Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》9. 7.


vol.225

'14.9. 7.

ポかリン記憶舎 リーディング公演『アイスクリン』
会場:藁工蛸蔵

 お芝居にリーディング公演というカジュアルなものがあることを知ったのは、去年の秋にシアターホリックのリーディング公演『零れ落ちる女たち』を観たときだったが、シアタートークでの作・演出の明神慈の話によれば、最近、東京で流行っているらしい。シアターホリックの松島が機敏にその潮流を取り込んでいたのかと妙に感心した。明神が話していたように、戯曲紹介や役者の世界を広げるうえでの効用は確かに侮れない気がした。
 本作は、11年前に東京で上演した作品とのことだが、シアターホリックのリーディング公演を観たときに「ひとつ思ったのは、場面転換も入退出もない朗読公演にするなら、落語と違って複数のリーダーに配役をしているのだから、場面状況を示すト書きのナレーターをきちんと配置する形にして本来の台詞のみを読むようにしたほうがいいのではないかということだった。」と記した部分について、まさにト書きリーダー(古谷隆太)を配してくれていたのがよかった。
 リーディング公演という以上、役者は台本しか持っていないのだが、その台本を積極的に小道具として使っていて、敢えて台本を持たせない場面を設け、ト書きリーダーが台本を持って前に出してきたりして、舞台に変化や動きをつけて観客が倦んでこないよう工夫が凝らされていたように思う。とりわけビンタする場面を本で表現していたのは、鮮やかだった。
 母娘関係の難しさという主題的なものは、あのような母親イメージと葛藤について、女ともだちの幾人もから聞き覚えがあるので、かなり普遍性の高いものなのだろう。それはともかく、長浜や御畳瀬、題名のアイスクリンなどローカル性を強く打ち出しながら、なにゆえ土地の言葉にしていないのだろう。娘の成美(中島美紀)はまだしも、母親の千寿子(桜井昭子)に、土佐女のイメージが非常に希薄だった点も気になった。敢えてそのように造形している気がしてならないのだが、明神作品は初見のせいか特に思い当たることが湧いて来なかった。
 そして、もし仮に土地の言葉で台本の台詞を書くとした場合に、なお千寿子にだけは土地の言葉を与えない造形を選ぶかどうかが大いに興味深いところだ。僕としては、彼女一人が土地の言葉を使わない姿のほうが人物造形が鮮明になり、作品的にも母娘の確執や理屈じゃない感覚的齟齬の際立ちが増してくるような気がする。僕の住む高知で実際に見受けられるように、東京弁もどきを使いたがる母親と、友達との間で使う方言のほうで話したがる子供という関係は、地方都市では少なからずあることではなかろうか。
 アイスクリン売りの成美のところに潤(清里達也)が一人ずぶ濡れで現れたときには水難事故でも起こったのかと思ったが、アイスクリンの注文などをしていたので、暑いからと手を繋ぐのを厭うようになっていた彼が由夏(吉良佳晃)に酷い別れ話を持ち出して海に突き落とされたのではないかという気がしたのだが、ちょうど公演後のトークの際に客席からその質問が出たので、回答を楽しみにしたら、巧妙にはぐらかしていた。作・演出を担った者としては、観客に言葉で説明したくはない部分だろうなと思った。


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