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2005年12月

【コラム】

写真と戦争


 ロバート・キャパ展を見た。報道写真家として世界一有名で、スペイン戦線の崩れ落ちる兵士の写真を知る人は多い。著書『ちょっとピンボケ』は版を重ねている。展覧会は戦場周辺や各地で撮った子どもや人々の姿だった。地雷を踏んで亡くなったこと、イングリット・バーグマンとの恋がヒッチコック『裏窓』のモデルになったことも有名だ。だがハンガリー生まれのユダヤ人で、ドイツ人の恋人ゲルダとともに米国人写真家キャパという姿を作り上げたことは知らなかった。『ちょっとピンボケ』は戦場での仕事と恋を描いたものだが、戦争の姿が浮かび上がる。

 戦後60年、東京大空襲を検証するテレビドキュメンタリーでは、焼夷弾攻撃の残酷さを示していた。米国は、非戦闘員も学徒動員などで軍需工場を支えるとして攻撃対象にし、日本の木造住宅を焼き尽くす実験から特別の焼夷弾を開発して使ったという。

 いまや若者にも靖国参拝を認め、中国などからの批判に反発し、憲法改定を認める人もいるらしい。しかし米国に追従する日本は、軍隊を認めれば米国の戦争に駆り出される。イラクのような侵略戦争に加担し、劣化ウラン弾で人々を殺すことにもなりかねない。泥沼の戦争を続け、反対勢力のターゲットになるとすれば、北朝鮮などが攻めてくるよりも、大きな危機だろう。

 キャパは戦争のなかでも人間を描いたという。戦う兵士を多く写したが、軍隊の検閲を通っているために、殺された市民は写っていない。だから子どもを被写体にしたのか、その瞳に戦争が映っている。為政者に都合の悪い写真は、60年以上前からいまに至るまで報道されない。そうした隠された戦争の記憶に蓋をして、自虐などのレトリックで国威発揚を煽るのはどうか。むしろ他国と戦争をしない60年の歴史は誇るべきだ。いまも昔も戦争の本質は変わらない。それを感じさせるからこそ、キャパの写真は人々を惹きつけるのだろう。

                                    05/12/26 志賀 信夫

【コラム】


エロスとテクノロジー


 ボーナスをあてにした大型テレビの広告を見かける。高額の液晶、プラズマでハイビジョンの文字が目につく。だがハイビジョン放送を見ている人に会ったことがない。BSデジタルも同様だ。なのに何年後かにはテレビがデジタルになり、乗り変えさせられるという。

 ハイビジョンテレビが出て十数年たつ。それで普及しないのは、消費者がそこまで画質にこだわっていないからだろう。BS、WOWOW、ケーブル、ネットテレビと選択肢がたくさんある。見る側は、これ以上の画質より、むしろソフト、内容を重視するのではないか。

 ところでテクノロジーの発展には、性欲が大いに機能していると思う。ビデオの普及は、販売店が周囲の店主にブルーフィルムを見せ、当時数十万の大型ビデオを売りつけたことが始まりという。レンタルビデオ、インターネット、DVDソフトもこの欲望により普及したといえる。ケーブルテレビも色気は売り物の一つ。Q2、出会い系サイトで通信会社は順調に利益をあげ、携帯電話で浮気は増えたかもしれない。

 テレビの画質が高まるのはいいが、大型テレビの出始めに相撲をアップでみて、肌の汚さにぎょっとした。見えすぎるものは欲望を刺激しない。エロスなどの欲望は見えない、手に入らないからこそ高まるところがある。

 「これからはハイビジョンですよ」と高額商品を売りつける。自然の映像を見本にするが、そんなものだれが毎日見るのか。ニーズを考えずにデジタルへの移行を決めるなど、業界主導でコトを運んでも、消費者はついてこない。S-VHSのテープももはや見かけない。高画質のデジカメを買っても、枚数が撮れないため、半分以下の画質で利用する人が多い。時代に合わないハイビジョンやデジタル放送への移行は、見直すときではないだろうか。むしろこれ以上の高画質ではなく、お笑いとアイドルに頼らない高品質の放送を追求してほしい。


                                    05/11/28 志賀信夫

【コラム】

マラソンの季節

 日曜日、きょうは家でごろごろするぞという時のお供はやはりテレビです。朝寝して、朝昼兼用の食事をしてコーヒーなど手にして、溜めてたビデオなど見るには昼間は気分じゃないなぁと思いつつ、テレビの前に陣取ると、ちょうどマラソン・駅伝のスタート時刻になります。
10月くらいから、毎日曜日と言っていいほど見ている気がします。海外も含め、テレビ中継するほどの規模の大会がこれほど頻繁にある競技も珍しいのではないでしょうか。実業団・大学・高校と出場が限定されているものもありますが、市民ランナーが世界第一位のランナーたちと一緒に走れるレースも多い。42.195キロを完走できる人が多いということでもあり、レベルの高さと競技人口の多さはかなりのものなんでしょう。
 私は50メートル走るくらいなら遅刻を選ぶ運動嫌いです。見るのは大好きなんですけどね。それで、中継があるとスタートからゴールまで、見てしまいます。アテネオリンピックの男子マラソンのような事件は滅多にないし、ほとんどの場合、単調にレースが進んでいきます。優勝候補選手がいつのまにかいなくなっているということは多いけど、劇的な大逆転劇は1年のうちに1つあるかないか、くらいでしょう。それなのに何で見てしまうんでしょうか?
 スポーツニュースで結果だけ見てもつまらないスポーツの筆頭だとは思います。事件や劇的な場面も、あとからそこだけ見ても意味ないし。
つらつら考えるに、街中を生身の人間が走ることがおもしろいんでしょう。予選会などではトラックを走ったり、駆け引きなしで出たタイムで順位が決まるものもあります。それは中継があったとしてもあんまり面白くない。結果を知って、「よし、箱根が楽しみだ」と思うのです。だから、変わっていく街並や風景+ランナーという構図に惹かれるのでしょうか。マラソンや駅伝のランナーが走るスピードも、両方を見るのにちょうどいいものなのだと思います。ざっと、ですが、一般的な中学生が100メートル全力疾走した場合のタイム、これで42.195キロを走り抜けるのが第一線のランナーのスピードです。自分で走ったら風景を見ている余裕なんて絶対にありませんが。


