Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》KOCHI2014


vol.220

【演劇祭KOCHI 2014観劇ラリー参加作品】
会場:藁工蛸蔵

'14. 5.25. 劇団プラセボ第3回公演 『五月蠅なす』
'14. 6. 1. 劇団彩鬼第9回公演 『黒い月の曲戯団〜CIRQUDE DU LUNE LE NOIR〜』
'14. 6. 8. 劇団シアターホリックthe side session 『スクラップ』
'14. 6.15. TRY-ANGLE act.24 『CONTE LIVE コンタクト』
'14. 6.22. 劇団シャカ力 『命を弄ぶ男ふたり』
'14. 6.28. 劇団どっと&劇団ゆまにて 『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』
'14. 6.29. アフターエンカイ

演劇祭KOCHI2014のスタートは、劇団プラセボの第3回公演『五月蠅なす』で、オリジナル台本の作品だった。
 結局のところ、幽霊を名乗る女(森りん)は幽霊ではなく、ノート[漫画]の精であって、『ガラスの仮面』の月影千草に似た漫画家(嶋崎ユリカ)が幽霊だったようだ。霊感が強いと自ら言う由美(和田有加)や拓郎の母(博田佐貴)、或は霊能者を標榜するゲラ・ユリ(坂井香代)に、拓郎(西本一弥)を困惑させていた女の姿が見えていなかったようなのも、それ故なのだろう。もっとも自ら言い標榜する者に限って…という皮肉もあるかもしれないのだが、そういう趣向は劇団プラセボの演目には、あまり似つかわしくない気がするから、そういう揶揄や皮肉を込めてのものではないに違いない。  そういった点からは、二年前に観た第2回公演『ホーム49症候群』と同じく幽霊ネタながら、その出来栄えには随分と開きがあるように感じられた。幽霊を登場させることが、見える者と見えない者との間に起こるギャップの生み出す笑いに専ら貢献する形でしか活かされていないような気がした。そうなってしまうと、ありがちなコントネタの既視感しか生まれなくて、よほど巧妙に演じられないと面白味が効いて来なくなる気がする。拓郎を演じた西本一弥は少々固い演技が拓郎の人柄をよく伝えていたし、漫画の精に似つかわしい拵え感の利いた森りんの表情や仕草はとても目を惹いたけれど、本作に楽しく笑うよりも少々倦んで来るようなところが僕にはあった。
 若かりし頃、漫画家なり作家を志したと思しき父親が息子を応援したい心中とは裏腹に、妻の心の底にある不安を代弁する形で、息子に対しては専ら意見する一方で、胸の内では心配のほうが強くても、口では息子の夢を応援する言葉を夫の胸中の代弁者として重ねる母親の姿、というような人物造形は、まことに劇団プラセボの芝居に相応しいものだと思った。
 そういう家族の情愛や恋人、編集者(麦生)との人間関係に主軸があるのか、漫画家としての成功を夢みる青年の失意と再生に主軸があるのか、とにかく笑いと標題が偲ばせる“騒動”を活写することに主軸があるのか、どっちつかずになって、こなれていないような気がしたのが残念だった。
 それにしても、山本リンダにしても、ガラスの仮面にしても、ユリゲラーにしても、いま五十路にある僕の同時代のものだという気がするのに、なぜ若い連中の創作劇と思しき作品でこうなるのだろうか。
なんか不思議な気がした。
 吉瀬美智子を思わせるような笑みを見せてくれる博田佐貴も、得も言われぬ可笑しみを醸し出すことに長けている嶋崎ユリカも、前二作同様、よく演じていたように思われるのに、少し残念な舞台に感じられたのは、前二作の出来栄えに加え、二年ぶりの公演ということで、僕の期待が少し高くなりすぎたせいかもしれない。

