Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》KOCHI2017


vol.289

KOCHI2017

【演劇祭KOCHI 2017観劇ラリー参加作品】

会場:藁工蛸蔵

'17. 2.19. 劇団まんまる【徳島】&TRY-ANGLE【高知】 『第1回合コン企画 笑UP』
'17. 2.26. UnitQuintette 『姫神 -HIMEGAMI- 』
'17. 3.18. 劇団シアターホリック 『サド侯爵夫人』
'17. 4. 2. 世界劇団【愛媛】 『班女』
'17. 5.14. 高知大学演劇研究会 『善しなる悪し、悪しなる善し』
'17. 5.27. 劇団コバヤシライタ【愛媛】 『Poggle』
'17. 6. 4. 劇団彩鬼第10回公演 『鬼被威−おにかむい−』
'17. 6.11. 劇団シャカ力 『シャカロック』
'17. 6.18. カラクリシアター 『路地裏のメモリー』
'16. 6.19. TRY-ANGLE act.27 『赤鬼』
'17. 7. 1. アフターエンカイ


 今年の演劇祭KOCHIもまた県外からの参加劇団が3つあり、ラリー参加公演数11と過去最高になったようだ。連年参加は昨年と同じ5団体で、シャカ力、TRY-ANGLE、シアターホリックの3巨頭は今年もきっちりエントリーしている。かつては公演参加劇団に義務づけられていたように思うPPT(ポスト・パフォーマンス・トーク)を構えている劇団がシャカ力とシアターホリックの二つだけになってしまっているのは少々残念だ。

 演劇祭開幕公演は、県外から参加のうちの1つ徳島の劇団まんまると高知のTRY-ANGLEが「〇と△ゆえに死角なし」として組んだ『第1回合コン企画 笑UP』だ。
 ステージに立ったメンバーだけでも十名を越えそうな大所帯となったからかもしれないが、コント数8つの二時間近い長丁場は、ものがコントだけに満腹を通り越して少々過食気味のボリュームだったような気がした。最後の出し物がお気に入りのデザート「寿司屋風」だったし、鬼を御題にした両劇団の作品対決とも言うべき「疑惑【作・演出 谷相裕一(小川真弘)】」「誘拐【作・演出 小川真弘(谷相裕一)】」がともに面白かったので、二時間に倦んだような後味は残らなかったが、少々腹の張り過ぎ感を覚えた。「寿司屋風」が全ネタを食わせない趣向によって、また改めて食いに来たい気にさせるのと同じような工夫を公演構成全体に施していたら、なお良かったような気がした。
 メインディッシュの鬼対決、いずれに軍配を上げるか迷ったが、僕としては、見覚え感のある「鬼の書く欄」の使い廻しがありながらも、「疑惑」のほうかなと思った。


 Unit Quintetteによる『姫神 -HIMEGAMI- 』は、屋根裏舞台の日野早人が「ひのはやと」の名で作・演出を担ったオリジナルで、なかなか意欲的な作品だったように思う。屋根裏舞台の流れを汲んでいるだけあって、二つ名や時空の大きさを感じさせる作劇とか、走る動きが目についたが、妙な韜晦趣味がなく素直で真っ当なメッセージに好感を覚えた。
 物語の設定や構成にはどこか二番煎じ感を漂わせているようなところも感じるが、システムのなかに組み込まれているだけではなく、きちんと知るべきことを学び、自身の目と心と体感による“見極め”が大事だというのは、そのとおりだと大いに共感した。
 社会システムの背後に、秘匿された思惑や利権操作があるというのは、現代に生きる多くの人々が共有できる社会観であるにもかかわらず、操作される側に対して仕込まれた分断によって、なかなかシステムの鍵となる部分には立ち入れなくなっているわけで、かなり率直に原発問題や日米安保同盟を具体的に想像させていたことに感心した。そのせいか、最後にメイ(山本優依)がステージ中央で面差しを上げて決意を述べる姿に、ちょっと神々しいものさえ感じた。


