Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'17. 5.13.


vol.287

'17. 5.13.

劇団銅鑼公演『からまる法則』(高知市民劇場第326回例会)

会場:県民文化ホール・グリーン

 エントロピー増大の法則という言葉が流行ったのは、僕がまだ学生だった四十年前のことのような気がするが、物理学の法則と言えば、何と言っても「エネルギー保存の法則」が刷り込まれていた僕には、一定条件下とは言え、物理の世界において無限増大を謳う法則があるなんて、と非常に驚いた覚えがある。そして、物理ではなく人間関係における得失について、作用・反作用だの、人間関係エネルギー保存の法則だのといって擬えていた僕には、エントロピーが増大していくというイメージを人間関係に置き換えて捉えてみると面白いなどと思った記憶がある。

 だから、『からまる法則』などという奇妙なタイトルの本作で、なんで今頃?と思うような“エントロピー”という言葉をのっけから石山(説田太郎)が発したとき、おやおやっと思ってどういう展開を見せるか興味深くなったのだが、作品的には、どんどんとっ散らかっていくことなく、きちんと収束していったのが可笑しかった。それにしても、人間関係や人生に擬えて、「もつれる」でも「こじれる」でも「つまづく」でもなく、「からまる」法則にしたのは、四年近く前に観た『はい、奥田製作所。』にも窺えた、作者の“人の繋がり”というものに寄せる関心と願いの強さによるものなのだろう。似たような状態を形容しつつも「からまる」という言葉だけが見事にネガティヴ・イメージを回避している気がして、「そーか、からまる法則か、うまいこと言うなぁ。」とちょっと感心した。

 しかし、六歳の時以来の再会という四半世紀近いと思われる歳月を要した弓田父娘の和解にしても、ホームレス支援団体と近隣住民との未だ和解には至っていない顛末にしても、さらには、そもそもホームレスを生み出す元となる社会の構造的な問題にしても、からまったものを手早く綺麗に解きほどく法則などないのが人の世なのだろう。でも、だからといってそれを放り出していては、ようやく石山勇一(野内貴之)が得られたようなカタルシスが、決して与えられないことになる。

 からまるのは、誰かの落ち度や責任ではなく、既に法則なのだから、後はもう諦めずに何とか取り組み続けていこうよというのが作り手のメッセージなのだろう。そうすれば、きっと得られるものがあるのもまた、人間関係における法則なのだと語っていたように思う。勇一が苦境の責を父親にもとめたところで、ホームレス支援団体のメンバーがリストラ企業の側に立つ弁護士の活動を非難したところで、事態や状況の改善は起こらない。それよりも現に対応できることに取り組むことが必要なのだ。まさに勇一がそうだったように悪感情にばかり囚われているうちは、次の一歩に踏み出すことができず、事態はますます悪化する。是非も無い“法則”だからと割り切ることで、次に為すべきことに向かえるのなら、それに越したことはない。ホームレス支援団体「かけはし」と近隣住民の対立においても同じことが言えるわけだ。

 元中学教師の弓田英明を演じていた佐藤文雄のお辞儀の身体の折りたたみ方が、人生の辛酸も挫折も味わっている人物のキャラクターを絶妙に映し出しているように思えて、大いに感心した。また、「かけはし」の代表となっている大学生の向暁子(三国晶子)や土木作業員の仕事に従事している感じの風体だった若者の井口(池上礼朗)のいかにも若々しい生硬な感性が、とてもよく出ていたように思った。それによって、支援する側にもされる側にもいる大人たちの年輪が自ずと対照されていたような気がする。自身が「かけはし」に救われたことで活動に参画するようになったとの井口という若者を置いているのは大事な点だと思った。

 また、今の時代にまるで似つかわしくないような昭和三十年代のような木造住宅を設えた舞台がなかなかよく出来ていて目を惹いた。分別用のゴミ箱とコルクボードがなければ、昭和の時代と見紛いそうな構えだったのだが、『はい、奥田製作所。』でもそうだったように、作者の小関直人には昭和ノスタルジーがあるのだろう。井口の台詞にあった“自分が支援を受けて味わった「温かさ」を感じさせる場所”としての家屋イメージを入念に造形しているように感じた舞台美術だった。

 今回は運営サークルに当たっていたので、観劇後の交流会にも参加したのだが、そこで知った話によると、弁護士の佐山(館野元彦)の役は元々は医師だったそうだ。それも「かけはし」をサポートする立場ではなくて佐山自身が「かけはし」のメンバーだったらしい。「かけはし」の事務局長を務める弓田英明の娘で、企業の顧問弁護士を仕事にしている川上真理子(永井沙織)との対照を描くうえでは非常に適切な改変だと思った。二人の役者がその関係性の微妙な綾とそれぞれの抱えているクライアントに見合った職能感をよく表現していたので、よけいにそう感じたのかもしれない。

 ホームレスへの炊き出しを行うことで自ずと彼らをたくさん集めてしまう「かけはし」の活動の隆盛に対して苦情を申し立てる近隣住民の商店会役員の谷田川さほ(間宮信子)を決して悪役には仕立てあげないところは、作り手の面目というか本作の眼目なのだろうが、その企図と志は大いに買うものの、実際に四百名を超える反対署名をも集めるに至っていれば、あのような生易しい対立に留まってはいない気がしてならなかった。とはいえ、むきになる頑なさを「かけはし」の向や井口といった若者のほうにあてがうことで、作り手が全面的に支援団体側に与することを回避するという望ましいバランス感覚を発揮していた気がする。谷田川の人物像をどのように造形するかが本作の最もデリケートで難しい部分のように思う。

 開始早々からたくさんの登場人物が現れ、少々困惑したのだが、観ているうちに自然とキャラクターが定まり、相互の関係も無理なく把握できるように運ばれていて感心した。ちょっとした台詞の端々や所作によって、筋立てとしては語られないエピソードの数々を想像させ、人物造形に厚みを持たせることにも成功しているように感じた。ホームレスを支援する側にも支援される側にも実際には立ったことがないのが観客の大半を占めるなかにあっては、容易に自分を投影できる立ち位置の登場人物がいないわけで、さればこそ、ある意味、本質的に普遍性を宿しているとも言える家族の物語を軸にしていたのだろう。そのことが奏功しているように感じられる作品だった気がする。



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