Arts Calendar/column

2007年8月のコラム

【コラム】

夏の何もかもが嫌いで、この季節、富士の樹海の昼尚暗い木陰に潜むキノコたちが羨ましい。そんな調子だが、目をできるかぎりに細めてドラキュラのような気分で見上げる夏空に「成層圏」という言葉を思い浮かべる時がある。「成層圏」が何か?なんて子供の頃から今に至るまでイメージでしかないのだけど、屋根裏部屋の秘密の宝物と宇宙ロケットが同居するブラッドベリのSF小説を好んでいた頃に覚えた言葉なのだろう。夏空といえば「成層圏」だったのだ。

雲ひとつなく、一気に塗りつぶしたようなムラのない水色の空。小学校のプールに潜った後、カルキの匂いにしみる目で見上げた、ほんの少しラベンダーがかった空の色。空の色以外、なにもない、それが私の思う成層圏。その空に空色以外の色があることが許せない。もし、許せるものがあるとしたら、銀色に輝く宇宙ロケットだけだろう。地上とSFの舞台になる星空の、中間にある神聖な空間なのだ。

だが、「成層圏」と感じるのは、もう暦の上では秋に近付いている頃だったかも知れない。「先生に暑中見舞いを書きなさいよ」と母に言われ続けて、ついに「今から書くなら残暑見舞いよ」と言われる頃。休憩のプールサイドでうつ伏せになり、水面を赤とんぼがかすめて行くのに気付く頃。空が高いと実感して、大人ぶって言ってみたりする。真夏の眩しさの象徴と感じていた「成層圏」は、秋の始まりの、というか、夏の終わりの切なさを子供なりに気付く合図だったのかもしれない。

お盆を過ぎて、甲子園から高校生が去った頃、昼の暑さはまだまだ厳しいけれど、夕暮れが早くなる。日が落ちれば、ベタベタした蒸し暑さは凌ぎ易い夜風にシフトして、クーラーを止めてみようかと、余裕も生まれる。窓を開ければ虫の音が響いている。昼間、輝く「成層圏」だった空には、月がくっきりと涼やかに佇んでいる。

(2007/8/27 WADA)

【コラム】

●踊る夏

 毎年夏になると山梨でダンスを見る。田畑や廃屋、林や川などが舞台となり、舞踏家、ダンサーが踊る。野外で見るダンスは舞台とは全然異なる。周囲の音、虫や鳥の声、風のざわめき、身体に当たる風圧、陽の光、雲と雨などをすべて、踊り手と同じように体感する。村の人が集まり、子どもが遊ぶという環境。終ると周囲の人や踊り手と気軽に話す。

 劇場というのは規格化された場所だ。黒または白の世界に閉じこめられる。真白いキャンバスに描くように、フラットな空間でものを作れる可能性はあるが、人工的な世界だ。踊りは元々野外で踊られていたもの。儀式としての踊りや音楽との踊り。いずれも自然のなかから屋内に入ってきた。野外では裸足で踊る踊り手も多い。普段は衣服や靴に守られる足が土や石、草の感触とともに踊る。あちこち傷つき痛い。自然に踊りも、訓練による身振りから離れようとする。

 毎年、浅草の水上バス、定期遊覧船のなかでダンスを踊る企画がある。実は日常的に多くの舞踏家やダンサーが公園や路上、歩行者天国などで踊っている。海外修行し路上で踊る舞踏家もいる。東京都のヘブンアーティストなど制度化された枠組みを否定してい踊り、観客がいない場所で踊る人もいる。山梨のダンス白州を主宰する田中泯は、七十年代に路上で全裸に近い姿で踊っていた。近年は劇場での活動も多かったが、昨年から基本的には劇場舞台に立たないとして、日本各地、再び野外で踊り出した。

 野外で踊ることは、舞台にもまして孤独な行為だろう。依って立つところは自分の体のみ。見る者も同じ環境に入り、感想を知らない人と語り合う。そこには表現する者と見る者の原点がある。語った相手が次の日、踊っていたり音楽をやっていたりと、踊る側と見る側の境も消えていく。表現とは何か、踊りとは何か、批評とは何かなどを論じる以前に、そういう場に身を置いてみることが、一つの始まりだと思う、暑い夏だった。

(2007/8/20 志賀信夫)

【コラム】

●夕立の夏


 バスに乗っていた。窓の外の曇り空で、いずれ降るだろうと思った。携帯電話で2行書いて目を上げると、暴風のような雨で視界がゼロ。百メートルも進んでいなかった。傘を持たない人は停留所であっけにとられている。着いた駅も横なぐりの雨でホームに出られない。しか乗って十分で、からりと晴れている。
 たぶん昨年から、東京では夕立や雷が復活した。入道雲が立ち、突然雨が降る。昭和30年代の夏のようだ。降り返ると40年代は光化学スモッグと公害の時代。汚染濃度が話題にならなくなると、アスファルトと冷房による熱帯日が続き、雷や夕立はめっきり減っていた。なぜ復活したのか、わからないが、近年気
象災害が増えている。地球温暖化防止が叫ばれているが、水面上昇で沈む島国以外はリアルに受けとめてはいない。

 毎年思うが、電車の冷房は効きすぎだ。省エネ、温暖化防止で推奨される設定温度などまったく無視して、電車がキンキンに冷えているのはどうしてか。そのためたびたび弱冷房車のほうが混んでいることを、関係者はなぜ気がつかないのか。車掌は運行中、車内を見てコントロールすべきで、弱冷房車両を増やす必要も大いにある。
 地球温暖化による異常気象なのか、なぜか過去の夕立や雷が再生している。一方、梅雨は曖昧に消えつつある。環境のための取決めを、米国などの大国は経済原理を優先して拒否する。例えば、日本では経団連会長が新入社員の給与を入社成績で差別すべきと発言した。企業は支出を減らし収入を増やそうと躍起で、効率重視が日本の潮流。世界でも日本でも、環境は犠牲になる。

 夏の夕立と雷の復活は、若者のプチ右傾化と関係があるのか。温暖化した地球は崩壊の一途を辿っているはずだ。日本も欧米も、いまだに近代化の産物が自然災害で崩壊し続ける。自然の警告に耳を貸すべきときだ。

(2007/8/6 志賀信夫)


無断転載禁止 掲載:アーク編集室

TOPpage/Weekly/Performance/Music/Dance&Ballet/Movie/Art/Link