Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》 3.26.〜27.


vol.263

'16. 3.26.〜27.

高知演劇ネットワーク演会プレゼンツ“演劇実験空間 蛸蔵ラボvol.2”
会場:蛸蔵

   演劇人のスキルアップと交流を目的に開催されるとの蛸蔵ラボ、昨秋の第1弾には折悪しく立ち会えなかったが、今回は初日終了後の「大演劇交流会」も含め、両日とも参加することができた。高知演劇ネットワーク演会が、最近は県域を越えて活動するようになってきて大いに感心していたのだが、とりわけ昨年あたりから、またステージを一段上がったように感じている。
 初日の四演目は、演会に集う演劇人のなかでも若いメンバーによるオリジナル小品が並んだ。オープニングは、県立大学の学生たちによる“べいぶ”の『連弾』。けっこう重く込み入った心理劇に焦点を当てていたから、わずか三人の出演者によって、30分で描き出そうとすると中途半端にならざるを得ないが、そのわりには健闘していたように思う。上手なピアノを人前では弾けない少女コウノミサキと、同級生の彼女をダシに合唱指導の教師サクマケンイチへの接近を画策するカツラユイの間に起こった出来事がすなわちタイトルの『連弾』なのだろう。匿名と思しき告発によって教職を追われることになるサクマが貼りつけられていた札書きのなかにあった「性欲で職業を選ぶな!」というフレーズが妙に可笑しかった。女子高生二人の連弾のとばっちりを食うようにしてサクマの見舞われた顛末が、いかにもの今どき風だったのだが、物語の収め方が少々安直な気がした。
 二つ目も学生メンバーの“演研パッチワーク”による『かじつ』で、こちらは国立の高知大学のほうになる。公演リーフレットに「5人一丸となって笑える舞台を目指します」と記してあったが、微苦笑を誘われる軽妙さがあった。思いのほか場内が笑いで盛り上がっていたのは、それを牽引した観客の存在が大きいように感じたが、僕には分からない楽屋落ち的な或は若者落ち的な何かがあるようにも感じられる反応だった気がする。メンバー紹介がなかったので誰なのか判らないが、コンビニ店長を演じていた役者が目に留まった。
 二年前に観た『あらし』(内藤裕敬 作・演出)において教師役で共演した四人によるユニット“ほしがり四姉妹”の『ゆったりサイズはありますか?』は、公演チラシに記されていた「正反対の二つのお店…そこで働くキラキラした女性たちのあんまりキラキラしてない物語。彼女は叫ぶ。「女になんか生まれるんじゃなかった!!!」」からすると、確かにその台詞はあったものの、正反対の二つの店のイメージが特に伝わって来ず、姉妹関係というのも妙によくわからなかった気がする。姿を現さない男(ホンダだったか?)への興味は湧いたが、前掲『あらし』の備忘録に記した「濱田万央の演じたイザワ先生の微妙にヘンな押しの強いキャラクターは、津野あゆみの演じたコジマ先生の元気を感じさせる率直で明るい押しとの好対照で印象深く、前面に出てきていたミタ先生(谷脇ななみ)とワタナベ先生(阿井瑞希)のツッコミとボケの可笑しみ以上に効いていた」というような成果には至っていない気がした。
 昨秋旗揚げしたばかりの“演劇 unit ユニット・バス”による『あなたが生まれた日』は、公演チラシに記された舞台とは全く異なる「書き損じの原稿用紙を丸めた紙屑が散乱する昭和色の濃い小部屋」で小机に伏せて頭を抱える作家(奄莉*あんり*)に死神装束の男(清里達也)が映画『デスノート』のように現れて語りかけるオープニングに少々驚かされた。'08年'09年と縁あって高知県高等学校演劇祭の講評講師を依頼されて務めたことが僕はあるのだが、「演劇部で創作台本を書こうとしながら、なかなか書けずに切羽詰ってくる部員達の姿を芝居に」するのは高校演劇の定番かと思っていて、社会人のオリジナル作品に出てくるとは思わなかったからだ。ただそこには捻りがあって、高校演劇の台本では書けない作家のほうに目が向いていることに対して、本作では書き損じとして棄てられるキャラクターに向ける目があるところに今日的意味があるように感じた。本作で提示された紙を食べる子供(前田澄子)のように、世の中こぞって“今だけ金だけ自分だけ”の風潮にあって故なく蔑ろにされる人や事物が、度を過ぎた形で目につくようになってきた気がする。自分が幼い孫を六人も持つようになっているなか、餓死した被虐待児を想起させる場面を見せられるのは些か堪えるようなところもあったが、意欲作だと思った。
 ステージと客席に配置換えが施されて始まった大演劇交流会は、ざっと五十人を超える大盛会だった。参加者中の最高齢に属すると思しき僕は、スタッフに勧められたとおりステージ上の座卓席に着いたが、暫くしてから隣の席に腰を下ろした方に「どちらから?」と訊ねると「大阪です」との答えが返ってきて驚いた。訊けば二日目に出演する南河内万歳一座の福重さんだった。二十年近く前に県立美術館ホールで観劇した“南河内万歳一座『流星王者』公演”のときにも来高していたとのことで、その後になる2001年の高知演劇ネットワーク演会の発足から今に至る展開や僕が若い頃の演劇と今の高知の演劇について、日ごろ思っていることを話したりと、楽しい時間を過ごすことができた。また、徳島から高知県立大学に来ている学生やら、普段あまり話したことのない劇団メンバーやらと話す機会が得られて、なかなか面白かった。

