Arts Calendar/Art's Report site/《Report from TABISAKI》09/01/21


岩村原太の「万国文化中心報告」vol.258

2009年●今年は丑年

 新年はすっかり落ち着き、気がつけば2009年も、もう12分の1が過ぎ去ろうと
しています。今年の仕事始めは1月14日、大阪阿倍野のロクソドンタ「ダンスの時間
(第21回)」、音楽の演奏と即興ダンスの夕べ、シカゴ在住加藤文子さんとセレノグ
ラフィカ隅地茉歩さん、それぞれのセッション約30分×2の上演。

 既に何度かこの企画と会場はご紹介しています。今回は特別な機会とのことで普段と
は客席配置を変え、全体をナナメに利用した二方客席を設定しました。距離感を演出す
るのに良く利用される客席配置ですが、この上演では逆に客席との距離を詰め、音楽と
ダンスそれぞれの温感を味わってもらうことを意図したものです。

 人間の自然な視野角を120度とすると、舞台と客席が離れている場合には、そこそ
この客席数でも客席観に全体が収まり出演者と観客の交流が計りやすくなるものです。
が、小劇場では舞台の奥行きが不足し、全客席を相手にすることがどうしても叶わない
ケースが多くあります。逆にしても同じで、小劇場では、観客として舞台全体を眺める
のがなかなか困難なことだったりします。まずその点を解決します。

 ダンスと演奏は、それぞれが身体行為ですので互いに干渉もするし、ある種の動きに
注目すればどちらも同じだったりして、統御された振付作品であればともかく、多少な
りとも即興要素が尊重される上演では、その音楽家と舞踊家の両者が同時に等価に作品
時間を刻むことになるようです。今回の2グループもそうなりました。音楽を聴きに来
てもダンスを観に来ても、どちらの方も「?」だったかも知れません。

 ここで創られた作品時間は「ミュージダンス」とでも呼ぶべき成果でしたと思います。
音楽が踊っているような、ダンスが聞こえてくるような、そんな不思議な視聴覚体験を
しました。何より音楽が舞踊に奉仕していないのが良い。あるいは、舞踊が音楽に追従
していないのが良い。古い美学では音楽と舞踊は兄弟(あるいは姉妹)関係の芸能・芸
術領域で、その発生を厳密に分けて考えることは出来ない、とされていますが、今回の
上演を見ていると、ダンスは音楽とはまったく別のものです。

 音楽が有っても無くても、自立的にダンスは表現され得るもので、音楽が有ることで
ダンスの純粋性はいずれにしてもその輪郭を失うのだと思いました。ただし、音と音楽
は別のもので、音楽でなくても、音は、やはり自立的に表現として成立しうるものでし
ょうから、音が音楽に飲み込まれていく・その溶解していく精神を見る瞬間のぞくぞく
するような被虐的な官能性は、音楽と共に有るダンスに実に美味く親和する。そのとき、
音を見るような動きを聞くような原理的なスリル感は、本当に凄惨。

 あの場内に漂っていた緊張の由来は恐らくこの凄惨な作品時間の肌触りに依る絶望そ
のものでしょう。しかし何と甘美な絶望か。私たちはこの時間を共有できない、その安
心に裏打ちされた、理解できないことへの絶望。あるいはそれは、理解せずとも許され
ること、その期待なのか。全く舞台から取り残された、それぞれの観客各個人の存在の
透明さばかりが終演後の場内に漂うように思われました。

(2009/1/21)


岩村原太の「万国文化中心報告」の扉へ

無断転載禁止 掲載:アーク編集室