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2008年11月のコラム

会社帰りにひさびさに出た新刊小説を買いに、いつもと逆方向へ一駅。
目的の一冊だけを買うつもりが、ちょうどあちこちの出版社が「秋 の新刊」を出した直後だったらしく、未チェックの読みたい本の山々に目が爛々と輝いてしまう。

本屋さん用のエコバッグを持っていなかったので、3冊だけを厳選してほくほくしながら、帰り道に向かう。本屋さんのすぐそばの老舗珈琲店に心魅かれながらも、ここで寄り道しては後の長い道中がつらいからと断念して。
いつもの電車のホームについてみると事故。しばらく電車が動く気配はない。

頭に浮かんだのは、半月ほど前に買った小説に挟まれていたリーフレット。
「本を買ったら」とタイトルのついた版画があしらわれ、描かれているのは神田・神保町の名喫茶店。
「そうなんだよねぇ!」と笑顔になってしまう素晴らしいタイトルだった。

急ぐ帰り道ではなし、近くの喫茶店に寄って戦利品を眺めながらコーヒーとサンドイッチかケーキで晩ご飯代わりにしちゃってもいいかなぁとにやけてくる。
でも、この駅の近くに本を広げたい喫茶店はないんだよなぁ。好きな喫茶店はあるけれど、窓の外を眺めてぼんやりしたり、友達とおしゃべりする店ばかりで、一人で本に浸る店が思い浮かばない。
ブックカフェが一軒、思い当たるけど、その店とは違う袋から買ったばかりの本を出すのはどうだろう。そこの店員さんには、絶対に今日が発売日とばれてしまうだろう。

ならば、あっちの店。コーヒーも美味しいし、今時分なら夜景もきれいに見えそうだけど、そんなに遅くまでやってたかなぁ?
駅の中の_タバは、ソファ席に座れたらいいけど、ソファ以外の椅子は長居がつらい。まして、この事故のタイミングでは満席だろうなぁ。
あまたある喫茶店は、どこでもいいわけでなく、一緒にいる人や時間帯やいろんな条件で「あそこでなければ」というのを、なんとなく自分で決めてしまっているなぁ。

「本を買ったら」その「本に浸る」ために、帰り道の一歩前に喫茶店に寄りたくなる人は多いと思う。
好きな本屋の近くには、好きな喫茶店がある、というようなことを以前に書いた記憶もある。
本にまつわる喫茶店は二種類必要で、一つは本を読むために行く店。いま買った本ではなくて、何度か読んだ本がバッグに入っているのを確かめたうえで入る店。

こちらは、長居を許してくれる雰囲気、というか客をほっといてくれる・適度にざわざわしてて、店員さんの目があまり行き届いていない・こだわりのメニューがない店。というとチェーンのコーヒーショップがいいということになる。本当は、読むためというよりも他人だらけのざわついた空気に包まれに行くようなものかもしれない。
もう一つは、「本を買ったら」行く店。こちらの条件は厳しい。実際には本は読まない。挟んであるリーフレットをじっくりと読み、表紙を見てカバーを外して装丁のすみずみまで探って、目次とあとがきまでは読んでもいい。
うしろのほうの「既刊案内」も読む。本文以外の読むところをすべて読んで、バッグに大切にしまう。コーヒーの匂いや暖かさ、店の空気に誘われて、ここで読み終えられたら、と思うこともあるけれど、なぜか楽しみにしている本ほど、どんなに気分のいいところであっても、読まない。

家に帰り着いて、手も洗わずうがいもせず、着替えもしないで一刻も早く読み始めたいのに、すべてすっきり終えてからと自分に枷をつける。
ルーティンを終え、クッションを積み上げ、膝掛けを出して、お茶の用意をして。。。でも、ホントに待ってた新刊がもったいなくてまだ読み始められない。

あしたは雨の予報。それは読書籠りに格好の天気。ならば、きょうのうちに好きなお茶とお菓子も買っておいて、なーーーんにもすることがない雨だれだけの中で読むことにしたい。

(2008/11/24 WADA)

●ゲームの規則

 ゲーム機熱が再燃し、巷でイヤフォンをつけ熱中する男を見かける。凄いスピードで連打する音が外に響いても、自分は気がつかない。イヤフォンが抜けたままゲーム音楽を流す若者。携帯電話に集中している男女も、1/3はメールやサイトではなく、ゲームにはまっている。

 朝10時前に繁華街で列をなす男たち。パチンコ、スロットで台を確保しようと待ち構える。以前からの光景で、賭け事の熱中は当然だが、これらもコンピュータが入り込み、加山雄三などのキャラクターが利用される。

 団塊後半はマンガ世代で亡国論が唱えられた。テレビ世代は一億総白痴化、そしてアニメ世代とオタク。どれも前の世代から批判される。だが、耳も目も外界に閉じ街を浮遊しゲームに熱中する光景は、引き篭り部屋が歩いているように見えて、少し怖い。

 いまスポーツ、音楽、学習、健康などのゲームの広告がテレビで流され、コミュニケーションや社会性を強調する。コンピュータを介する必要がないものをゲームに吸収する。ゲームは与えられる快楽を享受するのみなのに、参加している錯覚を与える。RPG(ロールプレイングゲーム)が結末は参加者が作ると宣伝したが、それは嘘。出口がいくつかある迷路を歩いているにすぎない。終えると達成感が勘違いを助長し、広告に踊らされ続ける。

