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2008年12月のコラム

私は数学ができない。それ以前に算数ができない。
病弱ゆえの読書好きで小学校に入学するころにはかなりの漢字も読めて、家庭欄や社会面なら新聞も読んでいたと記憶している。
高校入試問題・大学入試問題も国語なら合格点がとれるほどできていた。
国語・社会・理科であれば、神童だった。神童と呼ばれた子供が秀才・天才としての人生を歩まないのはお約束。
とはいえ、1年生当時から学校中の先生に「将来が楽しみな逸材」としてちやほやされていた。

忘れもしない、2年生の算数の授業中。
「あなた、頭よさそうな顔して意外とできないのね」とは担任の先生が授業中に私に言った言葉。
学校中の先生にちやほやされていた私だが、この担任とだけは相性が悪かったのか、ことあるごとに先生のほうから突っかかってきた。
(自分の祖母よりおばあちゃんにみえた)ベテランの先生が児童にいう言葉かと思うが、今でも覚えているから当時でもその意味は理解できたキツい言葉だった。
たしか、九九の暗唱でどこかでひっかかっただけで、この言葉を言われた。
九九のでは他の子にも、今思えば家庭での「訛」のために皆と違うイントネーションで暗唱したことを、子供と一緒になって嗤いあげつらい、その子は虐められる結果となった。
ともかく、担任の一言で私は算数をまじめにやる気を失って、落ちこぼれの一途をたどることになった。
数式はまったく受け付けないのだが、幸いにも数学・物理・化学も数式でなく理論や実験を重視する教育方針の学校のおかげでなんとか乗り切り、ともすれば理系の先生に気に入られる傾向にあった。
困るのはテストの点数がとれないだけで、日常生活になんの不便もないまま現在にいたる。
高校の時には、あまりのひどさに先生が「バカにされてる」と泣き出してしまうようなこともあったが、まぁなんとかなるもんだ。

それほどに算数ができないはずの私が、会社では関数だのマクロだのを駆使して、理系出身の課長に上から目線で「こんなの関数つかえば一瞬でできるじゃないですか!」と叱咤する毎日。
実は理系の頭だったのかも。(関数が使えてはしゃぐ程度なら間違っても理系ではない)
小学2年生の担任のY川先生には「あなたが刈り取った芽」として、高校1年の授業中に泣き出したM井先生 (男)には「泣くことはないのだよ」と、見せてあげたい。

(2008/12/22 WADA )

「壊れる」

 以前から液晶がおかしくなっていた携帯電話。今度は二つ折りの片側が割れた。慌ててセロテープで応急処置。やむなく買いに行ったら、五、六万と高いうえに、新機種が出揃っていない。それまでどうしようと尋ねたら、中古があればカードを差し替えて使えるという。それでネットで同じ機種を買った。新しい操作を覚えなくてよく、データもそのまま使えて、数千円。FOMAは、自分でカードを差し替えればすぐに使えるとは知らなかった。ワンセグ、フルブラウザも魅力だが、機能が多すぎて面倒な気持ちもある。
 今度は小さいパソコン、PDAといわれるやつで、長年使っていたものが、ついにダメになった。ソフトが起動せず、他のパソコンからもデータが拾えない。実はこのコラムを含めて、この五年以上、ほとんどの原稿をこれで書いてきた。書きかけたコラムもその中にある。実はそのためにこの原稿は遅れた。申し訳ない。
 考えてみると、年末はいろんなものが壊れる。愛用している椅子は三、四年に一回、必ず年末に座れなくなる。部品を取りかえて使いつづけているが、この時期はちょっと不安だ。おそらく、年末になると何か慌てており、扱いが荒くなるためもあるだろう。またプレゼント、ボーナスの時期で買い替えの欲望が刺激されるのも一因か。  そういえば、そろそろ新しいのをと思っていると、不思議なことに、前のものが壊れるという経験をしたことがないだろうか。無意識に扱いがぞんざいになったりするためだとは思う。しかし、持ち主に心変わりされ、捨てられるとわかって、いうことをきかなくなったり、あるいは、自ら命を絶つようにも感じられて、ふびんに思うことがある。機械や物にも心があると思われるのは、そんなときだったりする。しかし、いかに自分の生活が機械や物に依存しているかを、再び思い知らされるのも、壊れたときで、それまではその自覚すらないのも事実なのだ。

