Arts Calendar/Art's Report site/《WADA Map》"Visual trYst" 2005

vol.137


"Visual trYst" 2005



■"Visual trYst" 2005Scene #.0 〜#.3

□鶴谷智生(Drs,produce)
 (出演メンバーは文末)


レポートは
Scene #.1:7月11日(月)@江古田・Buddy
Scene #.2:7月12日(火)@高円寺・JIROKICHI


こういうスタイルのライブをどう表するか、名前が思いつかない。誰かに説明しようとすれば、要領を得ない言葉の塊になってしまいそうだ。ビジュアルジョッキーの作り出した映像に、同じステージに乗ったミュージシャンが音を、曲を付けていくというもので、今までにあったようななかったような。でも名前がついていないこのスタイルは、それがまだ定義されていないということ。ただひとつ、私が次にこういうライブを見聞きしたら、「visual trYst」の真似だと思ってしまうのは確実だ。矛盾してしまうが、鶴谷さんがメンバー(tryst)を集めて再演するのでない限り、偽物というわけで音楽用語辞典に創始者を書いといてもらわないと、などと思う。

映像を見ながら、曲を演奏する。「普通じゃん?」と思ってしまうわけだが、目の当たりにしてみると、なかなかすごい体験。映像がメロディを奏で、ドラムをはじめ、パーカッション、ベース・・・と楽器たちがそれに肉付けしていく。平面であるはずの映像が立体になり、音楽が瞬間よりも濃密な時間を持つ。流星が飛び交うごとく、シナプスが頭の中を暴走していく感覚は新鮮で、自分の頭がこれほど活性化するなんて思いもよらなかった。目と耳が脳へ直通の太いパイプになったようだ。

昨年の「Live trYst」では、まず楽曲あり。ポピュラーな楽曲に映像とダンスと演奏が立体の次元を広げていたのだが、今回の「visual trYst」では、アイデアがあり、そこに映像、そしてライブで音楽。アイデアという世界の中で、映像という原子があり、ミュージシャンたちは電子。原子核の陽子と中性子がミュージシャンでありプロデューサーであるドラムス鶴谷さんの役どころ。このライブの創造主である。で、いろんな原子があり、粒子たちがぶつかり合って、また新しいものが生まれてくるのだ。

「きょうはフリーですから(鶴谷さん)」フリーと言っても、ミュージシャン同士、何らかの約束事はあるのだろう。だがそれは、ステージにいる人間だけにわかる翻訳不可能な言語で、jirokichiのようにステージにお客が溢れてというか、客席にミュージシャンが溢れているような混沌とした場所であっても見えない結界の外にいる身には、もどかしく悔しい言語である。

デジタルな万華鏡といった趣の映像がいつしか見知らぬ海辺の風景に移る。ドキュメンタリーを繋いだような、アジアのどこか?むせかえるほどに緑の溢れたところ、田園、遺跡。そしてインドネシアのケチャの真中にカメラがいる。神さびた大きな反響が空から降りてくる。平常に呼吸することを許さない激しいドラムの音。さまざまな楽器の音が洪水のように溢れる。やがて映像は同じ場面を辿りながら来た道を引き返していく。映された映像は、波が作った岩のトンネル、自然の地形に合わせた棚田、遺跡、そしてケチャダンスと、私たちが自然の力とか神の存在というものをふと感じてしまいそうな風景だ。この映像にミュージシャンが重ねる音はケチャのリズムとは無縁だし、プリミティブなイメージはない。でも何だか、ライブの成功を約束する存在がここに来たのが見えたような気がした。

そして、ギターの今堀さんをフィーチュアしての「スライド」。弓で弦を弾くように緩やかに流れる音。エフェクター駆使、のようだったが、いわゆるエレキギターの音よりもアコースティックに感じる。合わせられる映像は、連想ゲームのよう。菊炭のような切り株→錆びて朽ちかけた時計→ひまわり。蜘蛛の巣→金網フェンス→レースで編まれたような鉄塔。はがれかけたペンキ→荒々しい木肌。似た見た目・イメージの連想。取り合わせ・意図と、とても上質なお茶事に招かれたような深い仕掛けに遊ぶのがおもしろい。目から入ってくる映像を受け止めるクッションが音楽で、どれだけそのクッションに身を預けられるかによって映像の奥行きをまた違って受け止められるのだろう。