 劇団彩鬼第9回公演『黒い月の曲戯団〜CIRQUDE DU LUNE LE NOIR〜』は、“怪し、妖、の彩鬼ワールド”が今回、和よりも洋風色を濃くし、時代設定も1864年横浜と明確にしてあったことに意表を突かれたが、敢えて明治維新前に設定したことにさしたる意図はなさそうで、なんとなく偶数並びを選択したように感じられたのが可笑しかった。
 そのように感じてしまうのも、本作で表現として最も意図しているものが、悪趣味残酷趣味とも言われかねない子供殺し食人といったモチーフを巧みに偽装するかのように、敢えて主題的に標榜されていたようにも思われる「人生は君次第」といった代物では決してなく、地元で調達できるライブパフォーマンスとして、こんなにも意外性に富んだものがあるのだということを見せたい部分のほうに熱意が感じられたからだろう。そして、作り手がそれらを得て、どのように構成するかといった段で、映画『シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語』['12]を意識したのかもしれないとも思った。
 主題とか物語ということよりも場面場面を大事にして、己がワールドに引き込む感じが、映画の世界でなぞらえるとスピルバーグ的とでも言うような作風だと思う。演者を引き立てようとする作り方という点でも共通しているような気がする。だからなのだろう、観客の支持も得られるし、確たる個性を築けているのは。今回、演出が吉村領から藤岡武洋に代わっても、そこのところにはいささかの揺るぎもないように感じられた。
 要はいつものごとく、「音をおくれでないかい」で始まり、「呑みに出るよ」で終わる「ヘイ、かしこまり」の世界なのだ。彩鬼ならではの語りが構成する世界を支えるのは、やはり座長の鍋島恵那の個性的な声と調子にあると改めて思った。そして、芝居的にはどういった立ち位置にあるのかよく分からなかったけれども、「黒い月の曲戯団」の危うさを警告する男であった河合儀人が効果的ないい声を響かせていたことに感心した。
 ブラジル生まれの格闘芸術 カポエィラのパフォーマンスを僕が観たのは、十二年前の県立美術館ホールでの“カポエィラ ヘジォナウ ジャパォン公演”(http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/02/kapoela.html)なのだが、高知を拠点に活動しているチームが四年前に出来ていることは初めて知った。芝居仕立ての演目のパーツでしかないので、カポエィラそのものの興趣をいかんなく表現できていたとまでは言えないものの、武技として求められるスピード感とは対極にある“速さを抑制して見せる足技”に、見覚えのある特性を思い出させてもらい、面白かった。
 徳永洋平をはじめとするチームパウメイラの面々が披露してくれたカポエィラ以上に意表を突かれたのは、舞台下手に凛々しく屹立していたポールに絡みついてチロルが見せてくれたポールダンスだった。
天地ともに固定しているわけではないのに揺るぎを見せないポールにも感心したが、チロルのパフォーマンスが思った以上に本格的で、魅了された。普段はどこで披露しているのだろう。
 お芝居としては、アユム(兵頭輝人)とハルカ・ルネ(isel)の関係が今一つ腹に落ちて来なくて、よもや曲戯団の団長(丸山良太)と影の団長(Opty!)の囲われ者同士として、彼らに反旗を翻すための連帯から生まれた絆というものでもなかろうと思いつつ、義により立ったようにも思えなかった。だが、なかなか見事だったオープニングの登場場面で象徴性が高く印象づけられていたハルカを演じていたisel自身に魅力的な存在感があり、兵頭輝人がアユムを演じて達者だったからか、あまり気にはならなかった。やはり見世物として優れているからなのだろう。白い布からアユムを包み込むコクーンを仕立てあげる場面演出というかアイデアがなかなかいいと思った。

 劇団シアターホリックthe side session『スクラップ』は、劇団主宰の松島寛和の自作『新春ドリームジャンボ』、岸田國士の大正期の『葉桜』、アントン・チェーホフの明治期の『たばこの害について』の3作品を「バラバラにして再構築してみようと」試みた“楽天的実験演劇”とのことだったのだが、役者陣の熱演には惹かれるものもありながら、作り手が演劇で何をしようとしているのかが今一つピンと来ないような印象が残った。
 原作となった3作品のうち、僕が観ているのは9年前に夜須町マリンホールで柄本明の独り芝居で観た『煙草の害について』のみだが、何故この3作なのかが腹に入って来ず、廃品と切抜き記事という言わば対照的なダブルミーニングを持つように思える本作タイトルの“スクラップ”とも繋がって来なかった。そのために、アイデア的には面白い気がするものの、僕にとっては作品的にあまり響いて来るものではなかったように思う。
 その一方で響いてきたのが、作品自体ではなく、作り手の苦衷のようなものだったような気がする。「演劇をしたい」作り手の思いの強さや深さがひしひしと伝わってくるから余計に、その「演劇で何をしたい」のかが、実は作り手自身においても分らなくなってきているのではないかという気がしてならなかった。
 3作をモチーフに“スクラップ”にしながら、今日の公演で最もウケていたのが“アナと雪の女王”をもじった「花とネギの女王」とも言うべきネタだったりするのは、ちょっと哀しいところがあるように思った。とはいえ、演じた五人(山田紫織、中平花、阿井瑞希、今野瑞紀、松島寛和)は、変人の雰囲気を漂わせるのが巧みで妙に可笑しかった。とりわけ女優陣の三人に感心した。

