Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》 4. 4.


vol.238

'15. 4. 4.

劇団33番地[番外編]公演おさらい会『茶色の朝』
会場:蛸蔵

中央に椅子を一つ置いただけの「なにもない空間」での一人芝居を観ながら、これは、いつの時代設定での芝居なのだろうかと思いながら観た。近未来の想定をした現在というのが、どの時代だったのだろう。ごく普通にテレビ放送がされているようだから、ナチス党の時代ではなさそうだし、ケータイのケの字も出て来ないので、現代でもなさそうだ。しかし、犬でも猫でも思想でも、唯の一つの色合いしか許さない自由剥奪に人々が晒される恐怖は、いつの時代にも起こり得ることだ。とりわけ最近の日本社会のイントレランス化にあっては、他人事ならぬ怖さを伝えてきていて、時宜を得た有意義な公演だった。

 なかでも僕が感心したのは、理不尽ながらも決まったことだからと、茶色ではない犬や猫の処分に唯々諾々と従い、あまつさえ茶色の犬や猫に飼い替えたから安心だとなどと思っていた庶民が、かつて飼っていたペットの色で犯罪に問われる法改正による社会の激変に晒されてようやく初めて芯からの恐怖を感じて舞台を“暴走”し始めた場面だ。恐怖に駆られた逃走として始まった動作が「なにもない空間」の四隅に行き当たりながらぐるぐる回り続ける形になるなかで、“社会の暴走”の激しさを伝えてきているように感じて、只事ではない感を覚えた。この“只事ではないこと”を伝えるところに最も意味のある芝居だろうから、刈谷公治の疾走は実に見事だったと言える。

 そして、フランク・パブロフによる本作でも、俺(刈谷公治)を追い詰めていたのが直接的な公権力ではなく、“自警団”と称する一群であることが怖さの核心を衝いていて感心した。公権力が暴走を始めると、その公権力以上の暴走を始めるのは必ず庶民であって、いつしかそれが社会全体の暴走になるわけだ。いまの日本社会での国家主義や排外主義の先鋭化を観ていると、思い当ることが多い。

 十五年前に観た映画『コールド・マウンテン』の日誌に「なかんずく最も卑劣さを極めた存在として描かれるのが、自ら戦地に赴くことも生産労働に従事することもなく、安全な場所で指導者として横暴な権力を振るう連中だ。こういった連中を確実に生み出すのが戦争であり、むしろ、戦争というものが、政府指導者たるそういう連中によって引き起こされるもので、彼らの亜流を大量に生み出すありさまを強烈に描き出していたとも言える。」と記していたような“自警団”を構成する個々人が、元々は役割意識が強く、使命感やリーダーシップに恵まれた人物の変貌した姿だったりするところが最も恐ろしいように思う。三十年前に綴った『イージーライダー』['69]の映画日誌に「何の関係もない行きずりの農夫の手によって射殺される二人を描いたラスト・シーンは、そういった意味での真の自由の宿命を描いている。しかも、辛いのは、農夫が農夫であって警官ではないことだ。自由の抹殺に直接手を下すのは、体制ないし権力ではなくて、いつも平凡なる不自由人なのである。」と記したような部分に、多くの人がいつまで経っても無自覚であることが何とも残念だ。

 短編である本作自体には、庶民の側についてのそこまでの踏み込みはなかったが、緊密にコンパクトに仕立てあげているが故の怖さの凝縮には長けており、今回の公演は、その特質を上手く引き出したものになっていたような気がする。そして、「なにもない空間」で演じたことでの効用として、大道具や小道具の持つ具体性によって縛られない抽象化が果たされ、時代性に囚われない普遍性をより意識しやすい形になっていたように思う。経済的にも時間的にも非常にコストパフォーマンスの高い公演だった。いわゆる娯楽性にきっぱりと背を向けた硬派のこういう芝居がもっともっと見直されなければいけないことを改めて教えてくれたような気がした。


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