Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'16. 5.27.


vol.267

'16. 5.27.

オペラシアターこんにゃく座『オペラ ネズミの涙』 (高知市民劇場第320回例会)
会場:県民文化ホール・オレンジ

 今の時代に向けた主張もあり、チームワークの良さと溌剌とした若い役者の演技が目を惹き、最後の総員での足踏み歩行の場面には“人生を歩むことへの鼓舞”を感じつつ、ニッケルを演じた島田大翼の腰の位置のぶれない力強い所作にとりわけ感心した。
 それなのに、もっともっと響いてきていいはずの舞台が今宵は妙にしっくりと来なかったのは何故なんだろうと帰途の車上で考えた。朝鮮の伝統楽器を用いた現代音楽とのサムルノリを取り入れていた部分がしっくりと来なかったからか、楽曲にあまり魅せられなかったせいなのかとか、オペラと銘打ちながら、台詞劇が相当あり、また、ピアノと朝鮮半島の伝統打楽器四種という構成がオペラのイメージさせる音の厚みからは程遠いものにならざるを得なかったせいなのか、あるいは動物の擬人化による物語を僕があまり好まないからかとか、あれこれ思ったが、行き着いたのは一昨日のバドミントンの練習による疲労のピークが来ているせいではないかということだった。
 昨夜のレイト上映で観た『レヴェナント 蘇えりし者』の156分にも疲れてしまったし、若いときのようにはいかなくなっていることを改めて思い知らされたような気がする。おかげで明日、三十二年ぶりに再見する予定にしていた映画『フィッツカラルド』157分を楽しめる自信がなくなってきた。いやはや何とも…。
 それにしても、「元々いなかったと思えば…」とは何と悲しい言葉かと思いながらも、チタン(北野雄一郎)のときもリン(太田まり)のときも、おっとぅ(富山直人)によって繰り返されることで、決して敗北主義の言葉ではなく哀しい知恵なのだと思い直した。憎しみの連鎖を断ち、歩みを進めるために必要な“自身への言い聞かせ”なのだ。むろん被害者に対して他者が求める性質のものではなく、自ら抱くべきことに他ならないが、かつて日本人のメンタリティとして比較的普遍的だったように思うこの“哀しい知恵”がしばらく前から影を潜め、被害者保護の名の元に制度化が進められてきている。それもまた、社会的に必要なことなのかもしれないと感じつつも、囚われからの解脱を遠ざける部分もあるように感じ、割り切れない思いを日ごろ抱いていることに呼応してくるものがあった。
 また、体の大きく粗暴なドブネズミたちが戦争をしている相手が明示されていなかった点が秀逸で、おそらくはドブネズミ同士の利権争いに野ネズミやテンジクネズミが巻き込まれている図というのが本作の構造なのだろう。そうしたなかで、浮草稼業の旅の一座を営むテンジクネズミに朝鮮の伝統楽器による下座音楽を配すれば、自ずとテンジクネズミが在日朝鮮韓国人ということになってくることに思い至って、本作が僕の好みではない動物の擬人化による作劇を鄭義信(台本・演出)が必要としたことに得心がいった。


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