Arts Calendar/column

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2007年12月のコラム

【コラム】


●求めるもの

 石川光太『神の棄てた裸体』を読んだ。イスラムの性を描くドキュメンタリーだ。アジア、中東、アフリカ、十カ国以上で売春する人々から話を聞き、ストリートチルドレンや戦争の傷跡などが浮かび上がる。戦場での暴行や殺害、性を売るストリートの子どもたちの姿は凄まじい。最下層に身を置いて聞き取った生の言葉は、性の現実を描き出す。そして思った。売春する子どもたち、買い、暴行して傷つける大人たち。求めているものは、どちらも「愛とぬくもり」ではないか。

 当たり前すぎる言葉だが、日本で引きこもり、ニート、鬱、統合失調症などの友人知人を見ても、求めているものは同じような気がする。大きなきっかけといわれる「いじめ」はその真逆の行為だ。そして、親の無償の愛がある自宅を離れられなくなる人がいる。だが、愛とぬくもりは受けるだけではなく、与えるものでもある。それを与え合い、受け合う場が社会だ。十二歳のストリートチルドレンは、買う客にそれを求めつつも、与えようとする。売春、買春はそれを一時的に満たすもの。貧困、紛争、戦争、差別などさまざまな要因が貧しい売春を生むが、そこには男の性欲が強く介在する。性と愛はつながっているから始末におえない。
 しかし、性欲はマイナスだけではない。活動のためのエネルギーとなって、社会の発展に寄与する。アイドル、広告などで欲望を刺激するのみならず、恋人・伴侶を求めることも、労働や活動意欲のきっかけになる。「風が吹けば桶屋が儲かる」的にいえば、性欲が活動エネルギーの一つかもしれない。

 愛とぬくもりは、性愛の一つの側面なのか、胎児的感覚なのか。ただ、愛を身体的に感じることは重要なのだ。宗教は、神の愛に包まれ、暖かさを感じるという身体感覚が救いになるのだろうか。石川の描く事実を、日本の現実に照らしてみると、私たちがいま、何を本当に求めているのか、見えてくるかもしれない。

(2007/12/24 志賀信夫)

【コラム】


向田邦子の随筆に「持ち重り」という言葉が出てくる。他の作家が使っているのに記憶がないが、辞典には載っているものとないものがあり、向田邦子の造語が定着したものかもしれない。
はじめて読んだのは、大人の本を手にし始めた頃。ページをめくれば「ねー○○ってどういう意味?」と言ってたような子供だが、「持ち重り」は、見ただけでどんなことを意味しているのか、わかりやすく「いい言葉だなあ」と読むたび思う。

そして、それを私は幸せなものの属性のようにとらえている。
手にしてみたら、予想よりほんの少し重かった。重さとともに温度も感じる。
さらに、この「持ち重り」はバッグを持ち上げた時の、引力がプラスするような重さではなく、掌に乗せたり包んだり、そこに顔を近付ける動作が続く時に使いたい。
つまり、豊かさに関する動作のうちに感じる重さかもしれない。

今の季節ならば、厚みのあるカップにたっぷりと淹れられたカフェオレとか。
夏ならば、冷たいグラスとさらに冷たい飲み物。
たとえ、容器がいまは空だとしても、注がれる温かなスープを待つ気持ち。
そんな幸福感を思わせる言葉だと思う。

向田邦子の随筆の中でも、食に関する描写で使われている記憶ばかりだが、あるいは骨董だとか、身の回りの小物を語るところに出てきたかもしれない。
やはり、掌に乗る文鎮か何か。見た目以上の値打ちや思い入れを「持ち重り」に込めたのではないかと思う。

そう思い、自分の身の回りを見渡すと、愛着あるものは、掌に包んでから、その用途に向かわせていることに気付いた。
ただ1本のペンであっても、長年愛用のものは、取り上げたあと、一瞬軽く掌に包んでから、書くべく持ち直しているとか。

針供養や筆塚のように、日本人はあらゆるものに神が宿り、モノの魂を大切に思ってきた。
誰に教えられたわけではないけれど、リサイクルとかMOTTAINAIより自然に、愛着というモノとの関係は綿々と続いているのだなあと思う。


(2007/12/17 WADA)

【コラム】

●ボランティアの意味


 「喜んで自ら何かする」という意味で、「意志」を語源とするボランティアは、その言葉が嫌いという人が時々いる。しかし、報酬を求めずに相手のためにする行為は、だれでも経験があるはずだ。意志がはっきりと見える「席を譲る」行為でなくても、混んできたら詰めるとか、通れるように避ける、譲るなどの行為は日常的で、すべて相手が道をよけるべきという人はヤクザにもいない。ただ、ボランティアという言葉に偽善性や押しつけがまさを感じるとか、募金活動をするなら身銭を切れという思いもわかる。さらに募金やボランティアを隠れ蓑に、宗教の金集めや詐欺を行う人が多いのも現実だ。

