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2005年4月のコラム

【コラム】

雨に濡れて


 今年も花見をしなかった。桜が花開くのを横目で見て歩いた。この春は不思議な天気だ。暖いと思うと寒い。のみならず雨が降る。しとしとではなく、突然ざあっと夕立のように、昼夜かまわず降る。うっかりすると濡れてしまう。そのため冬の格好からあまり離れられず、傘が手放せない。

 子どものころ、自分の傘は1本だけだった。下校時に降ると母親が迎えにくる、童謡『雨雨降れ降れ』の世界があった。いまは共稼ぎなどで迎えはなく、置き傘だろうか。ジャンプ傘、ワンタッチ傘が出たのは小学校高学年。アイデアル、植木等のコマーシャルが白黒テレビで放映され、折りたたみ傘が普及し、2段から3段にとコンパクトになる。
 そしてビニール傘、始めは白で次に透明。コンビニができ始め、駅の売店でも売るようになる。そのためか、駅に夫を迎えに行く姿も見かけなくなった。いまは普通の長傘、折りたたみ傘が百円ショップに並ぶ。中国や途上国の低賃金で作られているにしても安すぎる。子どものころ、傘は高級品ではないが、なくしたり壊したりすると、悔しかった。それがいま、いくつ家や職場にあるだろう。

 百円ショップでのお勧めは老眼鏡だ。デパートでは貴金属売り場だが、それも百円。だが眼鏡と補聴器などは、健康保険の対象にならないものか。特に性能のいい補聴器が老人には絶対必要だ。祖母が老人病院で急速に衰えていくのを見ていたときに、聞こえないことが老化を早めていると強く感じた。コミュニケーションできずに看護婦や人との対話をあきらめ、自分に閉じこもる。補聴器は驚くほど高価で数十万。元気な生活を続けられれば、保険の負担も少ないのではないか。

 春の雨を見ていると、葬儀を思い出す。暖くなり始めると、友人知人が亡くなり、葬儀に行くと雨が降っている。濡れそぼる桜を見ながら、雨に降られている。悲しみと重なるためか、花との対比が鮮烈なためか。春の雨は死を追想させる。
                          

2006/4/24  志賀信夫 

【コラム】

信じたい


 
風水師としてもてはやされる人がいる。風水は風習に基づき、トイレの方角などそれなりの理由もある。しかしそれをマンション生活に当てはめ、サイフやパンツの色までというのは明らかな嘘だ。霊能師として人生相談で注目される人物もいる。話術とカウンセリング能力が優れているようだが、目に見えない霊をベースにするところがずるい。占い、風水、降霊術などは、どちらともとれる推測を投げ、相手の様子を見ながら心をつかむのが通常だ。知人の編集者は、知識が一切ないまま、女性誌の占いコーナーを何本も担当していた。適当に書いても、当たったなど反響があるという。


 占いに関心を寄せる大半が女性である。聡明、素朴に関係なく、熱心に雑誌を眺め話題にする。男のほとんどは関心がない。血液型の話題も女性を惹きつけるための手段だ。いずれも統計的に検証されず、科学的根拠は一切ないため、これらの蔓延にあきれて、ニセ科学を追求する会もできたらしい。政治家が重要な決定を頼る占い師がいるというが、歴史的には、神託や予言者の言葉で、為政者が自分を権威づけたり責任を回避してきただけだ。


 女性が占いを好むのはどうしてか。暇だから。新宿の母に行列する人には、そういいたくなる。しかし社会が男性原理で成り立ち、女性が決定権を持てないから、信じようとするのではないか。男女平等といいつつ、世の中を動かす議員や会社のトップのほとんどは男性で、議員も男受けする元美人。美人女社長にはだいたいパトロンがいる。ただ、女性がすべて女性に投票すれば変わるのだが、なぜかそうはならない。


 「霊が憑いているから悪いことが起こる」「方角が悪いから病気になった」というのは、相手の弱みにつけ込む悪質な詐欺行為だ。信じることで癒され心の救いを得る人も多いのだが、金を払い、根底では騙されている。だから敢えていおう。「信じるものは、足すくわれる」と。
                                 

                                2006/4/10  志賀信夫

【コラム】

この頃、外を歩く時間が減っている。家からバス停まで2分、行き帰りで約5分。バス停から電車に乗るまで1分。着いた駅から会社までは地下を通っていく。本当に外気に晒されているのは1日に10分ないかも知れない。歩いている時間も同様に短い。さすがにこれは不健康だなと思う。とは言え、ウォーキングっていうのも何だかねぇ、外を歩く時間はなかなかなか。。。

と、なんだかんだ言い訳しているうちに、桜が咲く。こうなると途端に浮かれ出して、会社帰りにひとりで花見散歩をやっている。千鳥が淵のような名所でなくても、日本橋の老舗の横に咲いている、ちょっと細身の桜とか、京橋と銀座の境目辺りの背の低い桜とか。うっすらと暗くなった道の、取り立ててライトアップされているような桜でもないけれど、こういう目立たない桜はたおやかで美しい。「私は見てるよ」と精いっぱいのエールを送ってみたりする。

普段は絶対に座って帰る電車も、わざわざ窓の側に立って神田川沿いの桜を眺める。満開の神田川を通る時、朝は特に、車内に歓声のような、溜め息のようなざわめきがあって、一瞬、殺伐とした空気がふわぁっと明るくなる。窓の外が見えない時でも、この空気の変化は感じられて「ああ、今、桜のところを通ってるんだ」となんとなく少し日向の暖かさを思ったりする。

そして、近所の桜並木を深夜に見に行く。好きな曲を詰め込んだオーディオプレーヤーだけを連れにして。幸い、嘘みたいに治安のいいところだし、桜の下の宴会は禁止されているから、道も空気も綺麗。桜は、触ってはいけないモノ。高貴な人の身の周りや仏像や神像に近付く人が、直接触れないよう息もかからないようにとする、そんな神聖が桜にもあって、花も見ずに宴会をするのは桜を陵辱するのと同じような嫌悪感がある。

深夜2時,3時のお花見、もの好きは私だけじゃなくて、ポットに入れたお茶をベンチで飲みながらお花見をする人や、寝ぼけ眼の犬を傍らにずーっと桜を見上げている人、一昨年はフクロウ連れてる人にも会いました。深い藍色だけを背景にして、月も星もうかがえないほど視界いっぱいの満開の桜!大島弓子の「桜って触っても触っても遠い感じがする」という名言を実感しながら、道路の両側をぐるっと歩いて3キロくらいの、なかなか贅沢なお花見でしょう?

                                2006/4/3  WADA


無断転載禁止 掲載:アーク編集室

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