こぐれ日録 KOGURE Diary 2010.5/31〜6/6


こぐれ日録695 2010年 5/31〜6/6

5/31(月)

祭りの後の心地よいつかれ。ただ、あさなど、無意味に歌が飛び出して困る。パギやんの歌の影響か、イムジン河とか、関係は直接ないのに、インタナショナルとか。

2回生へというメールを流す(昨日はごくろうさま、と書くのを忘れた)。以下、文章
・・・
ちゃんとおきていますか。
明日のゼミですが、アンケート分析をするチームは希望者がいなければ昨日のかえっこバザールに参加できなかった人たちにやってもらおうと思っていますので、ぜひゼミに来てリカバリーしてね。で、明日は、経済の外部性(外部経済と外部不経済、市場経済)、文化政策の公共性など、なかなか難しくて理解ができない用語やテキストをもちよって自分たちで考えるゼミにしたいと思います。難しいテキストやノートを持ってきてください。また、これを教えてということがあったらメールしてください。
・・・

3回生ゼミは、発表が一つ。スポーツ文化の経済性とは何か?経済の外部性ということを補足的に説明しておく。もう一人はお休みだったので、マジック研究の学生の指導の元、トランプ遊びにおける文化差違について、ポーカーや大富豪をしながら調べる。

4回生ゼミも一人だったが、6/20のアンケートの相談とか、限界芸術のお話についての輪読。
発表のゼミ生は民謡論なので、小泉文夫さんを紹介する。

夜は組合の集会。


6/1(火)

1ヶ月遅れの五月晴れが続いている。

先週、パラパラ、中島みゆきのCD聴いたり、研ナオコと比較したりしていたが、書きそびれた。
それにしても、中島みゆきの7枚目のアルバム『生きていてもいいですか』(1980.4.5)の悲痛さにはその尋常でない震えをいまさらながらに感じる。極度の哲学性を持つエレーンについてはこちらの方参照。→"http://prophy.exblog.jp/4099905/"

逆に「キツネ狩りの歌」は、その悟りに近い明るさで異様にいまこころにリフレインしている。
この方参照→"http://miyukinakajima.seesaa.net/article/24682353.html"
建築探偵たぬきさんも好きだということ。

西原理恵子『ぼくんち(全)』(小学館、2003)。鞄に入れて、少しの隙間で読んでいた。ちゃんと通して読んだのは初めて。ここにも格段の才能がある。

大学へ。
2回生のゼミ。かえっこバザールにこなかった男子学生3名にアンケート集計を行わせる。
6/20のチラシの間違い探し。
経済とは?市場経済とは、経済の外部性、芸術文化の外部性、文化権について。
ただ、文化政策原論のような授業を取っていない学生は無関係という感じになってしまったのが残念。
必修だったときはよかったが、アーツマネジメントの基本の一つである文化政策、とりわけ公共経済学をまったく理解していないまま卒業させるのが忍びないとも思う。

で、終わってから、メールする。
《 中谷先生の授業を取っていない人も是非、アーツの外部性(公共性)、そして、文化権は押さえていてね。そうしないと、なんで、かえっこバザールをなぜ文化施設でするのか?すらわからないから・・・ゲームという市場で子供が遊べばいいのでね、この二つがいらないとすれば・・・
で、文化権は、後藤さんのこのサイトをよく読むと完璧です。
 http://cpnet.at.infoseek.co.jp/topics/goto.html》

そのあと、5/30の学生のコメントを抄録して、共実MLに送る。
http://docs.google.com/View?id=dd2cpzz4_303hbr2prgb

都市とアーツは、河童論、妖怪論、超自然的存在論のあと、すこし、河童のクゥメイキング映像。


6/2(水)

夜は、OSAKA RUIDOの小暮はなのライブ。久しぶり。藤田一君がCDやDVDを作って販売していて、ポルトガルに戻る前にいろいろお世話になってありがたい(ひがしのひとしさんは、そっとはなを見守ってくれていた)。

2番目。ばんばんさんは東京に転勤になって来れないとかあれこれ。セレノのお二人は1年ぶりに来たと。セレノグラフィカさんのダンスライブは東京、そして、8月に関西ということ。

