Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'17. 4. 7.


vol.285

'17. 4. 7.

シアターTACOGURA#011 『いかけしごむ』

会場:蛸蔵

 アフタートークで三度目の演出となると紹介されていた藤岡武洋による演出の前作を僕は十年前に観ている。映画に比べれば余りにも些少と言う他ない僕の観劇歴ではあるものの、十年前に観た『いかけしごむ』は、とても鮮烈な印象を残してくれている。そのときの演出と比較すると、今回は象徴性や記号性が後退し、やけにフラットで変に具体性に傾いた演出になっていたように思う。

 もちろん僕の好みは十年前の作品のほうなのだが、アフタートークでの藤岡の弁に拠れば、今回は作品的解釈ではなく別役実のテキストそのものの面白さを前に出すよう心掛けたとのこと。しかし、本作のテキストの面白さにしても、虚実の相が変転するところにこそあるので、人物の記号性を剥いでここまでフラットに女(伊藤麻由)の思い込みのゆるぎなき強さと男(吉岡裕太)の心許なさが押し出されると、話そのものが筋立ったものではないだけに、わずか一時間程度の作品であっても、少々倦んでくるようなところがあった気がする。

 ある意味、役者の持ち味を最も活かそうとした演出にも思えたのだが、演出ノートに記された笑いを取りたいとの狙いからすれば、あまり奏功していない気がした。ただ、折しも森友学園問題で籠池元理事長周辺と首相夫人及び官邸周辺とで全く言い分が違っている事態が起こっていて、実にタイムリーなのが可笑しかった。森友学園問題の解明が国会でも、双方の言い分のぶつけ合いばかりに終始していて、出てくる物証が本作の黒いビニール袋程度のものでしかない状況に、『いかけしごむ』世界は、まさに現実そのもののような気がしてくる。

 その意味からすれば、今回の公演でビニール袋の中身をぶちまけたときに実に中途半端に、バラバラになった子供の死体を模した人形を出したのは興醒めだった。お芝居の約束事として見立てるべき“死体”そのものなのか、まさしく人形なのか、で言えば、人形と解することで得られる興趣に乏しかった以上、死体と受け取るほかないのだが、男が実子殺しを行なっていたとの解釈に基づく作品作りのようには感じられなかった。

 アフタートークでも、会場からの質問に対して藤岡は、テキスト解釈としては、「男は自分の子供を殺してはいないと思っている」と明言していたので、それも当然のことではあると思った。さすれば尚更に、あの小道具の使い方には疑問が残るように感じられる。そのために、最後の警官を名乗る男(友野大智)の登場というものが、あまり効果的に作用しなくなっていたような気がする。そこが前作との最も大きな違いだと思った。

前作:http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/07/4-12.html



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