Arts Calendar/Art's Report site/《MIKI*music scape》01/09/19

「音楽のある風景」

3部作<その1>「武生国際音楽祭」

9月19日(水)


「武生国際音楽祭」(福井県)の取材に行く。毎年、6月開かれる音楽祭だ。今年から、細川俊夫を軸に現代作曲のための「作曲ワークショップ」が行われたりして、これから少し面白くなりそうな音楽祭である。今回は、6月にその音楽祭全体を見せていただいたので、事後取材というか、「国際音楽祭」が開かれる街の日常を取材に行った、という感じ。これが、けっこう楽しいのである。事務局の人とも仲良くなれるし、何より「音楽祭が開かれる必然」というのが一番良く見えてくるのが、この「日常」なのだ。

今のご時世、規模の大小に関わらずどこの音楽祭でもそうなのだろうが、財政的にゆったりしているところは無い(あるなら、教えて)。武生は音楽祭の規模もこじんまりしているし、財政的に「市政を圧迫する」などというには程遠い公的な助成だし(毎年県と市からあわせて400万)、よもや「無駄」というふうな意見は無いだろうと思っていたのに、やっぱりダムと同じに思われていた。

「ダムとは違うでしょー、利権なんかぜんぜん絡んでないし、族議員もいないし。」と、「武生音楽祭不要ダム説」を唱える人物(でも、彼は音楽祭の功労者の一人)に言うと、「いや、同じだよ。毎年さ、4000万からのカネをよそ者(もっとカゲキな表現だったけど)にもって行かれて、そのベネフィットが武生には何も無いんだから。」「いえ、芸術は目に見えない、でも確実な恩恵を与えるものだし、それには時間が必要です。」と一般的なことを言うと、「それがうさんくさいんだ!」と言われてしまった。確かに、そうだ。私も書いててうさんくさそうに思う。でも、目先の経済効果を芸術に期待したりするのは、その考え方自体甘いのだ。つまり化粧品にお金がかかるのと同じで、音楽祭を直接「街づくり」などに結びつける人は、都市に「文化の街・芸術の街(=知性あふれるな住民・高級な住民)」という化粧をするための化粧品を買って、化粧をしているのと同じなのだ、ということを自覚してもらいたい。で、その化粧で表現しようとしていることの方向性が、どういう化粧品を選ぶのか、ということ、つまり「音楽祭」を選ぶのか「美術館をつくる」のかとか、またその内容をどうするか、ということになっていくのだと思う。だから、音楽祭は武生にある表現を与えているのだ。それが、武生の住民へのベネフィットであるし、それが不要ならばやめればいい。肌に合わなければ変えたらいいし、表現をもっと変えたいと思うなら、内容をかんがえたらいい。

でも、そこに外からのまなざしが入っている。自分が他者に見せたいイメージをつくるため、自分のために化粧しているはずなのに、いつのまにか、人が自分に抱くイメージを再現するために、人のために化粧するようになってくる。音楽祭も、音楽祭が開催される街や住人のためではなく、いつのまにか他から観たときに「うらやましがられるような音楽祭」を目指し始めると、おかしくなってくる。それこそ、「よそ者」による「よそ者」のための・・・ということになってくる。外からのまなざしは絶対必要だし、要は外と内からのまなざしのバランスが大切なのだけれど、外からの視線がすべての出発点になった時、どうやらそのバランスが崩れていくようだ。で、「ベネフィットが」とか「社会に還元されないと」というふうな、わかったような、わからないような議論がさも正当論のように通っていくのだ。つきつめれば社会は一人ひとりの人であるし、その音楽祭を自分の表現として必要とする人がいることが、音楽祭に力を与え、それが結果的には音楽祭の必然性になる。そして、外のからのまなざしは、内側の人たちの満ちたりた表情を見て、その音楽祭を評価し、開催している街を評価する。そうして、やっと「街づくりの手段」としての音楽祭が成功したことになる。そこまでの道のりは確かに遠いし、音楽祭がうまくいっても目に見える形のベネフィットはなかなか期待できない、というところが本当のところなのだ。


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