(2008/12/15 志賀信夫)

何か凶悪な事件が起きるたび、テレビや新聞に被害者・加害者の写真が載ります。
被害者が小さな子供であったり、優しそうなお年寄りであると、笑顔の写真を見て、将来や今までの人生を思ってしまいます。
その人を知る人の感情に比べれば、何も知らない私の同情など手向けの花としても失礼になりかねず、ひそかに黙祷するくらいで事件を客観的に見るようにします。

一方、新聞に載っている、例えば30歳台の被害者・加害者の顔写真が中学や高校生の頃のものだとすると、それをマスコミに渡した人間に怒りを覚えます。
明らかに、今現在、疎遠な人からマスコミに渡ったもの。家族や友人ならば、現在に近い時期のものを持ってるはずだし、まして写真を渡すことはしないでしょう。

取材者が、被害者・加害者の経歴を調べ上げて、流出した名簿を探し出して、片っ端から「写真をください」なんて連絡したわけはなく、「20年前のだけど」と誰かが持ち込んだ写真を世間に公表してるんだと思う。

写真を使う神経もどうかと思うけど、やはり持ち込む人間の神経を疑ってしまう。
自分が持ち込んだ写真が新聞に載って嬉しいんだろうか?誰かに「あれ、俺が送った写真」なんて自慢するんだろうか?
事件の被害者・加害者に対して、野次馬的な好奇心しか持ち合わせていない人間の存在がものすごく不快で不思議です。

捕まった容疑者の写真を見たところで、何にもならないと思うんですよね。
もしかしたら、近所で類似の事件を目撃したことがあったかもしれない。「あ、あの時の!」と、余罪追求のきっかけになるかもしれないけれど、誰かを悪人だと知ってから見たら、似た容貌の人をなんでもなくても疑わしく思ったりするでしょう。
そういうことも、万に一つ、あるかもしれないけど、20年前の写真じゃ。。。

(2008/12/8 WADA)

●「アレルギー」

 現代病といわれるアレルギー。花粉症、アトピー、喘息など実にさまざまで、体の抗体反応が逆に体を蝕むらしい。僕も30代で喘息になった。だが体験的にもアレルギーは精神的要素が強いと思う。花粉症は自らそうと認めると、反応は加速し、症状が悪化する傾向がある。

 ひきこもりも一種のアレルギー反応とは見られないか。他人や家族との交流を排除し自分の世界に閉じこもる。家庭や社会の過保護が流行を助長する。アトピーの子を持つ親には、元々自然食など気を使う人が多いようだが、人間の防御作用が過剰に反応する。それが身体的に現われるのがアレルギーで、精神的に現われるのがひきこもりなどのようにも思える。学校嫌
い、人嫌い、親嫌い、社会嫌いの「嫌い」を「アレルギー」に置き換えればどうだろう。自閉症、鬱を含めて「精神疾患」とされるものには、精神的なアレルギー反応が原因の一つといえはしないか。

 ソバアレルギーでもショック死することがあるように、アレルギーは侮れない。サバや卵アレルギーでは、見ただけでじんましんを起こす人がいる。花粉症では、花粉が散るテレビ画面でくしゃみする人もいる。薬物による治療とともに精神的な治療、抑制も必要ではないか。自分の喘息体験からしても、出そうだ思うと意識が加速し、気配だけで発作が起こる。喘息発作には
気管支拡張剤を噴霧するが、プラセボ(偽薬)として口臭防止スプレーも効果があると思う。

 肉体のアレルギーには、アレルゲン(原因物質)の検査が有効だという。精神的なアレルギーもそれを突きとめることが必要ではないか。ひきこもりやリストカットは思春期に多い。性の目覚めや大人になるという精神的、身体的な不安定期に、いじめ、学校、家族、社会などのアレルゲンが重なって重症化するのではないか。病いは気からともいうが、気の病いの原因にはその反対に、具体的なモノ、コトがあるはずだ。

(2008/12/1 志賀信夫)


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