                                    05/11/21 WADA

 「コラム・ライブラリー

【コラム】

陶芸

ある遅い夏休み、友人たちと何にもしないために、山奥のペンションに行きました。本当に何もないところで、そのせいか手作り教室のようなものがいくつかありました。ペンションの奥さんが講師のビーズ教室とかフラワーアレンジメントとか。ぼんやりするための夏休みとは言え、いつもの面子で部屋に閉じこもるか、蚊に追われながらの散歩では間が持たず。何かやってみたら?と奥さんに勧められましたが、可愛らしいものに興味が湧かなかった私たちは、オーナーが講師の「陶芸教室」に参加しました。ペンションのパンフレットに「オーナーの親切な指導で、本格的な陶芸を体験!」って書かれていたものです。

手捻りの器作り。粘土あそびの延長と気楽に「なに作るの〜?」なんてはしゃいでいた私たちの前にオーナーがホワイトボードを運んできました。そこには、BCだのADだの。縄文時代、弥生時代だの。それぞれの時代の土器の特徴も書き込まれ、中学の日本史の時間の黒板がここに現われたのかと思いました。なぜ、こんな勉強を、今ここで、しなければならないのか?目が点とは、正にこの時のこと。実はここのオーナーは、芸術家協会のようなところにも名を連ねる、本物の陶芸家だったのです。だから、暇つぶし、遊びの延長の陶芸はさせたくなかったのでしょう。1コマ2時間のうち、30分くらいは「授業」。土はある程度までお弟子さんが捏ねてくれていて、焼く時に割れないようにしてくれてます。それでも、粘土はなかなか言うことをきいてくれません。この時に私は縄文人・弥生人に頭が下がりました。もちろん、土器を作ったのは当時でも職人という人だったのだと思います。焼き物用の粘土を触ったのが初めての人間に太刀打ちできるはずもありません。

でも、いろんな勉強をして、ある形を作るには何を使い、どう動かしていけばいいかを知識として持っているはずの私達に、あんなに綺麗なかたち、もようは、作れませんでした。新しい道具、装置、設備をどんどん作り出していくことは、人間が進化しているのではなくて、自分の手で作り出すことができなくなっていることの現れではないかと思いました。

あんまりに真剣に「授業」してくださったので、作ろうとしているのは猫用の水飲みとお皿、なんて言えずに、「蕎麦ちょこ風のカップとお皿」と誤摩化して、なんとか形はできました。それをオーナーが(たぶん)ちょっと手直しして、窯で焼いてもらって出来上がりが届くまでに1カ月ほどかかりました。


                          05/11/7 WADA

【コラム】

音楽の変質

 新国立劇場でバレエ『カルミナ・ブラーナ』を見た。白鳥の丸焼き、性的な放埒さなどでユニークな演出だった。この迫力のある荘厳な音楽はよく知られているが、オカルト映画に使われることもある。先日のドイツダンスでは、ケイト・ブッシュの『嵐が丘』がかかって、ちょっと笑ってしまった。明石家さんまの人気番組『恋のから騒ぎ』のイントロだからだ。外国のグループなので、それは預かり知らぬところ。だから音楽はおそろしい。頻繁に聴かされると、イメージが刷り込まれる。火事と消防士を描いたパニック映画『バックドラフト』では、いい場面なのに『料理の鉄人』が浮かび上がってしまう。そんな料理対決番組には、『カルミナ・ブラーナ』も使われたことがあると想う。

 ヘビメタを聴くとレスラーへの想いに胸を焦がす人もいるし、T-スクエアが流れると気分はもうF1。七十年代以降Rシュトラウスは『2001年宇宙の旅』になり、マーラーでは美少年と海辺の老人が浮かぶ。さらに『新世界』ではみるみる夕陽がさして、帰宅を急ぐ。

 芸術作品は作者の意図を超えるという考え方があるが、音楽は素朴な意味でもそうだろう。効果音的に使ったり,テレビなどで頻繁に流されると別のものになり、リフレインやサビ、時には映像まで僕らの中に残る。嫌いな曲もリフレインで覚えてしまったりする。

 違う文脈で聴こえる音楽は、新しいものを生み出すこともある。七十年代、鈴木忠志や蜷川幸雄は西洋的な芝居の文脈に、演歌でインパクトを与えた。ダンスでは、悲しい場面に悲しげな曲、暴力的な場面に激しい曲がベタに流れると興ざめし、「外して」使われると、何かが感じられたりすることもある。たぶん見る側が日常を壊すもの、新しいものを求めているからだろう。もっとも「荘厳な音楽」自体も刷り込まれた記憶だし、新しさも僕たちの思い込み、舞台のように、ひとときのから騒ぎにすぎないのかもしれない。


                                    05/11/14 志賀信夫


無断転載禁止 掲載:アーク編集室

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