こぐれ日録 KOGURE Diary 2010.8/30〜9/5


こぐれ日録708 2010年 8/30〜9/5

8/30(月)

この前(8/27)そのテレビ放送を録画していた『20世紀少年〜最終章ぼくらの旅』(2008公開、堤幸彦監督 155分+α)を見る。
CMが多いのは仕方がないが、やっぱり、その手間がめんどくさい。民主党の代表選挙の話がきなくさく、どうしてもいまの政治と関連付けてみてしまうが、この原作(浦沢直樹)が連載されだした時代とは幾分気分は違っていることは確かだ。
特に、子供時代のトラウマをここまで執念深く追及できる根性がいまどきではないなあとかぼんやり考えたりもする。駄菓子屋とそのそばのエロ映画の写真、平凡パンチのほうが、ロックの衝撃よりも大事だった中学生時代・・でも・・なんか、歌だ。そう、歌がこの長い漫画と映画のキーだった。

では、ともだち教には、歌や音楽はなかったのか。あるのは、万博音頭のパクリ。いや、どちらも借り物ではあるが。東京<日本<世界。ともだち教の世界観は東京中心主義だ。大阪万博を奪還するという話にもなっている。

青砥恭(あおと・やすし)『ドキュメント高校中退―いま、貧困が生まれる場所』(ちくま新書、2009)が辛い。政治家や医者の世襲制と同じように、底辺の貧困層の負のスパイラルが数世代にわたっている事例を豊富に見せる。
小学校3〜4年の算数がとても大きなネックになっている事実。家庭資源=文化資本の圧倒的な欠如。
生活習慣を幼児から身につかないことによる低学力。
高校授業料はじめとする負担を軽減することや、子ども手当の意味はこの新書を読めば一目瞭然なのに・・・60億円(今年度は36億円の抽出に)かけて行う全国学力テストが格差を広げ底辺高とそこにしか選択できない貧困層で低学力層を落とし込む。

《 教育は、セイフティネットという事後的な救済ではなく、若者たちが自律的な生き方ができるように支援するという意味での社会保障機能として考えるべきだろう。そう考えると高校の無償化が必要になる・・・。そのような無償化と同時に、私は高校教育の義務化が必要だと考えている。》p185-6

《 新自由主義教育のように競争と自由選択を優先すれば、高校の学区はより拡大されることになる・・。学区が拡がれば、選べる学校数は増えるが、高校の序列化は激しさを増す。それでも良いという立場もあろうが、それは「選ぶことができる生徒や親にとっては」という但し書きをつけるべきである。
《 いま問題なのは、学力の面からも経済的な面からも選択できない層が激増しているという状況で、学校間格差をこれ以上拡大し、競争を激しくしてよいのかということである。》 176

学区を広くして、トップの高校の成績アップばかりに資源を配分し、底辺高にかよう生徒たちの福祉をどんどん削っていく新自由主義の政治がいかにむごいことかと思ったし、それは、結局、格差拡大による社会不安・病気社会不適合の増大、より手間のかかる、「安心安全」装置が必要になるし、結局、精神的な自由を子供はじめとしてみんながもてなくなる管理社会、疑心暗鬼相互監視社会へと向かっていっているという、自由の逆説的事態を呼んでいるのだ。

13時から、京都府庁で、国民文化祭の関係の会合あり。アーツバー@立誠(京都学生芸術作品展)のことは、事務局はまったく知らなかった。でも、11月にかけて毎年行っているので、主要期間を少しはずしても、関連企画として位置づけられることは十分可能だし、お互いに意味があるようにも思えて、情報提供しておく。10/30にぼくもちょっと国民文化祭に向けたシンポの第一弾のパネラーになる予定で、授業ともいささか関係することになるつもり(院生など)。

それにしても熱い。久しぶりに旧府庁舎を眺め、これが保存されていていまもこうして明治の建物が普通に見られるということは幸せになるなと思う。


8/31(火)

夜は、家城巳代治監督の『姉妹』(1955年、95分)を見る。原作、畔柳二美、脚本は新藤兼人・家城巳代治。
どうして、松竹の組合運動をして追放され独立プロによる映画ということなのに、左翼左翼していないのだろうなあと思いつつ、涙する。
主人公が姉妹ということなので(妹目線ではあるが)、どうしても自分の娘たちと比べてみたりして、家族のこと、家族と社会のことをこの時代(ぼくが生まれた年だ)は、こういうふうに感じ行動したりそれができずに歯軋りしていたのだなあと思う。

なにせ、妹役の中原ひとみは新人で初々しく、身長もなかり小さく、近藤のチビで「コンチ」というあだ名にぴったり。そのおてんばぶりとうそをつくことができないまっすぐな性格で(でもお金の使い方などできていないところも多い)、首切り反対運動の中途半端さや障害者を抱える家族(一方は裕福ながら冷たく、他方はいたわっているけれどあまりにも貧乏)について、歯軋りする。

他方、お姉さん役の野添ひとみは、キリスト教を信仰して何とか心の平安を保っている。長女の常識、弟たちにはお土産をかかさない。危ないところ(浮気したり、町のダンスクラブに行きたい下層の女の家)には近づかない。好きあっている岡青年(内藤武敏)とは結婚しないで、お見合いで銀行づとめのエリート、町の男に嫁に行く。