 二日目の四演目は、進行の岡村演会代表も言っていたように初日とは対照的な“大人のステージ”で、二十代の役者がほとんどいなかったように思う。オープニングは、今回のラボ公演で唯一の既成台本による“カラクリシアター”の『ピカレスクホテル−ここだけの話−』。長らく活動を続けて来た演劇センター'90が解散したことで結成されたようだ。七年前に演劇センターの第52回公演『狙撃者 大河原丈の一日』を観て、ライブ備忘録に大河原を演じた谷山圭一郎について「表には出さないながらも現れ出ずにいられないものとしての“人の好さ”や“人間的温かみ”を備えたキャラクターを体現していたように思う。まるで当て書き台本のように感じたくらいだった」と記した高橋いさをの作品だったことに奇遇を覚えた。本作での高倉健イチ(谷山)もまた、彼に似合った役柄だったように思う。ソファーに腰掛けて俯いた高倉の後ろでバージンロードを歩くコウヤマ明日香(別役和美)を重ねたエンディングの配置と照明がなかなかよかった。
 二つ目の演目は、初日の大演劇交流会のとき劇団乳酸菌で活動していたとの紹介があったように思う“ネリ”による独り芝居『お玉金輪際』だった。お玉(ネリ)が育てている売り出し中の役者、弦ノ丞について語っていた「役者に必要なのは色気だよ」という台詞が印象に残っている。
 呆気にとられたのは、実に“問題がある”問題少女を「役者として、母として、女として、妻として、その業を“生”で」体現できる三十路後半に入ったとの加藤春菜と三十路半ばにあるらしき津野あゆみによる“ファッキンガールズユニット アレーズ”が、最後には客席のコスプレゲストを四、五名もステージに呼び込んだ『MONDAI GIRL』だ。岡村演会代表が紹介していた“大人の階段を踏み外した”との形容が妙に似合っているダイナミックなパフォーマンスとお下劣ギャグにいささか驚いた。いちばん気に入ったのは『AED』だ。
 演劇実験空間を謳うのならということにおいて最も相応しいと思われる演目を用意していたのは、“南河内番外一ザ・ヤング”による『ひともと』だった気がする。高知の演劇ネットワーク演会が今に至るうえで大きな刺激となったものは、高知県文化財団が当時静岡県舞台芸術センターに所属していた演出家の中島諒人を招聘して演会とのコラボで三ヵ月に渡って制作した『ヘッダ・ガブラー』に端を発する中島諒人との2005年の出会いと、2010年から加わったシアターホリックが展開し始めたように思う他県劇団との交流、2007年に高知市文化振興事業団が『百物語』で招いた“南河内万歳一座”を2010年以降頻繁に招くようになるなかで、2014年に<高知の演劇推進プログラム>として主宰の内藤裕敬を招いて、彼が「熱心で未熟だ」と記した高知の俳優たちを使って『あらし』を制作したことにあるような気がしている。作・演出家にとどまらず劇団員との交流も生まれたことが今回の出演にも繋がっているのだろう。その南河内万歳一座の鈴村貴彦の作・演出による『ひともと』が意味するところは、おそらく人偏に本という意味で“体”のことを指しているのだろうと思った。何もない空間としての舞台に重そうに箱を運び込んで積み上げて組んだ煙突状の像の上と下で交わされていた会話の内のどれが公演チラシに記された“劇団の中で常に用いられる言葉”だったのか掴めないままだったのが個人的に悔しいというか残念だったが、妙な熱っぽさが残る作品だった気がする。


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