Arts Calendar/Art's Report site/《WADA Map》竹の造形-ロイド・コッツェンコレクション-展

vol.122


■竹の造形-ロイド・コッツェンコレクション-展■





■2004年5月25日〜30日■日本橋三越本店■

いつだったか雑誌で見た、とてもモダンな竹の花器。おおらかで緻密で、迫力のある作品だった。竹の花器というと茶室で見るような竹筒をスパッと切った作為のないものか、ちまちまとした「小細工」の民芸風っていうんだか、お土産っていうんだか、というものしか知らなかった。雑誌でみたそれは今から100年ほど前に作られたもの。竹は、私がまったく知らないだけで、どんな素材よりも現代的な芸術作品を生み出していたのだ。芸術というか工芸というか、その境目はわからないのだけど、花を実際に生ければ工芸、そのものを楽しむなら芸術、なんだろうか。そのロイド・コッツェン・コレクション。東京ではわずか5日間の展示期間。この後はアメリカに帰ってしまう(?)というコレクション。

竹ってすごい。としか言いようがない。たくさんの編み方があり、それを組み合わせ、アレンジして無限にモチーフが連続していく。どんなに複雑な立体も編んで組んで作り上げてしまう。「工芸」とか「職人技」という作業を目のあたりにすると「大変な作業ですね〜」という言葉を言ってしまうことがある。展示されている花器やオブジェには、そんな言葉を言わせないちからがある。だから、これらは芸術作品なのだと思う。製作過程の手間ひまや工夫に値がつくのではなく、存在そのものに(つけるとすれば)値が付くもの。

まだ私にはこの作品は誰の作とか、系統を見分けられる目はなく、ただただ竹の無限性に圧倒される。編むということは、初めと終わりがわからない形なのだ。どこから見てもそれがわからずに、ぐるぐると時間と視線が繰り返される。平成に作られた作品も黒光りさせていたり、明治の作品が若々しい色をしていたり、ましてデザインで製作年代を量ることは不可能。「どうやって作るのか?」と視線で楽しむつもりが、その場から離れられなくなる。素朴な素材を手でまとめる、竹以外の素材は使われない、この竹の塊は自ら語ることはない。その辺に生えている竹と同じように空洞で風にそよぐだけ。なのにこの美しさはなんだろう。竹に宇宙を感じるのは日本人だけだというけど、「無限」という言葉が押し寄せてくる。

こんなにすごい「分野」があったんだ。50年以上前に、それに気付きコレクションを始めた人はアメリカ人だった。それがなんか悔しい。このコレクションはアメリカから借りたものなんだということが。救いと言えば、若い作家がたくさんいて作品を発表しつづけていること、ちょっと癪だけど欧米での評価の高さに日本が気付き始めたこと。

作者不明、製作年不明の、本当に家庭で使われていたカゴも展示されている。摘んだ野草を入れて、その辺に置いといたような。なんて斬新な!と思うとそういう民具だったりする。床柱に掛けるのだろう小型の花器は、朽ちた花を人の形に錯覚するような、そんな面白い形を編み上げている。ボコボコの根の部分をそのままボコボコに編んだアンモナイトみたいな豪快な「置物」。「陽炎」という名の作品は、何と言えばいいのだろう、竹ひごを並べたものを噛み合わせ、ひねって、それで端正な円形に編まれているが、見る角度によってバーバリーのチェックのような模様が浮かび上がったり、矢絣になったり。まさに炎が揺らめくような花籃。

板のように幅広の竹のなめらかさをそのままに曲げただけのもの。糸のように細い竹がつくり出す永遠のモアレ模様。大雑把に、茶色だけの世界なんだけど、ひとつひとつの作品の前に立ち、見飽きることがない。「花器」「花籃」というものに、どんな花をと思うと想像が尽きないのだけど、結局似合うのは野の花のような気がする。でも、それよりも何も入れずに編み目のラビリンスを楽しむほうがよさそうだ。光の加減、角度、そばにある色の作用で、一時もとどまらないものだ。


2004年5月26日

WADA Map」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室