Arts Calendar/column

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2007年6月のコラム

【コラム】

●癒されたい

 都会人、現代人は疲れている。こう言い出したのはたぶん七十年代。「癒し」の登場は九十年代後半か。確かに日常生活、通勤、仕事、アフターファイブでも疲れが溜まる。身体的にも精神的にも。しかしそれは当然のことだ。疲れないためには、したいこと、すべきことのいくつかを諦め、捨てなければならない。何かで充実したければ力を注ぎ、成功しても失敗しても体力、気力は消耗する。そこにいつの間にか「癒し」という言葉がまぎれ込んできた。それはどうも商売のための言葉らしい。
 街を歩くと、足揉みやカタコトの「マサージイカガデスカ」の声。鍼灸などを学ぶ人もやたら増え、岩盤浴が話題になる。だが先日、足を浸けると体の毒素が出るという健康マシンが詐欺だと報道された。「血がドロドロです」と騙す高額の医療サービスも摘発。癒しもエステ、ダイエット、健康も、実はかなり詐欺的産業ではないか。雑誌広告のエステやダイエットの「成功例」がほとんど架空なのは数十年前から変わらない。「幸運のアクセサリー」などと並んでいることでも、詐欺だとわかるだろう。
 テレビを見ていて、化粧品と薬の広告は子どものころと変わらず盛んだと思った。広告費を大量にかけられるのはそれだけ儲かり、原価率が低いということだ。だがその効果は、数十年前とさほど変わったとは思えない。
 今週、都会のスパが爆発した。女性専用だったが、エステ、ダイエット、健康、癒しはいずれも女性用といえるだろう。自殺の多さからも「疲れている」「癒されたい」のは男性のはずだが、ターゲットは女性なのだ。
 これは宗教や占いと似ている。ダイエット薬が顕著だが、根拠のないものを信じて、騙されることで癒されるらしい。そして、そうやって癒され、ダイエットや美容できれいになった女性に騙されて、男性は癒される。そういうものかもしれない。

(2007/6/25 志賀信夫)

【コラム】

「梅雨入り宣言」なにか偉そうな、でもアナログな。
気象庁のそれなりの地位にある人が、これからしばらくの憂さを晴らすためにも、記者会見を生中継して「宣言いたします!」くらいやって欲しいなぁと、思ったもの。
梅雨明け宣言も同様。そして、ハズれた時には、お詫び会見もしっかりと。

「梅雨入りしたとみられる」なんで、ここだけ弱気なのか。「明日、○○駅前の午後3時の天気」までピンポイントで予想できるというのに、梅雨に限って自信なさげで、今年の関東地方のように「梅雨入りしたとみられる」と言った瞬間から、梅雨が明けたような暑くも爽やかな晴天が続くと「えへ」と言って終わりにできるような感じ。

ともあれ、この季節に「梅」とつけたのは、すばらしい。前線の動きがというより、桜の開花のように、基準木の梅の実が直径何センチになったので「梅雨入り」とされるなら、少々外れたとしても納得できる。そして、その梅の実の成長は梅雨前線と連動するような気もする。

収穫される寸前の梅の実は、本当に美しく愛らしい。様々な菓子店がこの時季に必ず出す青梅のそれは、果実を模した和菓子の中でも、格別に本物に近い色合い・手触り・重さで群を抜いていると思う。我が家にあった梅の木の実、掌に乗せたときの、撫で撫でとしたくなるサイズと重さと産毛、そして甘い香りが大好きだった。強く押したりすると、すぐに痣のように痛んでしまって、梅干用からも梅酒作りからも外される。だから、力加減のできない子供は梅に近付くことを禁じられ、大人たちの行事だった。収穫前に落ちた実も、地面に接した瞬間に痛みは始まる。かと言ってそれを生で食べるのはタブー。

梅の収穫を終える頃には、庭には、食用を免れた梅の実が甘い香りを漂わせる。その香りは、早春のような潤みを含んだ温い夜気と柔らかく混ざり合う。それだけで酔ってしまいそうな香気が大好きなのだけど、アルコールが一切だめな私は、どんなワインや日本酒が飲めないことより、梅酒を味わうことができないのが口惜しい(ので、梅ジュースを作ってもらう)。

その頃の梅の木は、実を隠すように、実と同じような色合いと大きさの葉を茂らせている。月がなくとも、新鮮な葉の緑は自ら明るく光を放つようで、用もなく窓を開けて庭を眺めたり、外に出てみたりした。

(2007.6.18 WADA)

【コラム】

●欲望の赴くままに


 近くのデパートで北海道フェアをやっている。ご当地祭のとき、ラーメン屋が出ていれば、食べにいく。そのデパートに行く途中に長蛇の列がある。米国からきたドーナツ屋だ。開店前から話題になっていたが、当初よりも列が延び、平日も常に百名以上が並んでいる。

 ラーメンが好きで、出かけるときは付近の名店を探す。最近、意欲あるラーメン店は新作などを「限定何十食」として出すが、ついそれに惹かれる。行列を馬鹿にしつつも、実は同じ心理であることに気づく。「いまここでこれを食べないと」という思いに囚われる。この「思い込み」こそ欲望の一形式であり、広くいえば愛、恋などの思い、あるいは憎しみなどを支えているものもおそらく違いはない。

 先日、深夜バス往復で京都に行った。相国寺の宝物殿が改築され、伊藤若冲の『動植綵絵』30幅が一堂に会するためだ。宮内庁が持っており、昨年東京で何度かに分けて展示されて見たが、他にも50点あまり展示されるので、やむなく訪れた。そして一番魅了されたのは、襖絵や壁絵のある葡萄の間の再現だった。
 「行きたい」気持ち、「この機会を逃すと見られない」という思いは次第に高まった。期間が短いため混雑が予想され、開館1時間以上前から列ができていたようだが、役所とは違ってチケット販売も入館も繰り上げて始まり、並ぶ時間は少なかった。

 前述のドーナツ店は制限して列を絶やさないことで人気を保っている。ラーメン店も席を少なくして列を作る戦略があるという。つまりはどう欲望をそそるかだ。地域、期間、個数などと「限定」もさまざま。限定、行列づくり、そして「新作」はそそる手段だ。
 長い列には極力並ばない。だが、まだ頭にはデパートの「海鮮カレー限定百食」が残っている自分に苦笑しつつ、昼はマックの新「メガテリヤキ」かと考えている。

(2007.6.11 志賀信夫)


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