この前従兄弟が結婚式をして、そのご両親が来てくれた。ぼくの伯父叔母。叔母さんがポルトガルのファドファンで旅行もしていたし、それで楽しみということだったが、それなりに歓んでいただけたようでよかった。帰り、DVDを渡す。このDVDは、ポルトでのライブで4曲いり。はじめの「さくら」が珍しいものとなっているし、確かに「リタ」以外はギター音が少し聞き取りにくいが、雰囲気はよく出ていたように思う。

おっと、ライブは少しずつ安定してきて、しゃべりもはなとしては成長している(笑)かな?ねこの歌はけっこう作ってきたがはじめていぬの歌を→「キミがとても好き」、わんわんわんわんわん・・・あたりを3曲目にして、はじめの4曲は新作(少なくともぼくははじめて聴いた)。

1曲目の「沈みゆく太陽」は、鳩山さんへの挽歌のように私は聞いた。「ハトぽっぽ」も一緒に歌ってあげたらよかったのになあ。
「アンドリーニャ」は現代音楽みたいな、というと大げさだが、音楽的な冒険がある。同じく「菜の花畑で」は、低音と高音をダイレクトに交互につなげるというもので、これもある実験的な意図はよくわかる。昔のCDでもトリに使われていた「海の真ん中」。長く歌える曲だが、自分たちがいかに中途半端な位置にいるか!と思ってシミジミ無念になってしまう曲である。

そして、6曲目の「タンポポのように」。これは、死者自身によるお別れの歌であるとともに、去る人びとへの子守唄でもあるのだが、綿毛のことが一切触れられずに唐突にでるので、白いタンポポを想像することだって出来るのか、とこの歌を聞いた人の感想を聞いて思ったりする。

アーツマネジメント論は、総論の一応の終わり。分類学の表からグラフへ。
文化芸術振興基本法のなかにアーツマネージャーがどう規定されているかを、問う。
もう、4枚ももらったという学生も、どの条文に何が書かれているかをまったく解っていない。
法律を読むということが出来ない国民は国民として大丈夫なのか。義務教育、中学校で、法律を読んで理解するという授業はないのか?と思う。
もし、あんまり法律が難しいと感じる国民が多いのならば、その国民のレベルの法律の書き方を変えつつ、その厳密さを減じないという高等手法を行わねばならない。
これは、外国生まれの日本人や、外国籍市民が増えていく未来の日本の開かれたあり方なのかも知れない。

熱心な1回生、たまたま、どっちも三重県出身が、2限目に来る。
嬉しくなって、水曜日の2限目とか昼休みはTAM研ショップを開くことにした。
TAM研カフェもしようか。読書TAM研とか、あれこれ、さ。

昼飯から研究室に帰ってくると、鳩山さんの辞任ニュース。
ツイッターとか大学の掲示板に以下を書き留める。
・・・・・・・・・
いま、鳩山由紀夫さんの辞任演説を視聴しました。
http://ow.ly/1SPsp
いい人だったな、と、改めて思います。
そして、これが日本の実力(のなさ、アメリカの圧倒的強さ)だと、
いままで生きてきたことを恥じつつ、思いました。
・・・・・・・・・


6/3(木)

昨日、健康診断の結果が出て、いままでまったく問題のないAばかりだったのだが、一つ、再検査などは不要なのだが、Bという数値が出てしまった。それは、尿酸値で、7以下が正常なのだが、7.5ということ。痛風を予防することを心がけねばならなくなった。
そのためには、まずアルコールのうちでもビールは厳禁みたいなので、とりあえず、ビールを完全欠番にすることに。昨夜も蒸留酒を3杯だけ。で、今朝はすっきり(でも1週間に1回は休肝日をつくるなどはしなくちゃな:希望的)。

近大へ。ツイッターで書いたのだが、鶴橋からおばあさんと一緒に乗り込むと、体格のいい男子学生が(近大生だった)さっと席を替わったのが印象的。いい気分で校門のそばまで来たが、今度はバイクから煙草の吸殻が投げられて・・・。近大生ではないかも知れないが、若者であることは間違いなく、まあ、こんなものである。

