Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》 5. 8.


vol.241

'15. 5. 8.

俳優座劇場プロデュース公演『十二人の怒れる男たち』(高知市民劇場第314回例会)
会場:県民文化ホール・オレンジ

 シドニー・ルメット監督によるアメリカ映画も、中原俊監督による日本映画も、ニキータ・ミハルコフ監督によるロシア映画も観ていて、舞台としても、俳優座劇場によるプロデュース公演で既に二度も観ている芝居なのだが、今の世情のなかで再見すると改めて触発されるものが多かった。
 十代の時分にアメリカ映画版を観て、ヘンリー・フォンダの演じた陪審員8号(原康義)が非常にヒロイックに感じられて印象深かった記憶があるのだが、今回の公演では、8号の存在以上に十二人の陪審員たちの構成のほうが印象深く映ってきた。“合理的論証というもの自体に馴染めないタイプの人間”として登場する陪審員3号(青木和宣)や陪審員10号(柴田義之)の個人的感情や思い込みのフィルターを“民主的な”討議によって剥ぐことの困難さは大きな主題の一つとして描かれていたが、そのような頑迷さに支配される人物はあくまで1/6の少数で、それとは反対に、自分なりに考えるよりも他者の意見に左右されやすい陪審員2号(金成均)や陪審員12号(溝口敦士)も同じく1/6の少数であり、重大事案においても直接的に我が事でなければ真摯さを欠く陪審員7号(古川龍太)のような者は更に少ない1/12の少数だということが“市民社会”として担保されていることが、いかに掛け替えのないことなのかということを感じた。数は常に少ないながらも陪審員8号のような存在は、絶えていなくなるものではないのだけれども、12人の怒れる男たちの最終評決は、彼の弁に対して「KY」だとか「サヨ」だとか言って冷ややかに揶揄する者が残り半分の6人のなかに1人もいなかったからこそ至ったわけだ。そのことの重みが沁みてくるような世の中に、今の日本がなってきていると思わないではいられなかった。
 国家主義的な権力強化や監視社会化の動きと歩みを同じくするようにして、“被害者感情”を前面に立てた“厳罰化”の風潮が日本人のメンタリティを変え、国民性を変質させてきているように常々感じていたので、例会公演の運営サークルニュースのチラシに「日本では、裁判員制度が導入された後、被告人の量刑が重くなり、それが“市民感覚”であると言われる現状を、複雑な思いで考えております」と記されたコメントに大いに共感を覚えた。
 このレジナルド・ローズの書いたオリジナル作品を四半世紀前に三谷幸喜&東京サンシャインボーイズが換骨奪胎して、いきなり全員一致の無罪評決になりかける導入で始まる『12人の優しい日本人』['91](監督 中原俊)を再見したのは、オリジナル作品を酒井洋子が翻訳し西川信廣が演出した今回の舞台公演の前々日だったのだが、裁判員制度のなかった時代の日本人陪審員による想定版をいま改めて観ると、日本人のメンタリティや国民性が変質してきているとの思いが一層強くなった。
 表面的な証拠や証言では事実は明らかにならないし、とりわけ人の証言ほどに当てにならないものはないとするところは、'54年作の米国オリジナル版と同じなのだが、さしたる論拠はなくとも、情状を思うと自分は有罪宣告をしたくないと考えるのが日本人だとしていた『12人の優しい日本人』は、もはや時代劇なのかもしれない。
 今回、両作を近日の内に観て、三谷版が細部においてオリジナル版を巧みに踏襲していることに改めて感心するとともに、レジナルド・ローズ版の“家族への個人的感情の投影に囚われた3号”と“11対1にも臆することのない8号”を重ね合わせた、妻に家出された会社員の陪審員2号(相島一之)を造形していた技巧に改めて唸らされた。また、最初に2号と同じ有罪側に投票を転じる歯科医の陪審員9号(村松克己)に、レジナルド・ローズ版の4号(瀬戸口郁)の論理志向の冷静な自信家を重ねていた部分については、3対9まで逆転するなかでも有罪側に“合理的論証というもの自体に馴染めないタイプの人間”とは真逆の者を陪審員4号として配していたレジナルド・ローズ版のほうが作劇的には優れているように感じた。階下の老人の証言や殺害方法への疑問が次第に明らかになることで検察の主張全体への懐疑を抱くようになる観客をも含めた陪審員たちが大半のなかで、直接の殺害目撃証言という最重要証言が崩れていない以上、有罪への“合理的疑問”には至らないとする冷静さは、ある意味、もう一人の陪審員8号とも評するべき重要な役割を担っていたからだ。
 だが、それ以上に重要なのは、異なる見解の元に討議を交わし、議論によって合意形成を図る“民主的手続き”というものの困難さの核心を炙り出している点だと思う。レジナルド・ローズ版の陪審員3号、三谷版の陪審員2号が囚われていた“しこり”をほぐすのは吐き出し以外になく、しこっているものをロジックでは納得させられないことにおいては、日米に違いが全くなかった。レジナルド・ローズ版の3号は息子、三谷版の2号は妻なのだが、相手への“憤りの感情と屈託の吐露”が受容されるなかでの気づきによって、ようやく我執を越えた評決に辿り着くのであって、ロジックによって説得され納得したわけではない。人間という実に厄介な生き物が、腕力ではなく議論によって“民主的”に評決一致に到達することの困難さの核心を両作とも外していないところが見事だと改めて思った。

ミハルコフ版『十二人の怒れる男』映画日誌:http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2008/23.htm


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