 劇団シアターホリックによる『サド侯爵夫人』は、このところ、ある種の軽妙さを志向してきた感のあるシアターホリックが、言葉に華麗な重厚さの漂う三島由紀夫の作品を取り上げたことに、幾許かの不安がよぎったが、想に反して堂々たる芝居だったように思う。映画『ドッグヴィル』を模したライン引きによる舞台と違って、しっかり組み上げ白い小石を敷き詰め縁取りした構えのみならず、エログロの流行った大正モダンの時代を彷彿させる着物と洋装の取り合わせによる衣装【渡邊沙織(情熱’ダイヤモンド)大泉怜】が充実していて目を惹いたが、やはり最も感心したのは、三島の言葉とがっぷり四つに組んで負けていないように感じられたことだった。
 ルネの母モントルイユ夫人を演じた小杉村春子(加藤春菜)が特にうまいと思ったが、役者は皆揃ってよく頑張っていたように思う。第一幕から六年後の第二幕、それから十二年後の第三幕と二時間を超える長丁場を弛むことなく演じたばかりか、むしろ二幕三幕と進むにつれ、舞台の充実度が増して行っているように思われ、大いに感心した。最後にサド侯爵夫人ルネ(中平花)が光を浴びながら、アルフォンス・フランソワ・ド・サドの到達点を語っている場面にはちょっと感動してしまった。
 ひたすら利害的な関心でのみ接してきたモントルイユ夫人や幼馴染の記憶に囚われた現実回避のシミアーヌ男爵夫人(山田紫織)と違って、サド侯爵への独善的な思い入れだけで向っていたと思しき夫人ルネが長い歳月の果てに、ある意味もっともサド侯爵を理解していたように一見したところ思えるサン・フォン伯爵夫人(浜田あゆみ)以上に、深いところで理解するに至り、その到達した境地の神にも並びかねない大きさに、もはや生活を共にする相手ではないと訣別する姿に納得した。小説『ジュスティーヌ』で築いた悪徳の大伽藍の並外れた巨大さが、神の国に至る裏階段に導く光の精としてのサドを誕生させたというわけだ。
 まだ誰も読んだことのない『ジュスティーヌ』の唯一人の読者として空前絶後の世界に触れ、震撼しているルネを中平花がなかなかよく演じていたように思う。


 愛媛の世界劇団による公演は、奇しくも先のシアターホリックと同じく三島由紀夫の作品で、こちらは近代能楽集からの『班女』だった。開演前に配布されたリーフレットには「狂女の悲恋 井ノ頭線何がし駅の古風なロマンス」との見出しがついていたが、そのフレーズが想起させるいささか通俗的な物語とは違って、なかなか挑発的で刺激的な舞台になっていたように思う。
 EL&Pのタルカスを偲ばせる音楽で始まった舞台には、早々に殺害現場の血糊を思わせるカーペットが敷かれたので、どのような破壊と闘争のもとに誰もしくは何が殺されるのかとその後の展開を楽しみにしたのだが、その点については、必ずしも得心のいく始末がついてはいなかった気がする。ただ、開演前から椅子に貼りついたように動かない乃至は動けない花子(赤澤里瑛)のイメージの強烈さがいろいろなものを想起させてくれた。
 先ずは、設えられた襖に投影されるシルエットによって異様に長く伸びて映じられた手の印象から、僕には抜け出したいけれども抜けだせない心象イメージが湧き、その襖の開閉というものが心の閉しと開きへの連想と相まって、花子の心の向かい先としての青年 吉雄(廣本奏)と40歳の老嬢[オールドミスか?]実子(本坊由華子)にあるような気がしていた。それとともに、吉雄との再会が目的の“待つという行為”が本末転倒して、“待つこと自体”が目的化している姿を示すことで、人において普遍的にありがちな手段の目的化というものが浮かび上がっているように感じた。
 この本末転倒を促したものこそが、実は、花子のなかに芽生えていた実子に対する性愛的執着であって、それに対するタブー意識が、既に失われていた吉雄への執着を自身に課すことを強いて、花子に“狂女”のごとき極端というか過度な行動を取らせているという実子との同性愛関係を強く印象づける演出が施され、そのために、ある意味むしろ花子以上に“狂女”的な執着心の強さを実子に色づけているような気がした。ことさらに身体性を印象づけていたことも古風なロマンスではない性愛色を打ち出すためのように感じていたのだが、そのように観ると、そういう演出の意欲は買うし、なかなか創造的だったようには感じながらも、やや中途半端というか、とりわけ導入部で想起させられた「どのような破壊と闘争のもとに誰もしくは何が殺されたのか」がきちんと示されないのは、却って難点になってしまうのではないかという気がした。
 ところが、アフタートークで演出の本坊由華子が語っていたところによると、僕が興味深く受け取り且つ幾許かの不満を抱いた点というのは、演出サイドで企図していたものとは異なっていたようだ。“動かない乃至は動けない花子”というのは確かにあったようなのだが、僕が感じた心象イメージ以上に、井ノ頭からの転居を促す実子と訪ねてくる吉雄、井ノ頭を離れようとしない花子という対照のなかでの“場所ないし土地”への思いが強かったらしいと知って驚いた。全く想外の演出プランだった。芝居を作ろうとするときに演出家の考えることなどを語り合うシアターTACOGURAの藤岡武洋との話も興味深く、なかなか面白いアフタートークだった。