 TRY-ANGLE act.24『CONTE LIVE コンタクト』は、創作コント集だ。演会の代表から今年もアフターエンカイに参加するよう依頼があった際に、今年は各作品についてのコメントではなくて「各劇団の演劇感を中心にトーク」したいとの注文を受けて、僕のフィールドとしては演劇よりも映画のほうが馴染みがあるようなので、各劇団の印象として僕が抱いているものを映画製作のほうに擬えてみようかと、今年の演目をまだ観ないうちから、TRY-ANGLEは「東映」にして代表に返していた。
 その心は「ベタを恐れず洗練には向かわない娯楽性を大事にした作品づくり」として送ってあったのだが、今回の公演を観て、あまりの嵌まりように我ながらほくそ笑んだ。「クイズ!あなただけが知らない」「漫才」「森の精」「歌い人」「漫才」「ファミレス」「寿司屋風」「結婚相談所」のいずれも可笑しかったが、“コント − アクト”として『コンタクト』と題した今回の公演を最も端的に示しているように感じたネタは、「寿司屋風」だった。
 お品書きとして映写された二十余りのネタを客席からの注文によってその場で握って見せようという酔狂な趣向の代物で、即興性があるようなないような微妙な按配が、ネタの鮮度だけで勝負しない巧妙さとして上手く設えられていたように思う。二日間三回の公演で一度も注文のなかった不遇なネタがなんだったか知りたい。なかなか立派だったのは、寿司屋なら普通にあり得る同じネタの再注文に、少々意表を突かれながらも見事に応えた「リンダ」のさばきだった。注文した客のほうも客のほうだが、見事なコンタクトだったと思う。
 気のせいだか森の精だか知らないが、三百代言ならぬ300万の代金なども含め、各演目間に微妙に関連性を持たせていたのを以て、キェシロフスキ監督の映画『デカ・ローグ』を引き合いに出すのは褒め過ぎかとも思うが、なんか工夫している感じがあって、面白かった。基本的に、もじりやダジャレネタを駆使している感じなのだが、決して洗練や高尚に向かわない東映の映画的な娯楽性が、うまく結実しているように感じた。
 「歌い人」の歌詞が少し聴き取りにくく音質の悪い録音に少々難があったが、歌詞に合わせて繰り出す前田澄子のオーバーアクションと表情の変化がなかなか達者で感心した。僕に最も響いてきたネタは、「ファミレス」でのバイト員たちが前職や個人的趣味で癖づいている発語や所作の習性を演じていた部分だ。台本的にもよく出来ていたような気がする。

 劇団シャカ力の演目は、今年の演劇祭初の既成台本で、岸田國士の『命を弄ぶ男ふたり』。公演開始前に劇団シャカ力応援団企業のなかから、ブライダル事業に取り組むサンピアセリーズと、ボディケア&ヒーリングのアレーズの生コマーシャルとしての劇団員による寸劇を、CMらしく交互に繰り返していたのが目を惹いた。
 2008ラリー公演の劇団OOK『エスプリ-美ボリューション-』で、地元の美容院エスプリによる“a sense of seasons〜季節感〜”と題するショーを用意していたことに意表を突かれたのだが、アマチュア劇団のリージョナルな活動形態の在り様として興味深い動きだと思った。今回のシャカ力による生コマーシャルは、ある意味、その定型化し得る発展形かと思ったのだが、公演後のPPTによれば、コント55号が昔やっていたものをDVDで観て想を得たらしい。台本を見せて了承を得たうえで演じているそうだが、けっこう自由にアドリブをかましているとのこと。サンピアセリーズをPRしていた阿野田由紀と吉岡裕太にしても、アレーズをPRしていた加藤春菜と津野あゆみにしても、元気溌剌で楽しそうでPRのインパクトはけっこうあったのではないかと思う。
 演目の『命を弄ぶ男ふたり』は、劇団代表の行正忠義が今回と同じく「こう見えても、僕は、考え深い性質なんだ。」と繰り返す役者を演じていた6年前の演劇祭KOCHI2008での劇団MACによる公演の再演のようにも思えるものだった。どうせなら今回は、行正が「こう見えても、僕は、センチメンタルなことが嫌いな男なんだ。」と繰り返す学者のほうを演じてみてもよかったような気がするが、この役どころが気に入っているのだろう。学者のほうを井上琢己が演じていた。
 PPTで行正が語っていたシャカ力らしさがどこにあるかと言えば、やはり身体性を強く押し出した形になってくるところになるわけで、僕は、行正がPPTで言及していた「壁の這い上がり」よりも、二人の男が互いを挑発するかのような激しさで笑いあった後に、今度は可笑しさを堪えられずに失笑するような笑い合いを見せる場面に感じた。そして、舞台装置の心的象徴性を高めた突起付の黒塗り壁面ではなく、素直に土手らしい傾斜において、行正と井上の得意とする身体表現を駆使して、真摯なるほどに滑稽味を増す二人の男の“想い人への心情”を演じてほしかったように思った。そのうえでは、こう見えてもも何も、あからさまに思慮よりは情緒に囚われている役者と、おセンチ屋そのものの学者が造形される必要があるように思うが、そういう人物造形としては、藤岡武洋が演出した劇団MAC公演のほうが明確になっていたような気がする。今回は、特に演出担当を置かずに臨んだようで、演出:劇団シャカ力と紹介されていたから、劇団員で話し合いながら作っていったのだろうが、人物造形的な面での明確さは演出担当者を置くほうが打ち出しやすいのかもしれない。