2ndでは、エアーズロック、アボリジニとおぼしき民族の映像が重ねられる。ボディペイントの様子、祭祀に向かう人々の表情。そこにまた別の、ビーズで身を飾った民族の同じような場面も。祭の太鼓のような彼らの大地の音に近い扇動するドラム。ピアノやギターにしてもメロディよりただ音を重ね、大きなうねりを作り出す。例えば、腕の動き、足の動きをひとつの楽器が表しているようで、全体の音が重なると祭(戦い?)に向かう人の高揚する精神が聞こえるようだ。二つの民族がそれぞれの祭で呼応しているような構成。それが最高潮に達しトランスに陥るほどになると、映像は自分を見失ってしまうような都会の風景にと移る。繋がるほどに車が流れて行く高速道路や、無秩序のようで筋だった流れのあるスクランブル交差点。私たちが日常で眩暈を起こしてしまいそうな。ちょっと鼓舞して立ち向かわないとなえてしまう風景。。。そして早いスピードで別のモチーフが繋がれる。三角形繋がりの、モニュメント・遺跡・磐。たくさんの民族の目。さまざまな国の家族。それが次々に現れ、繰り返される。気持ち悪くなりそうな都会の風景のあと、これらは大きな安心感を与えてくれる。みんな同じ。言葉の通じない同士でも安心するもの・好きなものは同じなんだという心地よさ。目だけがアップで次々に出てきたら恐いだけだが、心地よさを思わせるのは音がその気分をサポートしてくれているからだろう。そう、ミュージシャンの言語はわからなくても、それを音楽にして聴かせてくれたら、翻訳不可能なものはない。人の気持ちを繋ぐのは音楽だ。

JIROKICHIでのライブでは、この映像に合わせたのは、前日とはまったく変わってプログレなドラムでそれによって他の楽器も気分が変わる。映像の構成も少し違っていたようだが、前日より一歩ひいてカメラの目で見ているような冷静さを自分で感じた。

昔の無声映画に音楽をつける、というものもあった。選ばれた映画がモンティ・バンクスの「Chasing Choo Choos」見たいと思っていた映画にここで出会えるとは思わなかった。チャップリンに似た風貌のモンティ・バンクスが賊に追いかけられ美女を追い、谷間を走る汽車の窓で、その上でスタントなしのアクション、というコメディ映画。のんびりしたリズムのBGM風の音楽から始まり、効果音・心象の音が入り乱れる。映画自体で笑い、演奏のサプライズで笑い。パーカッションの仙波さんは演奏しつつもお客と同じ視点で大笑いしていたようで、それもまた楽しく。

締めくくりにはイームズの「Powers of Ten」が使われた。ライブ全体の印象として、原子や中性子、なんてことを思ってしまったのは、この映像に影響されたのだろう。ピクニックをしているカップルを鳥瞰で見て、さらに銀河の果ての果てまで飛んでゆく。カップルから離れれば離れるほどに映像のスピードも速くなり、それにつれて音楽のリズムも果てしなく早くなる。映像の迫力と相俟って、一瞬、重力から解放されて体が浮き上がるようなスピード感と浮遊感。そして、人体の中に潜り込んでいく映像には足枷がついているかのような重さを感じる。音のちからでそれほどの感覚を体験できるのだなぁと思いつつ、疲労感まで、ある。

JIROKICHIではアンコールで「ニューシネマパラダイス」のラストシーンのような古い映画のキスシーンだけをコラージュした映像。音楽は聴いただけで条件反射で涙が出てくるようなBGMじゃなくて、キスシーンを冷やかす子供の口笛や照れくささをそのまま曲にしてしまったような。この映像が「ニューシネマパラダイス」と同じではないよなぁとレンタルで確認したほうがいいかと思ったのだが、今、この映画を見てもラストシーンではきっと大笑いしてしまいそうな気がして未確認。


■出演
■Scene #.1:7月11日(月)@江古田・Buddy
鶴谷智生(Drs,Perc)
住友紀人(Sax,EWI,Pf,Key,etc.)
小川達朗(VJ)
仙波清彦(Perc)
納浩一(B)
今堀恒雄(Gt)
新澤健一郎(Pf,Key)
松本圭司(Pf,Key)


■Scene #.2:7月12日(火)@高円寺・JIROKICHI
鶴谷智生(Drs,Perc)
住友紀人(Sax,EWI,Pf,Key,etc.)
小川達朗(VJ)
仙波清彦(Perc)
ヤヒロトモヒロ(Perc)
納浩一(B)
今堀恒雄(Gt)
新澤健一郎(Pf,Key)
松本圭司(Pf,Key)

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