 高知大学演劇研究会による『善しなる悪し、悪しなる善し』は、なかなか興味を惹かれるタイトルだったのだが、妙に軽々しく連呼される“愛”だの“正義”だの“英雄”だのといった言葉のせいか、漫画やゲームのストーリーのような印象が残った。良くも悪くも実に若々しく、自分が学生時分に携わっていた文芸サークルのことを思い出したりしながら、懐かしいような気恥しいような気分になった。存在感を発揮している女子学生を巡っての鞘当てや対抗心のようなものに日常的に晒されていた感のある時間というのは、思い返せば、あの時期のあの場しかなかったような気がする。確かに、女子学生も少なかった。


 愛媛から参加した劇団コバヤシライタによる『Poggle』は、昨年の“演劇実験空間 蛸蔵ラボvol.3”で『月を読む』を観たときに「テーブルマジックの実演を目の当たりにするのが初めての僕は、たまたま最前列の被りつきで観ながら、すっかり感心してしまった。当然ながら全くタネが判らなかったが、芝居のほうの話のタネもさっぱり判らなかった。」と記したのと同じく、テーブル席の真ん前で観るカードマジックの鮮やかさに呆気にとられ、夢のなかの出来事について語る芝居のほうで言っていることも十分には理解できずに呆気に取られていた。


 劇団彩鬼の「音をおくれでないかい」で始まり、「呑みに出るよ」で終わる「ヘイ、かしこまり」の世界が三年ぶりに帰ってきた。今回演出も担った座長の鍋島恵那の個性的な声と調子によって繰り広げられるスタイリッシュな舞台は、キャラの立ったキャスティング力ともあいまって実にカッコよく、やはり観ていて愉しい。しかも今回の『鬼被威−おにかむい−』は、見せる力だけでなく内容的にも時宜に適った触発力を持っていて感心した。
 本作で印象深く設えられていた呪文の繰り返しを最後に耳にしながら、近年、アニメ作品でも恋愛映画でも学園ドラマでも家族物でも、果ては政治の世界でも、まさに呪文のように唱えられているように感じる「守る」について、作者の吉村領が「守るとは何なのか」と問い掛けてきているように感じたからだ。
 自身の命を繋ぐためとは言えないような“支配や恐怖、強欲などの理由”から他のものの命を奪い取る唯一の存在とも言うべき非道なる人間において、「守る」に義はあるのかとの問い掛けがされていたような気がする。必要悪という言葉があるように、人間にとって鬼=悪は蔓延しても困るが駆逐されても困るものであって、守るにも攻めるにも鬼=悪を要するのが人間というものだということを示していたように思う。最後には失明していたと思しき直義ことハンゾウ(日之裏修一)の囚われていた恨みと妄執のごとく、物事が見えなくなっている人間が権力を持っていることほど怖ろしく理不尽なものはない。
 圧巻だったのがサト(前田澄子)の鬼への変化【へんげ】の場面で、前田澄子の目力にこれまでの彼女に観たことのない程のものが宿っていた気がする。前半での清楚な趣きを湛えた台詞遣いとの対照がとても利いていた。彼女は何を演じても器用にこなし魅力的な存在感を残してきたように思うが、僕が観たなかでのベストアクトのように感じた。
 戌(Opty_Mercury)、申(徳永洋平)、酉(田井沙苗)の身のこなしもオープニングから鮮やかだった。配布リーフレットの配役に戌申酉とあったから、てっきり桃太郎話の翻案かと思っていたら、単純な勧善懲悪の物語とは真逆の趣向が凝らしてあって感心した。舞台上に姿を見せる生演奏の音楽も効いていて、とりわけ着物姿の尺八(下元裕司)の響きが嵌っていたように思う。呆気なく殺された吉兵衛を演じたヤマダケントに後ろ姿しか見せない太郎を演じさせ、のぼり旗を携え鉢巻きを締めさせていた演出が気に入った。
 誰もが太郎になってしまうことを〔顔を見せない太郎〕は示していると感じた。目の見えない権力者(直義)に煽られて鬼退治のために“戦いに行く”わけだ。勇ましく、キビ団子提げて、鉢巻締めて…。鬼が何であるのか、よく知りもしないままに、というわけだ。あるいは、物事の見えていない者の唆しに踊らされて鬼退治ならぬバッシングを、匿名性に隠れて顔を見せずにネットで激しく行う“太郎くん”というような意味合いもあるのかもしれない。いずれにしても、なかなか見事だと思った。
 最前列中央にいたために閑話休題的な体操に担ぎ出されてしまったのには難儀したが、なかなか観応えのある舞台だったように思う。


