Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'16. 8.28.


vol.269

'16. 8.28.

ふたりっこプロデュース Washi+Performing Arts? Project『風の強い日に』
会場:蛸蔵 

 開演前から流れていた和紙を漉く音が一際高くなって始まったステージが、ナレーションとともに始まる物語性の強いものだったせいか、コンテンポラリーダンスのイメージとして僕のなかに強くある象徴性の高さからは、意外なほどに具体性の強いイメージを喚起してくれる刺激的な観賞体験となった。
 ダンスのソロを取ることなく、台詞のほとんどを独りでこなしていた浜田あゆみの豊かな表情演技があったからこそだろうと思うが、金崎洋一が「愛してる」の言葉を繰り返す中で若い男女の心身のぶつかり合いと関係性の綾を表現していたように感じられるデュオにおいて、ほぼ視線の変化だけで見せる表情の微妙な豊かさを醸し出していた山本香菜子に魅せられた。続く12個の立方体で設えたサークルを舞台にしたダンスの美しさも印象に残った。
 その後のスライドショーのような形で感情表現の寸描を重ねていく時間のなかで見せてもらった孤独や寛ぎ、不安、怒りなどを眺めながら、「風の強い日に」と題されたタイトルが、土佐和紙というよりは人の生をイメージして付けられたもののように感じられるようになったのは、オープニングで浜田が過去の自分に伝えたいこととして「自分をきちんと持つこと」と語り、未来の自分に伝えたいことは?と自問して始まったステージだったからかもしれない。
 圧巻は、作・演出・振付の鈴木竜が上半身裸となって、三島の割腹や聖セバスチャンを想起させるような枝に貫かれるイメージを提示したうえで始めた柔らかく力強い踊りのなかに窺える“生の苦楽を感じさせる精神性の深さ”だった。しばらく観入っていたのだが、そのうち他の演者たちが現われてディスコミュニケーションの言葉の執拗なまでの繰り返しを行ない始めたのは何故だったのだろう。はじめのうちは思わず笑ったものの、しつこく繰り返されているうちに少々苦痛になってきた。
 とはいえ、実に卑近なさまざまな言葉で示されるディスコミュニケーションを見つめているうちに、人の生のなかの苦楽を表しているだけではなく、これらを時代の言葉として捉えているのかもしれないと思うようにもなった。確かに人の生において受ける強い逆風としてディスコミュニケーションに勝るものはない。だが、時代の言葉として抽出するなら、本作で繰り返されたような二者関係におけるリアルの言葉に加えて、メディアやネットの言葉として顕著な言葉も取り込むべきではないかとも思った。しかし、それをすると卑近な言葉にさえ差した嫌気が倍加することは間違いなく、たとえ最後に救済のイメージを添えても何だか後味の悪いパフォーマンスになった気もする。
 ともあれ、土佐和紙をモチーフにした舞台芸術としていかにも相応しい白尽くめの衣装に、壁面に和紙を張り、そよがせ、和紙で包んだ立方体を小道具としてあしらい、和紙を堆く積んだり吹雪かせたりしつつ、いかにも演題に相応しい人の生なるものを感じさせていたステージにおいて、只ならぬ問題提起を持ち込んでいたのは間違いないような気がする。およそコンテンポラリーダンスのなかで提示されるもののイメージとは乖離した言葉が、強い風として吹きつけられた日だったように思う。そこのところが成功しているとは必ずしも思えなかったが、意欲作だと感じた。
 十月には東京公演も行うようだ。今後の展開が楽しみに思えた。

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