1週間で一番のんびりできるのが、木曜日(後期は2つの大学へ行くので、どこかのんびりできる曜日をつくらないといけないな)。鶴橋でキムチをかって(450円のお買い得を買う)、夜は、NPOという組織についての理解って世間ではなかなかされていないなあ、と思いつつ、はやくツイッターを切り上げて、映画を観る。

内田吐夢監督が中国大陸からようやく帰ってきて13年ぶりに日本(東映京都)で撮った時代劇、『血槍富士』(1955年、94分)。企画協力に、溝口健二、清水宏と京都にいる監督のほか、伊藤大輔(彼がどこにいたかは知らず)、そして小津安二郎の名前があがっていて、おお、と思う。小さい子供がとても未来を感じさせる演戯をしていて、これって、清水さん的ねえ、とかかってに連想してみている。

軽快な音楽(小杉太一郎)が意外な始まりで、テンポが途中ちょっとゆるむところなどもあるが、最後へとシンプルに鑑賞できる映画である。お侍さんの不自由さをお侍さんとその部下の目線で描く。部下(下郎)と侍との格差が特に意識されていて、これは、いまの官僚制度におけるキャリアとノンキャリアにも通じる(それよりも軍隊制度を監督は意識していたとは思うが)もの。

映像(吉田貞次)の美しさ。とりわけ、冒頭や最後の逆光シーン(八幡もロケ地だったのかな?)は、実験映画的、抽象画的な端正フォルム。中国大陸的な冬のきっぱりした世界だった。
京都にもこのような乾いた美学があるのか、と思うくらいに。


6/4(金)

9時からの都市と文化資源、林加奈さんにたっぷり、紙芝居の魅力とアーツとしての可能性、その未来について語りかつ演じてもらった。子供たち、学生たち、エリートでもなく、落ちこぼれ(こまったちゃん)でもない、中間層の普通の人たちが、褒められたことがなく、とても自己肯定感が低いというところなど、受講者は痛く響いていたようだった。

つぎに政治学概論があるので、あさ、悪いけど、と長女はなを呼び出したが、彼女もとても勉強になったというし、1回生がたまたま英語休講だったので、きてくれるなど、めくるめく紙芝居はしぶとく続くぞ、危機、事業難を乗り越えてって、思った昼間。

そうそう、政治学はミニテストの前に、国際政治学総論みたいなところ。アナーキーな国際政治にはリアリズムが基本とあるのはいいのだが、リベラリズムが対比され(アイディアリズム=理想主義としたほうがニュートラルと思うのだが・・)、それがいまは「大きい政府」と「小さい政府」に分かれ・・・という記述が挿入されていて、これでは、学生は混乱すると思って、ここを省略して話す。

ニュー?リベラリズム=新自由主義が「小さい政府」派という説明なのだが、僕的には、これをリバタリアニズム(リバタリアニズムには左派・資本主義を否定するアナーキズムもあるとされるが、ここでは、もちろん右派=市場派)と置き換える方がすっきりするので、次週に説明を伸ばす。
社会民主主義的なリベラリストから見ると、この、市場原理主義政治=リバタリアニズムは、政治や行政はただ経済における自由を確保するだけでよく、あとは夜警国家でいいなんていう(機会の平等を一応言っているけれど、弱肉強食的に結果はなっているような)主張と見える、(逆にリバタリアンから見たら・・・)という程度で終わるかも知れないが、もうすこし、自分で考える補助線を作っておく必要がある。

色々処理すべき案件はあるが、1/3ぐらいでおえて、尼崎へ。
作=岡田力(ピッコロ劇団)、構成・演出=岩松了(ピッコロ劇団代表)、兵庫県立ピッコロ劇団第37回公演『あまに唄えば』。19:00〜21:28(10分の休憩)。はじまるまえ、奄美民謡が流れ、尼崎の尼と奄美の奄がブレンドして舞台の生音となる。三線のおじさん2名と奄美舞踊のおばさん4名、そして、両脇には、お祭の太鼓、鉦。かなり高度な演奏、伴奏や場転で楽しむ。