 劇団どっと&劇団ゆまにてによる『楽屋』は、二年前に演会メンバーの公演として同じ会場の蛸蔵で観ているが、当時の公演(http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/12/1109.html)には劇団どっと&劇団ゆまにての団員は参加していない。今回の公演は、女優Cを演じた大塚美奈を除いてダブルキャストが組まれており、4回の公演で顔ぶれを違えることで異なってくる演劇というものの妙味を提示するものになっていた。僕の観た初日の夜の回は、女優A・Bを劇団ゆまにての吉本ちか、亀井りえ、女優Dを田村紫乃という組合せだった。
 二年前に観た公演に比べて、幽霊の女優たちに滑稽味を色濃く施してあったような気がする。同じ劇団ゆまにてのコンビで演じたこともあってか、息の合ったコミカルさを活き活きと醸し出していたように思う。ただ、僕としては、コミカルさの打出しが目立った一方で、死してなお楽屋に張り付く女優の妄執と対抗心の激しさに窺える哀しみのようなものが少々薄らいでいるような気がした。田村紫乃は、少々風変わりな台詞回しによって、死する前から精神を病んでいた女優Dの淡々とした常軌の逸脱を巧みに感じさせていたように思う。大塚美奈は、舞台女優らしさの、ある種の典型を思わせる癇癪と苛立ちを常に抱えた人物造形を巧みに果たしており、自分の役を狙っているプロンプターの存在に怯えつつ頼りにもしているアンビバレントがうまく浮かび上がっていたような気がする。
 翌日に僕が観た公演では、女優A・B・Dがそれぞれ劇団どっとの刈谷登美子、劇団ゆまにての今井理恵、そして浜田万央に替わっていた。コミカル色にしても女優Dの逸脱感にしても抑制されていて、そのぶんトータルのバランスは、よくなっていたような気がする。

 この『楽屋』公演の後、引き続いて設けられたアフターエンカイに演会の代表からの依頼を受けて参加した。今年の演劇祭KOCHIを劇団メンバーとともに振り返る場なのだが、最後の公演に残った方に他の作品を観ている方が多いわけではないので、今年は各作品についてのコメントではなくて「各劇団の演劇感を中心にトーク」したいとの注文を受けていた。
 ちょっと考えてみて、劇団プラセボ:松竹(小津や山田作品を想起させるアットホームなユーモアとほのぼのとしたものを志向)。 劇団彩鬼:大映(眠狂四郎や座頭市などを思わせる大胆な外連味と妖しさがアーティスティック)。 劇団シアターホリック:ATG(低予算のなかでいろいろ実験的な模索を重ねている)。 TRY-ANGLE:東映(ベタを恐れず洗練には向かわない娯楽性を大事にした作品づくり)。 シャカ力:日活(アクション、ロマポの昔から肉体派の日活を思わせる芝居を展開。) 劇団どっと:東宝(ある意味、最も正統的とも言える東宝的な行儀の良さ)といったものをイメージしたのだが、この擬えは少々マニアックすぎるかとも思い、予め打診したところ面白がられたので、その線で行くことにした。その際、劇団ゆまにてについても求められたのだが、演会メンバーではないし、などと思っていたら、劇団彩鬼も演会メンバーではないのだそうだ。
 会場内に残って参加した人は、そう多くはなかったが、幾人も頷いてくれていたので、言いたいことのイメージは伝わっていたように思う。演会の妙味は、この多様な個性の際立ちと敷居の低い交流性にあるような気がする。フレキシブルな客演やスタッフ協力が見られ、ときに合同公演も実施するまとまりのよさが好もしく、演会以前から長らく劇団活動に携わってきている劇団ゆまにて代表の吉本千賀子氏も、若い刺激を大いに受けたと話していた。


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