 先日、初めてボランティアをした。というほどのものではなく、老人ホームで歌う友人の伴奏だ。喜ぶお年寄りの顔を見ると、顔がほころぶ。老人ホームには親類や知人に会いに何度か行ったことがあるが、現実社会とのギャップばかり目について異様に思えた。しかし今回は彼らが一緒に笑い歌う姿を見て、違和感が急速に薄れていった。これまでは、元気だった人が動けない姿を見る辛さや、自分や家族の老いる姿を重ねて、否定したい気持ちが根底にあったからかもしれない。しかし当たり前のことだが、相手に親しみを持てば、垣根が取り払われる。親や自分の老いが身近になってきたことも一因だろうか。
 そういえば書いている批評などには原稿料がないものも多い。僕らが刊行している雑誌『Corpus』もない。これらはボランティアなのだろうか。

 もうすぐクリスマス。百円ショップでサンタやトナカイのグッズを買い込んだ。二つのホームで伴奏する。どうやったら楽しんでもらえるかが楽しみだ。楽しみたいからやっている、といったらきれいごとにすぎるだろうか。そういえば、大野一雄が40年以上幼稚園でサンタになっているのを思い出した。このコラムに3年前、書いた。先日101歳になったが、今年もやっている。


(2007/12/10 志賀信夫)

【コラム】

期限切れの話題、ニュースに現れない日はないくらいになっています。

食品の期限表示には、消費期限と賞味期限があって、字の如く、消費期限のほうが事態が重く、賞味期限のほうは「美味しくないかもね」くらいのことのようです。

ニュースで騒がれる場合、というか、昨今の騒ぎで耳が覚えているのは「賞味期限」のようだと思います。「期限がいちにちふつか過ぎたって、平気平気!」というお母さん的な意見が賞味期限切れ。スーパーのタイムセールで半額になるのを見計らって購入するのは賞味期限切れ。皆がもったいないなぁと思うのが賞味期限切れ。だと思います。
買うほうにしてみれば、冷蔵庫に入れておける日にちが長いほうが何かといいですから、1週間分まとめての買い物であれば、やはり新しいほうを買う。今すぐ食べたいのなら、ちょっと値段が安くなった賞味期限ぎりぎりを買う。というようなことは消費者の常識だと思います。お弁当が、ハンバーガーが棄てられていく、と訴える意見が新聞の投書欄にはよく載っていたけど、最近は見なくなりました。憂えるのは、まっとうだと思うのですが。

騒ぎ過ぎだと思うわけです。そりゃ店頭に並んでいたものを下げて冷凍して解凍して包みなおして売る、とか餡をはがして別のものを作るようなものは論外。いくらお腹に自信があったって嫌です。それは賞味だろうが、消費だろうが期限とは別の悪事です。
きちんと衛生面を管理された場所で作られたものならば、賞味期限の表示にさほど意味はないと思うのです。製造年月日が正直に表示されていて、「要冷蔵」など保管方法を明示していれば、クチにする安全を判断するのは消費者の責任にしていいと思うのです。
「要冷蔵」というのも曲者で、家庭用の冷蔵庫内の温度はインフルエンザや風邪ウィルスが一番活動的な温度です。冬の外気の温度と同じですからね。だから、冷蔵庫に入っているから安心というのはダメ。消費者も自分の健康なんだから気をつけなければいけません。(と、我が母に強く言いたい。お母さん冷蔵庫過信しすぎ)

さて、先日コンビニで「アンパン」を買いました。いいえ、買いたかったのです。レジでピッと精算していたら、「申し訳ございません。こちら期限が切れておりまして、お売りできません」おそらく一日に何度か配送されるものです。作られたのは24時間よりもっと近い時間です。カサカサになっているわけでも、カビが生えているわけでもなく、見た目に美味しそうなピカピカのアンパンです。私がアンパンを手に取ったすぐ後から店内の点検が始まったようなタイミング。だから、時間が過ぎたと言っても5分10分の話でしょう。
10分前に買ってたとしたらどうするんでしょう。家まで帰って、手を洗ってうがいして、コーヒーを煎れて、という時間と「今すぐここで食べる!」と言い張った時間は大して変わらないか、今ここで!と言うほうが早かったかもしれません。
そのコンビニでは、そのアンパンが最後のひとつで次の配送を待たなければ買うことは出来ません。
「私は、お腹には自信があるから売ってくれ」と言っても、コンビニのレジのPOSシステムが許しません。ピッとやって時間切れ、キャンセルにすればOK。そのまま売ってしまったら、そのお店、その店員さんは追及されてマズイ立場になるのでしょう。アンパン一個で。そんな時、お客の了承の記しに指紋照合を取ればいいとか、気紛れに考えてみたけれど、アンパン一個のことですから。

コンビニの都合がわかる大人ならいいけれど、「アンパン買ってきて」とお使いに来た小さな子供だったら、どうするんでしょう?目の前にある「アンパン」を売ってもらえない切なさ。意地悪されたと思ってしまうかもしれません。
いちばん、心が痛むのは、そのアンパンの行く末です。


(2007/12/3 WADA)


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