ピッコロシアター大ホールの初日。いやあ、そのこころざし、大好き。だからこそ、空席がもったいないし、ちょっと、アイスクリームマン的群像劇との比較で見ると(そして、どろどろと濃厚化する恋愛劇的メロドラマとしても)中途半端になり、岩松了さんの過去の作品を愛する者としては、第2作・・と「あまもの」を続けて欲しいと思った。
しかし、取材によって、尼崎に住む奄美の人々、神主さん、ピンサロ、町工場、そして、主なる場所である奄美料理の店。松竹新喜劇的泣き笑いの舞台づくりをベースにしているし(奄美にもあるのかどうか、沖縄寄席的なドタバタもあり)、もっともっと地元に愛させうるピッコロ劇団の開幕だなあ、ともしみじみ。

(参考)
2010.6.4 都市と文化資源 特別講演 林加奈さん 「紙芝居」の可能性
学生の感想(抜粋)

◎ 林加奈さんの紙芝居は、僕らが普段知っているなじみのある紙芝居とは全く違っていた。
 海坊主の紙芝居ではストーリーは決めず、まずみんなに絵をかいてもらってから妄想をしてストーリーを考えるというつくり方をしていて新しいアイデアだと思った。
 「トマトの花と雪の国」では、海坊主の時とは違った口調でまた違ったアイデアだと思った。
紙をめくっていくのではなく、紙を巻いていく紙芝居もあるんだなとおどろいた。
 「ホホホ美人とエビフライくん」は、紙芝居というより、はじめのほうはほぼパフォーマンスだった。
 林加奈さんの紙芝居は、新しいことを取り入れ、僕らが想像できないアイデアがいっぱい入っている紙芝居なので新鮮で新しいと思いました。

◎ 紙芝居を見たには保育園以来だったので、当時のものと今日の林加奈さんにやっていただいたものと、だいぶ印象が違って面白かったです。林さんの話の中で、大勢で作れる紙芝居についての話があり、いろんな人の絵を貼り付けて物語を作るというアイディアがものすごくいいなと私は思いました。また妄想からストーリーが生まれるというのもユニークで楽しいと思いました。
 また印象深かったのが「問題児」がよくアーティスト達と作品づくりに加わるという話です。前にある本を読んで、「問題児」と世間から言われる人、「ブラブラしている」フリーターなどを、ただそれと称して引きこもらせてしまうか、地域の有為の人材として居場所を作っていくかが問題になっている、というような文があり、今日の講義を受けて、改めてそのことを思い出しました。
 紙芝居はこれからも守られるべき素敵な文化財です。

◎ 今までの紙芝居と全く違った。
 たんたんと進むのではなく、叫んでいたり、演奏や歌が入っていたり、パフォーマンスが色々あって、とてもおしろかった。
 紙芝居は一人でやるものだとかってに思っていたけど、ほかの演劇みたいにたくさんの人と、コラボレーションもできることがわかった。
 アーツ・芸術にこれはこうしないといけないんだという、決まりはないと思う。自分がおもしろい、他の人もおもしろいだろうと思うことは、どんどんやっていくべきだと思った。
 妄想が芸術になるなら、色んな人が妄想したら、芸術がもっとふえるかも知れない。

◎「紙芝居」がこれほどまでに深いジャンルであったことに驚きを受けました。まさか紙芝居に一発芸や歌までが入ってくるとは思ってもいませんでした。私の中で紙芝居というものはすごく古典的なものだと思い込んでいたのですが、今回林さんの講義を聞くことで、紙芝居の可能性が広がったように思います。
 また、紙芝居を媒介として演出家とお客さんとの間に確かな繋がりが生まれていることを感じました。特に保育園児たちとのコラボレーションには驚くと同時に感心しました。紙芝居を見るのではなく、一緒につくり一緒に感じ合う。そのことを強烈に印象付けられました。
 最終的に全体を見てみると、今回知った「紙芝居」は、元々の紙芝居とは全く異なった新しいジャンルのように感じました。だがしかし、根底には紙芝居というものがちゃんと残っており、すごく面白いなと感じました。

