Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》2.21.


vol.259

'16.2.21.

アンドロイド演劇『さようなら』とロボットワークショップ(東京藝術大学+大阪大学+四国学院大学連携企画― 心はどこにあるのか ―)
会場:高知県立美術館ホール

 ホールのステージ上に組まれた百席ほどのパイプ椅子からアンドロイド演劇と銘打たれた短編作品と平田オリザ(作・演出)及び力石武信(ロボット側ディレクター)によるワークショップという珍しい舞台を観賞した。だが、ロボット工学における演劇プログラムの持つ意味は非常によく分ったものの、演劇にとってアンドロイド演劇の持つ意味というものが、今ひとつ響いて来なかったような気がする。

 奇しくも観客から「アンドロイドを人間の役にあてがわずにアンドロイドとして使っていて安心した」との声があったように、精巧なアンドロイドの役柄をアンドロイドそのものに充てるのは、その精巧さに感心させはしても、アンドロイドが役者に取って代わっているわけでもなく、芝居的に言えば、大道具小道具のひとつでしかないわけだ。

 ただ主題的には、死に向かう者(村田牧子)に相対しひたすら詩を読み続ける精巧なアンドロイド「ジェミノイド F」(動き・声:井上三奈子)を置くことで、人による看取りの代替を機械が行うことの意味を問う提起がなされていたとは思うものの、それは主題的なものであって、敢えて“アンドロイド演劇”と呼ぶべき代物ではないような気がした。

 また、芝居上のアンドロイドとして置くのではなく、アンドロイドに演劇としての芝居を演じさせることについては、アンドロイド演劇というものが、いわゆる人形劇の人形とは違って、本物の人間と見紛うような動きと反応を見せるプログラミングによる演技を志向するのであれば、何も無理にアンドロイドを使う意味はなく、見世物的な感心を誘うことはあっても、アンドロイドによる演技であるがゆえに演劇的な感動を与えることなど起こらないような気がした。映画で言えばアニメーション、演劇で言えば日本にも人形浄瑠璃などの伝統のある人形芝居において、生身の人間ではないものが演じていることの意味は、確かに一方でリアルさを意図しながらも、大前提として“生身に縛られない抽象化と象徴性の獲得”に最も重要な部分があるように感じている。そのバランスというか、生々しくないもので生々しさを感じさせようとしたりするところに真骨頂があるのだから、生な人間そのものに酷似したアンドロイドを使うとなれば、その大前提の部分が失効してしまいかねないので、人形劇などとは異なり、やはり人間の代替として使うことになるのだろう。それならば、まさしくワークショップで平田オリザが語っていたような「コストとリスクという経済性の問題」に帰結してしまうのであって、演劇性に関わるものではなくなるような気がする。

 現時点では、まだまだ役者と代替できるほどの工学的達成に至っていないのは歴然としていたが、アメリカでは最後まで人間の役者が演じていると思っていた観客の現れた公演もあったそうだ。ともあれ、細かく柔らかい瞬きや唇の動きを見せる「ジェミノイド F」そのものはなかなか見事なもので、ロボット工学的な感心は大いに誘ってくれたし、演劇における身体性や再現性の問題について、改めて考えてみる契機を与えてくれる興味深い公演企画だったのは間違いない。

 ただ個人的には、メカニカルに保証されてはいない“ライブ感のなかでの再現性”というものを、稽古を重ねることによって追求した演技の身体性に惹かれるので、音楽にしても芝居にしても、スタジオでポストプロダクションを重ねて磨いたものを楽しみたければ、録音媒体や映画を観ればいいのであって、ライブで楽しむ醍醐味は、アンドロイドに代替できない気がする。もし、観る側が気付かないくらい精巧なものに置き換えられてしまうと「なんだライブじゃなかったのか」という後味の悪さが湧いてきそうだ。食の産地偽装とか、口パク歌唱のコンサートといったものに近い心地悪さを味わうことになるのではなかろうか。


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