Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'16. TACOGURA


vol.272

'16. TACOGURA

シアターTACOGURA上演プロジェクト『お國と五平』
'16. 9.25. 会場:大豊町八畝の棚田
'16. 7.20. 会場:県立美術館ホール

 午前11時高知駅発にチャーターされた町営バスに乗って「お國と五平」上演プロジェクト・大豊シャクヤクの会共催企画“昼食会と八畝地キビ収穫体験”のメニューの一つとして、大豊町の山間の棚田のなかに設営されたステージでの野外公演を観て来た。今年の利賀演劇人コンクールで3位の奨励賞(賞金20万円)に選出された作品の再演だ。

 コンクール出品直前の県立美術館での公演は、野外の予定が日中の雨でホールでの公演となったので、本日の野外公演を楽しみにしていたのだが、7月の公演時以上の荒天に野外は無理かと思われたものの、時折小雨の降るなかの設営でもって野外公演が敢行された。本番中の降雨を懸念して簡易雨合羽が配布されたのだが、奇跡的に本番中は雨が降り止んでいた。

 公演そのものは、事前準備が慌ただしかったせいもあろうが、開演時のマイクレベルが不調だったり、音声が時おり切れたりと、いささか緊張感を欠いたりしたせいか、役者の台詞が飛んでしまって無音の時間がしばし続いたりして少々心許ない始まり方だったが、五平が「此の夕ぐれに」と言う時間帯とちょうど重なる夕刻から次第に闇の迫ってくる時間帯での野外公演は、その暗がりが深まるにつれ、確実に観客を魅了していったような気がした。

 演出そのものは、基本的に7月に観たものと大きく変わってはいなかったように思う。なかなか観応えのあるものだった。興味深かったというか、驚いたのは、本番の前に訊いた、利賀演劇人コンクールでの審査員評で「舞台装置の一部に使われていた金魚鉢の意味がよく分らないと指摘された」という話だった。通常の金魚鉢以上に窮屈そうな水槽に押し込まれ、夜店の金魚とはまるで異なる立派なヒレを翻す大きな金魚こそは、魚本来の姿を奪われ、見世物としての華美を求められた魚であり、まさに見世物としての華美を忠義の名の元に求められる習わしである“仇討”に囚われた武家の姿そのものであるわけで、本作の寓意を凝縮したシンボルに他ならないと思っていたからだ。白と青が強調された舞台において赤が示す強い色彩効果の点でも出色の舞台装置だと思っていた。

 池田友之丞(山田憲人)が「世間と云うものが憎かったのじゃ。」「拙者は世の中と云うものに楯をつく気で、伊織どのを殺してやったのじゃ。」と言うようなものにしても、藤岡武洋が演出ノートに記した「私たちが身を置く社会(規範や制度)」にしても、そこで生きる者を縛っていて、人間本来の姿としての本音を許さずに飾り立てることを求める窮屈で理不尽なものを指しているわけだ。だからこそ、一筋縄ではない人間なる存在の実相を衝く池田友之丞の言葉が、お國と五平にも、観客に対しても強いインパクトで迫って来るのではないか。関係者から又聞した審査員のコメントに少々呆れた。


☆7月の美術館ホールでの公演の備忘録

 明日から十日間かけて開催される“利賀演劇人コンクール2016”の上演審査に向けて一次審査を通過したシアターTACOGURAによる予行演習とも壮行会とも言える上演プロジェクト『お國と五平』公演を美術館ホールで観て来た。

 県立美術館駐車場脇のロータリースペースを野外ステージに見立てて行うはずだったものが折からの激しい通り雨によって急遽ホールに移動しての公演となったため、充分な音響・照明を講じることが叶わなかったようだが、空間イメージや設えのハンディにもかかわらず、思いのほか観応えのある芝居だったように思う。

 谷崎の原作も、成瀬による映画化作品も、接したことがないままに観たのだが、忠義の裏に潜む不義、艱難辛苦のなかに潜む愉悦といった一筋縄ではない人間なる存在の実相を衝く池田友之丞(山田憲人)の人物像が非常に刺激的だった。

 卑怯な臆病者と自認しつつ、己が手で闇討ちに掛けたお國の夫を羨み、お國(鈴木みのり)の仇討に付き従って三年以上ともに過ごす家来の五平(西村和洋)を羨み、決して卑下することなく全てを己が運のなさだとして、追手の前に自ら姿を現し赦しを求める、大胆不敵とも臆病とも知れぬ陰影の深い人物として、なかなか印象深かった。

 家老職の家に生まれながら、かつては夫婦の誓いも立てた間柄だったお國から、男ぶりの劣る腕っ節の弱い臆病者と見限られ、別の男に走った女に対する仇討と言えなくもない行状は、しかし、その腕前の無さから闇討ちという卑怯を余儀なくされたことをもって運の無さと言うのも如何なものかとは思うものの、巡り合わせの悪さと見る分には相応だとも思う。

 「出来てしまったことは是非も無き」とは五平の言葉だったが、世間的には完膚なきまでに非とされる友之丞の行状も、天晴れ武家の鑑とされる後家と従者による仇討も、いずれとも是非とは異なる部分にこそ人の真実が宿っているはずなのだ。だからこそ、憎き仇のはずの友之丞に詫びたり怯んだりする忸怩と強気がお國と五平ともに現れるのだろう。

 そうして思うに、今の日本では、この「是非も無き」という捉え方がすっかり失われたような気がしてならない。それとともに、人々がアグレッシヴになり、不寛容が満ちてきているように思う。

 「是非」ではなく「運」というのが、足掛け四年、お國と五平をストーキングしてきた友之丞が、孤独と忍従のなかで悟った人生観だったのかもしれない。それで姿を現したような気がした。

 時代劇の仇討をそのままに演じていれば、そういった観念性を醸し出すことよりも愛憎や未練、執着の葛藤といったものが浮かびあがってくるドロドロした情念の話になってきたような気がするが、時代劇を洋装で演じる異化効果がそういった部分を追いやり、抽象度の高い人間観や人生観を感じさせる効用を果たしていたような気がする。三人の役者の声色もまた、情念に向かうのではない効果的なものとして、僕の耳には心地よく響いてきた。返す返すも、本来の野外ステージで観てみたかった。

 24日の上演審査で、いい結果が出ればいいのになぁ。このところ高知の演劇シーンは上げ潮ムードにあるように感じるので、ひょっとして、ひょっとしたりしないかなぁ(笑)。五平がお國の草履を脱がせる場面に漂っていた艶のほどがなかなか良かった。



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