◎ 紙しばいを見るのは久しぶりだった。幼稚園の頃も先生に紙しばいをして貰っていたが、昔、教育テレビでやっていた紙しばいのコーナーを思い出した。
 でも今回の授業で見た紙しばいは話が奇想天外でとても新鮮だった。今回はかい摘んで見せて頂いたが、できれば全て見てみたいと思った。個人的には巻き物型の紙しばいがスケールが大きくて良かったと思う。紙しばいというのはどうしても小さくまとまりがちなのに、こんなにも世界が広がるものかと驚いた。

◎ 林加奈さんの紙芝居は、独自の世界観を持っていて、正直な話し、度肝を抜かれた。シベリア鉄道で絵を描き、話を作り、ロシアで公演したまず行動力が凄い。
 表現がすべて個性と受け止め、その表現を楽しむ。演劇(芸術)そのものを楽しんでいる人なのだなあと思いました。正直すごくおもしろ、おかしかったです。
 人の欠点(言い方は悪いけど)をそのままパフォーマンスに取り入れ、成功している結果ができていることは、演出家として、芸術家としてすごいと思う。こういう事を言うのは失礼だけど何をやっているかわからない。でもそれをわからせる一体感と全体が楽しんでいる様子は魅きつけるものがあるのではないかと思う。

◎ アーツでうっとりさせるというのはこういうこと言うんだなあと思いました。準備の話合いでは傷つけ合ってしまうような激しい話合いで、大変な部分も話に聞き、しんどいものなのかと思いました。ですが、そこでどうにかなごやまにおんびんに話合いができないかと工夫し改善しようとする発想が私にはなかったです。なので、今度なにかの話合いがあったら、私はそれについて考えながらしてみようと思いました。
 また、ビデオでの林さんの紙芝居を見て、私自身もやってみたいと思わせるくらい、林さんだけでなく、出演者みんなが楽しんでいる姿が印象的でした。紙芝居というとスタンダードな物しか知らなかったので、基本にしばられない自由なやり方がとても魅力的だと感じました。また、舞台という舞台がなく、見ている側と出演者との壁がない一体化した空間も良かったです。

◎ 林加奈さんのお話を聞きました。話を聞いているうちに昔の紙芝居は絵がグロくて、はなしが短くて、子供があきないように山ばかりたくさんあることがわかった。
 しかも紙芝居は日本だけということもわかりました。紙の裏に書いてある時は戦争が終わってから書かれた(小暮注:戦時体制になり、思想の検閲が強化されるためにストーリーを書かせられ、戦後はGHQにより紙芝居が検閲された)。検閲前は、紙芝居をするおじさんが絵を見てアドリブなどで話しているということはすごいと思いました。紙芝居では、何も否定せずに進むようにしていて、それがいいのだ、とも話さんは言っていて、その通りだと思わされました。
 ビデオを見て思ったことは、困っているのとか子供とかとじゃれているのがものすごくリアルで、子供と一体感でものすごくたのしそうに思いました。


6/5(土)

ちょうど、日本の文化法制度の歴史の続きをして、各国の文化制度という教科書を午後からの院生との授業でするので、韓国からの留学生の研究課題の関係もあり、以下のようなツイッターに書き込んだことを議論する予定だった。つまり
<韓国では1972年に既に芸術文化振興法が出来ていた。ところが日本が文化芸術振興基本法で「文化芸術」という造語(意味がぼくは不明)を作ったために、邦訳では文化芸術振興法として訳されているのでは?と思っていてこれを確かめたい。1961年の舞台芸術法(韓国)も気になる。>

ところが、その留学生の彼が不在だったので、じゃあ、次の授業に日本と韓国の文化制度比較論をとっておいて、後でしたかった小劇場演劇を見る、という授業にした。
MOPとかMONOという選択もあったが学部でよく使う作品たちなので、院生には身近な青年団の『北限の猿』作品を使って、同時多発対話演劇とか、誰もいなくなる舞台などを見てもらう。そのあと、いくつか青年団の舞台や戯曲をチェック。
少し時間を延長して、弘前劇場のNHKのビデオを見たり戯曲をみたり。長谷川孝治さんの話に受講生はとても興味を示すのだが、ビデオが劣化していて、これはもったいことをしたなと思う。DVDで弘前劇場の公演は手に入らないのかな?

