Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》 3.21.


vol.264

'16. 3.21.

加藤健一事務所公演『Be My Baby いとしのベイビー』(高知市民劇場第319回例会)
会場:かるぽーと大ホール

   とても相性の悪かったジョン(加藤健一)とモード(阿知波悟美)を結びつけてしまうほどのパワーが赤ん坊の愛らしさのなかにはあるという芝居を観ながら、この感覚の本当のところは若い人たちにはわからないだろうなと思った。僕自身がそろそろ還暦も近づいてきて孫が六人になってくるなかで、年を追って幼子の命の輝きに掛け替えのなさを強く感じるようになってきているからこそ、孫がいてもおかしくない年配にある二人が生後一か月余りのミランダに執心するさまに納得感があった。三人の子供をまだ自分が若い二十代のうちに得たことも作用しているのかもしれないが、ジョンたちが繰り返し褒めていた幼子の綺麗な肌に心から魅せられる感覚は、我が子が赤ん坊の時分には抱かなかったような気がする。クリスティ(加藤義宗)とグロリア(高畑こと美)の若い二人とのそういう面での対照がよく効いていた。


 また、'60年代のロネッツやプレスリーの大ヒット曲を聴きながら、作者のケン・ラドウィックがこの作品を書いたのはいつなのだろうと思った。クリスティとグロリアの和解の仕方にしても、ジョンとモードがミランダを二人で育てる決意を確認し合う場面にしても、'60年代の作品とは思えず、少なくとも'80年代以降だろうと思ったのだが、奇しくも劇団の方に訊ねる機会を得て教えてもらったところ、'05年とのことだった。だとすれば、四十年も前の時代設定を敢えて設けたのは、作者が今の加藤健一の年頃になって、自分が若かりし頃の思い出の曲でもある『Be My Baby』に重ねて、四十年前とは異なる言葉通りの赤ん坊への想いを綴った作品なのかもしれないと思った。


 それにしても、加藤健一が赤ん坊にメロメロになる初老男を演じるようになる年季に心騒ぐものがあった。僕が彼の名前を記憶したのは、演劇ではなく、原作小説も愛読していた映画化作品『麻雀放浪記』をあたご劇場で観た二十六歳のときだ。女衒の達の気取りの差したかっこよさを粋に演じていて、強い印象が残った。それもあって、六年後の'91年に東京出張でたまたま折が合って観劇の機会を得た際に、本多劇場に足を運んで『ラブ・ゲーム』を観た。そのことは、世紀も変わって加藤健一事務所の芝居が例会作品にものぼるようになった第229回例会『銀幕の向うに』の感想にも記したが、第253回例会『煙が目にしみる』の感想に「加藤健一事務所の公演に、ハズレ舞台はないものだとつくづく感心させられた」と書いたように、その後の第274回例会『詩人の恋』も、第304回例会『モリー先生との火曜日』も、触発力に富んだ豊かな作品だったように思う。


 加藤健一に対しては、とりわけ比較的若いころには、演じることやエンターテイメントとしてのパフォーマンスに関して、非常に理知的で少々尖ったまでの自意識が強く感じられるような印象があったので、親子共演を果たした前回公演で「芝居そのものよりも、父子二人だけのキャストでこういう作品を演じている加藤健一の“幸い”のほうに、むしろ心打たれた。そして、終演後の舞台挨拶に滲み出ていた“演劇を愛し、大切にしている彼の生き様”のほうが作品以上に感銘を与えてくれたように思う」という感想が湧いてきたことに感慨を覚えたのだが、今回の公演では、実に楽しそうに赤ん坊にメロメロになっていて親近感が湧いた。

『麻雀放浪記』< http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/1985j/01.htm >

『銀幕の向うに』< http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/01/shimin-Reikai229.html >

『煙が目にしみる』< http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/05/03-23.html >

『詩人の恋』< http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/08/9-19.html >

『モリー先生との火曜日』< http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/13/9-4.html >


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