 80歳の母親を久しぶりに訪ねたら、新聞のクロスワードパズルに熱中していた。熱心に解く高齢者も電車に見かける。デジタルや電気も使わないほうが実は楽しい。シンプルだから想像力を刺激し、創造的にもなる。

 コンピュータゲームはむしろ老年からやるべきだ。それを入口にメールやネットに入れば、体力が衰えても、会えない人とつながれる。身障者にコンピュータが有効なように、老年になってこそ、役立つのではないか。ゲームの快楽もそれからで遅くはない。

(2008/11/17 志賀信夫)

11月の曇天。ふと窓を見ると、レースのカーテンに蜘蛛がくっついている。「蜘蛛を殺してはいけない」というのは、子供の頃、祖母だったか母だったかに言われたことがある。
(うちの母は、小さい時にはいろいろと情緒的な古風なことを子供に言っていたが、大人になるにつれ、かなり現実的に移行し、私が迷信めいたことを言うと「なに年寄りみたいなこと言ってんの」と 一蹴するようになった。大人って。。。)

迷信はともかく、虫の音も絶えたこの季節には、虫に限らず外に生きるものには、優しく接したくなる。
夏には「出てけーっ」とばかりに追い出した蚊だとか、蛾だとか。今ならば「少し暖まったら外にお行き。うちの中に卵を生んじゃダメだけど、来年、君の子孫に会いたいものだね、もうひと頑張りしなさいね」くらいの言葉をかけてしまう。去年の秋、そんなことを言った蚊の子孫が今年の夏に訪ねてきたのを追い返した鬼ということになるが。

たとえ、小さな虫であっても生命力が強いと、こちらも必死で身構える。今の虫は「一寸の虫にも五分の魂」どころか、達観して、とても徳の高い魂を感じることがある。魂と生命力は反比例するのだろうか。そして、相手の生命力には常に警戒し、反発するのかもしれない。

静かで一様に枯れた色をしていて、明らかに命の終わりを待つだけの風情。指先から一滴の末期の水をと思わぬでもないけれど、この一滴にも溺れてしまいそうなはかなさ。

昨日は、雪虫を見た。11月初旬の東京で、それは早いような気がする。北海道では「雪虫が飛ぶと初雪」なのだそうだ。たしか、札幌で初雪とは金曜日か土曜日のニュースで見たような。
井上靖の短編「ゆきばんば」で知った虫。小説の中身は覚えていないのだが、タイトル通りの虫の俗称と雪の合図というようなところだけ覚えていて、子供の頃には「ゆきばんばが飛んでたから雪が降る」と吹聴しては裏切られた記憶がある。

初雪の淡さは、指先で受け取ろうにも揺蕩って、うまくつかまえられない。指先についた一瞬で融けてはかなくなってしまう。雪虫も同様で、焚き火の灰が飛んできたのかと思うようなとらえどころのない軽い虫は、何かにくっついた瞬間に命が終わってしまうのだそうだ。

(2008/11/10 WADA)

●浅草の夜

 東京杉並に長く住んだが、浅草は1時間半、遠かった。常盤座には何度か行った。第七棟、大駱駝艦の舞台を見るためだ。次々と映画館が廃館し、廃墟的な空間の公演だった。観光は南米から来た知人の案内くらいで、浅草寺横のレトロな銭湯はたいそう喜ばれた。モダンな吾妻橋のビルにはしばしば行くが、古典的な劇場にはまったく入ったことがなかった。それが今年は2回、木馬亭に行った。
 最初はダダカン、美術家糸井貫二のシンポジウム。全裸パフォーマンスによって1964年の東京オリンピック、70年の大阪万博などで捕まった。現在89歳で仙台に1人住む。60年代から活躍する美術家、批評家などが木馬亭に集まった。
 先週また、仲見世から浅草寺を左折して、木馬亭に辿りついた。劇団1980の『素劇 あゝ東京行進曲』は、戦前の流行歌「東京行進曲」を歌った佐藤千夜子の生涯を描く作品だ。素劇とは聞き慣れないが、日舞の「素踊」からか、極めてシンプルな衣装、装置、音楽で演じる芝居で、演出の関矢幸雄が提唱する。今回の舞台は、50センチ立方ほどの黒い箱20個と白い紐が舞台美術。紐は山になり線路になり十字架になる。箱は汽車や車から教会、ピアノ、墓まで、やはり日舞の「見立て」ともいえる。関屋は元々舞踊家で土方巽とも共演した。伴奏もすべてアカペラで、クラシックから歌謡曲まで数十曲が登場し、レトロさがこの舞台によく似合う。聞けば十数年前にここで初演し、日本中、さらにブラジル公演も行ったという。オーケストラに豪華な衣装、重厚な舞台のバレエやオペラも素晴らしいが、僅かの道具にどこでも上演できる、こういう表現の原点に返る芝居を見ると、目から鱗だ。佐藤千夜子は大衆歌謡で一世を風靡し、本格派を目指してイタリアに学ぶが、帰国して挫折する。普通の人々のための芝居という「素劇」の思想は、この物語と重なる。こんな芝居をまた見たいと思う、秋の夜の浅草だった。

(2008/11/3 志賀信夫)


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