大学院の授業終わって、政治学概論Tの小テストを採点して出席簿付け。けっこうよく出来ているな。去年より、ぼくも骨太に授業が出来ているかも・・中島みゆきを聞きながら。

すごく眠くて、22時前には寝た。


6/6(日)

民主党劇場を忘れる怒涛の日曜日。
超しあわせ、である。

「音の城♪音の海―SOUND to MUSIC」音遊びの会ライブつき上映会

柿喰う客『露出狂』乱痴気@精華小劇場

13時からの神戸アートビレッジセンター2階大ホール。いっぱい。最前列、4回生のえっちゃんもかけつける。ドキュメンタリー映画「音の城♪音の海―SOUND to MUSIC」(監督:服部智行、2009年、90分)のプレミア上映会。1時間たっぷり、成長しまくり、発展もどんどんの音遊びの会ライブ。5年前みたいに大友さんや千野さんなどのゲストがいなくても、実に面白いし尖がったり、和んだり、おぞめいたりする。細馬さんと一緒にやっていたダンスと歌のシオリちゃんの「おつかれさま」卒塔婆(笑)と色紙もらって、すっきり。

映画もとても面白い。卒業生のI田さんが映画に大友さんの横に映っていて、あれは、まちかど紙芝居をやっているときだったから林加奈さんに同行していたのだなあとしみじみ。

そのあと、えっちゃんとB級グルメのたび。でもぜんぜんあいていない。でも何もお奨め地図に載っていない中華料理店でもそれなり。

精華小劇場へ。そのまえにビックカメラではじめてiPadを眺める。19時すぎから。
柿喰う客『露出狂』。100分、そのあと贅沢なメンバーでのアフタートークも楽しく。

乱痴気編(いつもの配役ではないシャッフル状態:100%の出来もみたくなるわいなあ)。でも、とてもよくできたエンタテイメントでありかつ鋭い時代性と普遍性アリ。もう、こやつの才能は本物と見た。

作・演出:中屋敷法仁、26歳。青森出身、青学などの演劇サークルからシカトされて、それで自分は演劇をやるしかない、と思った話とか、保育園・幼稚園の学芸会指導はじつに大切、でもむずかしいのだよとかぶつぶつ思いながら、すばらしい日曜日に感謝!

朝、10作目の中島みゆきのアルバム『予感』を聞く。
最後に「ファイト」があるアルバムで、数年前の落ち込む深みの「うらみ・ます」とは違い、まだまだ浮かび上がり方は中途半端(個人的)だが、より、後輩への応援歌的要素が少しずつ出てきて、自分をちょっと遠くで見ているような、あるいは、人びとの愛憎劇を眺める余裕が歌詞だけではなく、声の落ち着きにも出ている、三十路な歌手の正しい有り様を思い出させるアルバム。

どおってことはないのに、「誰のせいでもない雨が」が、もうすぐ梅雨ということもあり、好きでひっかかりまくり、ファイトの前の小品「金魚」の、こそっとつくる技巧のうまさにもほれぼれ。

つづいて、中島みゆき『はじめまして』1984.10.24。いままでずっとアルバムを聴いてきたが〜次の『御色なおし』(1985.4.17)まで12枚分〜、一番、ずしっとは来ないアルバムかも知れない。でも、「春までなんぼ」の、音程とかに関係なくつぶやく声の力、その出し方のコントロール技巧の向上とか、面白いものがけっこうある。
たぶん、「僕は青い鳥」から、「僕」ということで、中島みゆきが遠くから「僕」を召喚している感じの余裕が、まだ、単なる余裕であって、後年における、包容力としての声の広がりでもなく、ある屈折点を示しているからかも知れないし、ロック的な編曲のせいという単純なぼくの好みの問題かも知れない。


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