 劇団シャカ力による『シャカロック』は、四国劇王二連覇を達成した行正忠義が初の長編作に挑んだとの触れ込みのオリジナル作品だ。行正らしいデリカシーと卑近と破天荒の入り混じった脚本がなかなか面白く、心に鍵を掛けてロックした“引きこもり”を「何者でもない自分が生まれて初めてやりたいことをやっている」ものとして“岩(ロック)になろうとする行為”と捉え、それは、もしかすると何者でもない者が岩から生まれた斉天大聖 孫悟空のごとく元気玉を操るまでに羽化するために、親にも社会的権威にも抗いロックしている“いつか大物になるであろう”蛹の時期だと捉えるポジティヴな視線に惹かれた。
 意欲的かつ魅力的なのは、そういったことをストーリーで物語ろうとせずにイメージ力で語ろうとする創作姿勢だ。前回公演の『シャカ力 HOPPA ワレワレは宇宙人ダ』でも、「シャカ力のメンバー(行正忠義、井上琢己、畠中昌子、加藤春菜)が踊ると切れよくコミカルで、さすが身体性に長けた劇団だ」と感心させられた表現力の確かさに魅せられた。今回は特に、井上琢己の声の良さを改めて感じ、畠中昌子の声の表情の豊かさと加藤春菜の身振りというか身のこなしのセンスの良さに感心した。昔懐かしいとも言えない、最早スタンダードになっているようにも思えるクィーンの歌う♪We will, We will rock you♪が実に効果的に使われていた気がする。
 実際のところ、何事が起こるのか知れないのが人の生であり、心を閉ざしロックした息子の心の扉をノックしようと努める夫婦の歌声が紅白出場どころかビルボードチャートにランキングされるようなことでさえ、絶対にないとは言えないわけだから、息子がいつか“引きこもり”から羽化する日は訪れるはずなのだ。たとえ五十年かかろうとも、ぐじゃぐじゃドロドロの苦しい時期を経ようとも。
 シャカ力の『シャカロック』という公演タイトルが何を意味しているのかさっぱり不明だったのだが、そうか“引きこもりロック”のことだったのかと得心した。なかなか笑える愉しい芝居で、僕が最初に吹き出したのは「うちのハンバーグは、近所でも評判の大きさなんだぞ〜」と息子の気を惹こうとする父親(井上琢己)の物言いだった。食堂稼業でもなければ、近所の人がハンバーグの大きさを知っているわけがない。そういう出任せを言うから舌打ちされるのだと可笑しかった。このての出鱈目とシリアスの入り混じりを語らせると、井上琢己は実に上手いと思った。畠中昌子の衝撃的なまでの「笑撃」による二人の掛け合いが実に可笑しかった。


