Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》9. 6.


vol.224

'14.9. 6.

シアターTACOGURA 本公演『バーサよりよろしく』
会場:藁工蛸蔵(http://warakoh.com/?p=4021)

 依頼されていたシアタートークの打ち合わせに行った前夜に観たゲネプロから、数段よくなっていて感心した。ちょっと間を取りすぎて重苦しく感じられた運びが、ぐんと滑らかになっていた。5分くらい短くしていたのではないかと思うが、4〜50分の芝居で5分と言えば相当の量だ。
 病気と酒と睡眠薬で衰弱し、二週間余りも商売にならない娼婦のバーサ(竹内理香)に対して部屋の明け渡しを求めるゴールディー(奄莉*anly*)との間で言葉の応酬が始まる前に、一切の台詞なしで展開されていたオープニングの数分間が目を惹いた。ナット・キング・コールの歌う「アンフォゲッタブル」とともに、かつての恋人チャーリー(清里達也)と踊る場面や、彼から別れの手紙を渡され、別の若い娘と二人が出ていく場面、ゴールディーが男(丸山良太)から促されてバーサを追い出さざるを得なくなっていることを窺わせる場面を設けてあったのだ。
 これらは、テネシー・ウィリアムズの戯曲に元々あるものではなく、今回の公演において演出として加えられたものだったようで、バーサの負っている状況を説明したものだ。支持の分かれるところだろうが、僕は、その見せ方の気の利いた簡潔さと作り手の解釈の提示をもって是としたいように思った。
 衰弱しきったバーサの夢に現れた“忘れられないチャーリー”が踊りながら彼女の背に回していた手がとても大きくて、バーサの感じていたであろう包容力を鮮やかに印象づけていた。役者の身体的特徴を上手く生かした巧みな見せ方だと感心した。
 5ドルと言ったり25ドルと言ったり10ドルと言ったりする支離滅裂なバーサについて、アフタートークの際に、精神を病んでいる女性という解釈で臨んだのか、あるいは病気と酒と薬によって衰弱し、憔悴しきったなかで開いた心の傷に苛まれているのであって精神を病むには至ってないとの解釈で臨んだのか演出の藤岡武洋に訊ねたところ、精神を病んだ女性と解して臨んだのではないが、衰弱したなかでの部屋の明け渡しを迫られることで精神に変調をきたし始めるくらい追い詰められ、排除される不安と恐怖に怯えた弱者として描こうとしたとのことだった。
 そこに、弱者への冷たさ厳しさを増してきている現代社会における弱者の姿を重ねようとする意図もあったとのことだったが、僕自身は、芝居そのものから、その精神の変調や現代社会の酷薄化という問題意識までを触発されるには至らなかった。
 あくまで「病気と酒と薬によって衰弱し、憔悴しきったなかで開いた心の傷に苛まれているのであって精神を病むには至ってない」との解釈に立っているのだろうという気がしていた。くだんの5ドル、25ドル、10ドルも精神を病んだ支離滅裂ではなく、開いた心の傷の大きさによる錯乱というように感じていた。それは、やはりオープニングの数分間が明確に色づけしたものの及ぼした影響だろう。「アンフォゲッタブル」で強調されていたし、敢えて精神を病んだ者として描くことを避けようとして臨み、夢見させているのだから、ゴールディに追い詰められて精神に変調をきたすなど思いも及ばなかったわけだ。
 だが、演出者の話を聞いて思ったのは、“排除される不安と恐怖におびえる弱者”に焦点を当てるならば、その酷薄さによる精神の変調というのは必然であり、まさしく追いつめられることでの変調でなければならないということだった。しかしそれなら、チャーリーから受けた心の傷のほうをあまりに強調し印象付けることは、演出意図の伝達をむしろ遠ざけ、阻害するような気がする。
 しかし、僕は、いささかメロドラマ的なわかりやすさに流れることになった「アンフォゲッタブル」のほうがむしろ大仰になくて気に入っている。演出者によれば、戯曲そのものは、バーサを精神的に病んだ者として描いている印象が強いそうだ。さればなおのこと、僕は、精神の病とは異なる形でバーサを造形する解釈を買いたいと思う。台本どおりの台詞で一切の変更もなく、人物造形を解釈と演出によって変えることができるのが演劇というものの妙味の一つだと思っているからかもしれない。


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