Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'16.11.24.


vol.278

'16.11.24.

エイコーン公演 『松井須磨子』(高知市民劇場第323回例会)

会場:県民文化ホール・オレンジ

 栗原小巻という女優さんは、どうもその拵え感が苦手で、十六年前に観た『欲望という名の電車』の鑑賞メモでも「ブランチは、演ずる側にとっては挑戦しがいのある役柄かもしれないが、観ている僕にとっては、哀れを誘う以上にやはり嫌な女だとの思いが先に立つ。栗原小巻の台詞回しと所作だと余計にそういう印象が強くなったように思う。」などと記していたのだが、世の中ががさつになったせいか、彼女の年期の為せる業か、その所作、身のこなしの美しさに観惚れてしまい、我ながら驚いた。

 七十歳を超えて独り芝居を打つだけでも凄いと思うけれども、齢三十過ぎで没した稀代の女優を演じて違和感を感じさせない声と身体能力が素晴らしい。最初に登場したときに、これが栗原小巻の声か?と野太い声に魂消たが、聞き慣れている声の拵え感からすると、どちらが作り声なのか俄かに判じがたい気がした。

 物語のナレーション部分をその声で発し、須磨子の声は聞き覚えのある小巻声だったわけだが、敢えて与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』を冒頭に長々と朗詠することで近代的自我に目覚めた“新女性”の現れた明治後期の時代性を示していたところには、昨今の何やらキナ臭い情勢に対する懸念も込められているような気がした。そのうえで、旧劇(歌舞伎)に対する新劇女優として、あくまで「近代女性を“演じる”女性」であることを求められ、彼女自身が近代女性になることは誰からも求められなかった松井須磨子の葛藤と苦衷を、彼女の演じたノラ(人形の家)やマグダ(故郷)、カチューシャ(復活)に重ねて、実に巧みに構成した観応えのある作品だったように思う。

 一時間半に及ぶ独り芝居を出ずっぱりにするのは流石の栗原小巻なれど高齢にはハードすぎるとの事情が働いていたと思われるが、影アナ音声で処理する場面をうまく使っていた。そういった工夫を凝らすうえでも城所潔のピアノの生演奏を舞台に上げた演出が奏功しているように感じた。また、衣装や照明の美しさも目を惹いた。

 それにしても、松井須磨子の物語に触れるたびに、ノラを演じさせる一方で、自分に憧れ依存し後追い自殺までさせるような関係性に座していた島村抱月への嫌悪感が湧いてくることを禁じ得ない。与謝野晶子の夫、鉄幹も晶子には随分と見劣りがするのだけれども、抱月にはそれ以上に好もしくないイメージが僕のなかで定着していることに思い当たった。

 いわゆる“演じること”はまた、女性とりわけ女優には切っても切れない事柄だ。そのことによって魂の引き裂かれる部分があることを表現するうえでは、かつて拵え感の色濃かった栗原小巻の演技の個性が効果的に働き、松井須磨子と栗原小巻が重なって見えてくる部分もあって妙味が増していた気がする。とても美しく哀しい歌声だった。



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