Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》 1.16.


vol.235

'15. 1.16.

青年座公演『をんな善哉』(高知市民劇場第312回例会)
会場:県民文化ホール・オレンジ

 女性の消費性向を煽る方策の一つとしか僕には思えない形で、アンチエイジングだとか美魔女だとかを持ち上げてメディアが中高年女性に焦燥感を植え付けているからか、近年、僕の周辺でも当たり前に“現役”なる言葉を女性たちが使うようになってきていることに、僕は余りいい感じを持っていない。だが、閉経が迫りつつあると思しき笹本諒子52歳(高畑淳子)の「でもアタシまだ女を終わりにしたくないの!」との思いのもとに訪れた出来事の数々を軸に、草臥れかけていた彼女の再生を果たす芝居を楽しく気持ちよく観ることが出来た。

 おそらくそれは、全ての登場人物に与えられていた、ちょうど老舗甘味処「笹本」の菓子職人である繁さん(名取幸政)の作る善哉のように“甘いけれども実に美味い”人物造形に、心和んだからだろう。素直に「をんなは善き哉」との思いが湧いてきた。それには、持ち味である明るくサッパリした高畑の個性が活きていた諒子のキャラクターは勿論のこと、同じく独身ながら対照的な人生の選択をしてきた親友の谷川澄江(増子倭文江)の人物造形がとりわけ効いていたように思う。嫌味な女にも哀れな女にもならない毅然と自負が漂うに留まってこれ見よがしにならない按配のよさと共にある率直をサッパリと演じていた増子倭がとても良かった。

 エピソード的には「ドルフィンBAR」のマスター(網島郷太郎)の部分は少々余計な気がしなくもなかったが、網島の嫌味のなさのお陰であまり気にならなかったから、本作のメインターゲットと思しき中高年女性へのサービス部分としては功を奏しているのかもしれない。

 酒屋の娘(小暮智美)の恋人(豊田茂)の弁だったように思うが、結局のところ、幸福感というものは、他から与えられるものではなく、感じたもの勝ちの世界のような気がする。他者からはどんなに恵まれているように映っても当人に幸福感を覚える力が備わってなければ、不満のほうが募っていることは、決して珍しいものではない。諒子の新たな生き方をもって澄江の人生を上回るような描き方をしていないところがいい。

 そして、諒子と乳頭温泉に行きたがっていた田村(手塚秀彰)への眼差しも優しい芝居だったことに感心しつつ、その人物像に僕の好きな映画『コキーユ 貝殻』の直子(風吹ジュン)のことを思いだした。十五年前の映画日誌には「それは装うとか偽るとかいうことではなく、浦山といるとそういう直子になれるのだ。それが女というものではないのかと思う」と綴ったものだが、必ずしも女性に限った話ではないのかもしれない。

 『コキーユ 貝殻』拙日誌:http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2000j/04.htm


ヤマさんのライブ備忘録」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室