Arts Calendar/Art's Report site/《MIKI*music scape》01/09/21

「音楽のある風景」

3部作<その3>「音楽の力」

9月21日(金)

 最近、音楽教育の専門家やら研究者を見ていて思うのだけれど、いったい「聴く教育」というのはどういうふうになっているんだろう。

 アメリカの同時多発テロ以来、アメリカでは「アメージング・グレース」や「ゴッド・ブレス・アメリカ」というのが人々の間で歌われる機会が多いということだ。ブッシュ大統領の演説は、やっぱりこれがアメリカ合衆国大統領なんだなー、と思わせるものであったし「私達は、あなた方を独りにはしません」という遺族への言葉は、直接的なテロ被害者だけにではなく、アメリカ国民すべての心に染み入るものであったにちがいない。アメリカ中のあらゆる人が、今回のテロ事件である種の虚無感を味わったのではないだろうか。そのいわば心の空白にこの2つの歌が寄り添っているのだろう。しかし、何日か前の日経新聞(9月19日夕刊)にもあったが、この歌(特に後者)によって恐怖感を覚えている人もいるらしい。「この歌に歌われているGodは私達のGodではない」という。

 「狭い心だ、ここでのGodは創造主なる神であって、それは宗教に関係ない」と言い放つことは簡単だ。しかし、やっぱりそう言ってしまうのは苦しい。今回のテロのように、原因はどうあれ、とりあえず宗教の問題が前面に押し出されている場合は、なおさらだ。どう考えても「アメージング・グレース」は現代では賛美歌だし、「ゴッド・ブレス・アメリカ」もやっぱりその言葉の背景がキリスト教であることは疑いようが無い。「国民が一致できる歌を持っている国というのはうらやましいですね」という日本のテレビ・キャスターには、もうお手上げだ。いったい、いつから日本人は咀嚼する歯を失ってしまったのだろう。

音楽はいつでも薬となると同時に凶器にもなる。人を結びつけると同時に、結び付かない人を排除する。それは、具体的な行動の複線として働き、時に絶大な効果を発揮する。
19世紀のドイツでは、音楽祭での重要なレパートリーが「合唱付きのオーケストラ曲」であり、最後を締めくくるのはたいてい会衆一同の合唱だった。そこで「共同体の一致」を体感するのだ。「サウンド・オヴ・ミュージック」で、トラップ大佐がギターで伴奏しながら「エーデルワイス」を歌いだし、それが会衆の大合唱となる、という映像を少し思い出してみれば、察しがつく。これが「アメリカ民主主義のプロパガンダ映画だ」という評価はもう定着したものだろう。

生臭い話はこれくらいにして、要するに私が思うに、最近の芸術教育とか芸術文化行政というのは、「発信」することに熱心だけど、発信されたものを「理解し、判断する」ということに関しては、あいかわらずスコンと抜け落ちているような印象を受けるのだ。だから、発信しっぱなし、受け止め手が無く、結局何を伝えたかったのかうやむやになっていく。そういうことの繰り返しをしているのではないだろうか。

 確かに、アクティブに「音楽をする」ことは楽しいし、達成感もある。しかし、「芸術」という新しい表現手段を身に付けても、それを理解することを知らなかったら、あまり意味は無い。
私が中学生だったころ、学校には音楽の「カリスマ先生」がいて、今から思うと彼は弱点の多い人だったが、みんなに恐れられ(こわかったから)尊敬されていた。彼は「子供たちに音楽に触れる機会を増やしたい」として、オーケストラ部を創設し、授業でも部活動でも曲を聞かせ、話をしてくれた。また、子供たちの負担を軽くするために、弦楽器の弓の毛替えも自分で勉強してやってくれていた。私たち子供は、そういう先生の姿が「音楽への無垢な信頼感」によるものだという事を、理解していたように思う。そして、それを手がかりに、音楽を理解してきた。

そういうのがもう「時代がちがう」というので期待できないのだとしたら、やはり家庭がその役割を担わなくてはいけないのだろうか。そして、音楽が心の糧やクスリとなると同時に凶器になることもまた、教えなくてはいけないのだろうか。芸術に対して、あまりに無防備なのに、恐怖すら感じる。


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