 カラクリシアターの『路地裏のメモリー』はチラシの裏面に猫を模したキャスト紹介がされていたので、「そうか、メモリーというのはミュージカル『キャッツ』のことだったのか!」と'84年に西新宿に仮設されたキャッツシアターでの四季による公演を観たときのことを思い出したが、アミ(YU☆KI)がそのうち“選ばれし猫”になるのだろうなと思いながら観ていたら、誰ひとり猫にはならず意表を突かれた。そして、ミュージカル『キャッツ』ではなくて、'86年に観た映画『カイロの紫のバラ』(監督 ウッディ・アレン)の趣向の作品になっていたことにしてやられた。 http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1986/06.htm
 映画館のロビーを模した舞台装置がなかなか見事で、あのいかにもなドアをどこで調達してきたのだろうと感心しつつ、リバイバル作品の上映館という触れ込みのロビーに貼り出されたポスターの微妙なマイナー感に、このラインナップは誰の趣味なのだろうと気になった。'70年代の『マイ・ウェイ』からほんの五年前の『エンド・オブ・ザ・ワールド』に挟まれて '80年代の3作品が並んでいたが、もっとも著名な『評決』が敢えて英語版のポスターになっていて、残りの2作は『ロアーズ』と『ハイロード』というリバイバル専門館でも上映されることのなさそうな作品が並んでいた。
 けっきょくリアルの場面は、最後のバス停での行列とそこでの高山(かりらり)とアミの出会いの場面だけで、あとは明瞭な意識としてのメモリーにも残っていない高山の見た夢のようなものだった気がする。市役所職員の高山は『カイロの紫のバラ』のセシリアのごとき映画ファンで、夢にも不思議な映画館での映画観賞が出てきていたという設えだったのではなかろうか。作・演出の谷山圭一郎が舞台挨拶で最後の怪優と紹介した、からくり敬三と劇中映画で映画館の受付を演じていたと思しき二階堂静を演じたまるみ、静の娘アミを演じたYU☆KIを前面に押し出したように思われる芝居で、その個性と魅力がうまく引き出されていたように思ったが、2時間というのは少々長すぎるようにも感じた。
 まさに映画でもそうなのだが、近ごろは2時間ものが主流になってしまい、かつてのプログラムピクチャーのような90分ものが滅多になくなってきた。本作が、Dr.パピーや占い師が衣装を替えて登場するコント的な場面の数々やアミが防毒マスクを被った追手に攻撃される場面などをもう少しコンパクトに処理して、かつてのプログラムピクチャーの尺に収めていたら、もっとスマートで気の利いた洒落た作品になっていた気がしてならなかった。


 TRY-ANGLE act.27『赤鬼』には、前回のact.26と違って「再演すプロジェクト」の文字はなかったけれども、当日配布のリーフレットの挨拶によると、作:野田秀樹の本作は再々演になるのだそうだ。とんび(清里達也)の語った海の底深く沈んだ妹フク(三上綾佳)の「絶望」を象徴するかのような海の底に沈むガラス瓶の数々が光の中で浮かび上がる舞台効果に心惹かれた。“あの女”と呼ばれる妹も、自他ともに頭が弱いと思っている兄も、よそ者として疎んじられている村。そこで起きた出来事なのだが、海辺の村に漂着した異人(虎哲)が“よそ者”どころか“赤鬼”として化け物扱いされることで浮かび上がる同異の境界というものについての触発力よりも「絶望」について示されたイメージが印象深かった。
 確かに絶望のなかには“希求”があると思う。むしろ、希求があればこそ“絶望”に至るわけで、絶望に至ったとしても希求そのものは消え失せてはいないというのがあの光なのだろうと思った。されば、身投げをしたフクの絶望とは何だったのだろう。水銀【ミズカネ】(領木隆行)に命を救ってもらったフカひれスープが実はフカひれスープではなかったことだとか、そうとは知らずに飲んだはずがないと水銀から指摘されたことに絶望したのではないはずだ。僕は“海の向こう”に辿り着けずに、よそ者扱いされ、あの女と呼ばれ、もはや“海の向こう(天上界)”を語ってくれる赤鬼のいない村に舞い戻ったことに絶望したのだと思った。赤鬼自身も実際には観たことがないと語っていたらしい“海の向こう(ユートピア)”なるものの存在に目覚めてしまった以上、それ以前には戻れなくなるのが人間というものなのだろう。
 異人を赤鬼と題する作品に、そう言えば「紅毛人」という言葉があったなと思い出した。身内意識とよそ者排斥という問題は、人間社会に不可避なる永遠の課題だが、昨今とくに先鋭化した形で現れるようになっているだけに、本作の再々演というのは非常にタイムリーだと思った。ただ四人の役者だけで演じたことが効果的に作用する面と不必要な紛らわしさを感じさせる場面とがあるようにも感じた。四人の役者に演じさせるのがスタンダードな作品なのだろうか。また、ステージから斜め前方に迫り出した起伏のある張出し舞台が目を惹いた。平坦でない形状を活かして小舟に見立てたり岬の崖に至る細道に見立てたりとなかなかの活躍だったように思うが、ちょうどその切っ先の席に座っていたために場面によっては役者の陰に隠れて他の役者の姿が見えなくなったり、舞台で行われていることが分からなかったりしたのが少々残念だった。三人の役者が役柄によって使い分ける台詞回しもさることながら、異人の言葉に馴れてくるに従って聴き取れる部分が増えてくる状況変化に見合わせた虎哲の台詞回しの使い分けがなかなか巧かったように思う。とりわけごく一部、断片的に言葉として聞こえてくる段階のヘンな言葉遣いが気に入った。



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