことにする。

カタログも買わず、キャプションもろくに見ず、展覧会の趣旨を理解しない失礼さだが、好きな絵だけを目指して進むのは、私には心地よい見方。

見たかったのは、「水花火」。
川に小舟を浮かべ投網を打つ瞬間を、花火が夜空に広がる様になぞらえたのだろう。
タイトルの勝利。網の目が緻密に描き込まれて、、、でも、これって、、、写真に撮った絵を見ながらでなければ描けないよね?と思ってしまったら、もうダメ。
ロックウェルなんか、それを公言してるけど、私はそれならば元の写真を作品としてほしいと思うので。

この美術展で、魅かれたのは「大和・雪のしじま(後藤純男)」
うっすらと雪化粧した伽藍の静寂を描いている。
なにひとつ言葉もなく、静かであるが、雪に透けてみえる樹木の緑からは、命の営みが眠りから覚める一瞬をとらえているように思う。

ルノアールたちと、私が好む画とは「描きたい気持ち」のありようがまったく違うのだと思う。
私が魅かれるのは、俳句でもひねりたくなる風景や場面で、その通り作者の苦吟の痕が感じられる画。
語り手を置かずとも、物語がすっと心に届くもの。
約束事があるがゆえに、五文字・七文字に限りない数寄を込められる、そういう歌心がある画。

印象派はわからん!好かん!と言わずに、視点が違うことを飲み込んで見ればいいのかもしれない。
その視点に共感できるのは、いつの日か。

会場出口には、さすがデパートで出品作家の画の即売コーナー。
片岡球子は1500万円。ローン可には心魅かれなくもなかったけど。

このすぐ後、片岡球子さんの訃報。
日本画の愛でたき面白さを教えてくれた人。
心からご冥福をお祈りします。

片岡球子さんに聞いてみたかったことがある。
「面構」は、光琳の紅白梅図屏風に通じるのではないかと思っているのだけど。

(2008/2/4 WADA)


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