新潟だろうか、水力発電のダムのある集落が実家で、それを降りて女学校に二人は通う。大学にはいかない。修学旅行は東京。この3つのポイントが明確にあって、人々はそれぞれに位置している。高度成長の直前、馬による運搬が当たり前だった時代・・・見るべきところがけっこうあって、明るくそんなに重くもないのに、見終わってからずしりとした感慨を持たせる映画だった。

9時過ぎに大学研究室へ。児童館のみなさんにハンコとかかえっこカード、テープなどを渡したりみせたりしたいと、山科区役所のDさんからメールがきたので、それをみつくろってから、また、山を降りて区役所へ。10時を5分ほどできる。3名のゼミ生はちゃんと座っていた。

9/11(土)の東部文化会館(創造活動室)におけるかえっこバザールは、エコアクションNO.1の一環。 どうも、4つの児童館さんが30名ずつほど、団体さんで来ることになっていて、従来、おもちゃのかえっこのバンクマンも、それをもってくる子供も個人同士の関係(親が小さいと媒介者とはなるが)だったので、いささかとまどう。ただ、お手伝い志願者が2名いるという朝の話があり、そのあとメールであと4名増えたということで、これで人手(休み期間中なので、2回生ゼミ生は7名の参加)は大丈夫だろう。

つまり、団体同士となると、その間の公平性とか、団体内の子供間の平等とかいう話で、個性とか自由なアイディアとかはどうしても封印されてしまいがちになる。
うーん、これが、アーツのプログラム(コミュニティアート)であるということがどこかにいってしまうので、いささか困惑する。で、正直に話すと、趣旨は十分わかってもらえるので、いい機会ではある。

東部文化会館の総活室を実際に見て、どのような動線を考えて配置するか、学生が考えている。帰り、東山の喫茶六花でランチ。ちょうど4席だけあいていてラッキーだった。たまたまフランスから一時帰国していて、二女と会ったことがあるという研究者さんに遭ったりする(彼は、ぼくがfacebookと同じアイコン顔だとびっくりしていて、それがおかしい)。

帰ってからは、副島隆彦×佐藤優『小沢革命政権で日本を救え―国家の主人は官僚ではない』(日本文芸社、2010.6.20)を読む。

6.20時点での「緊急出版」なので、対談が中心。でも、その後参院選、そして、民主党代表戦と、状況は刻々と情勢が変わるなかの、この3ヶ月近く前の時点の出版物としても面白く、でも、二人の立場が違う個別論点で、考えさせられるものもけっこうあった。
たとえば、永住外国人の地方参政権付与や女性天皇制、靖国神社合祀問題など。宮内庁長官の天皇会見問題における官僚論などは、佐藤優さんもぼくも同じ役人同士なのでよくわかる話・・・

小沢一郎さんが、織田信長的だという話のなかで、本能寺で信長を焼き討ちしたのは、スペインの謀略ではないか?という副島さんの話はけっこう笑ってしまった。光秀が誰かとか思わせるなあ。

急遽することになっていた、政治学概論Uが、金曜日の3限目に決まり(11/5は、織田先生の必修に出るので、調整がいるが)、そろそろ本格的に準備(ペーパー化)をはじめなくちゃということで、『日本の新たな「第三の道」』の「読書メモ」をつくる。前期の復習をかねたものになるだろう。

この本は、社会学者二人からみた政治論なので、政策論議の具体性はあまりない(もちろん、政局論、政治過程論とは違うもの)。考え方の整理、とくに、イギリスの動きがわかる。ただ、この前のイギリスの政権交代についてはまた調べる必要があるな・・・
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アンソニー・ギデンズ+渡辺聰子著『日本の新たな「第三の道」―市場主義改革と福祉改革の同時推進』ダイヤモンド社、2009.11.27

表紙裏「日本は、資本主義経済と議会制民主主義の歴史においては後発国であるが、それゆえに西欧諸国の過去一世紀の経験に学び、彼らと同じ轍を踏むことを避けることができる。/ 今後、日本が経済再生を果たし、市場の繁栄と健全な福祉制度を両立させ、激しく変化する世界の中で自らの意見や立場を主張していくということはけっして容易ではないだろう。しかしそれは「可能である」と私たちは考える。・・」
まえがき
《 欧米の歴史を見ると、「平等」と「効率」のどちらかを優先するか、つまり社会民主主義的な「福祉国家主義」と新自由主義的な「自由市場主義」とは、サイクルを成して移り変わっている。》p

第1章 21世紀の新たな社会モデル
《 過去数十年にわたってすべての先進国で進行してきたこの「脱工業化」という現象は、21世紀になって新たな段階に突入したといえる。この新たな社会的段階は、地球環境との共生を基本原理とし、低炭素産業ともいうべき環境・グリーン産業に牽引される「低炭素産業社会」であろう。》 p2

《 市民は、権利に伴う責任を自覚し、その責任を果たすことを求められる。つまり低炭素産業社会においては「倫理的個人主義」が支配的な価値観となる。また、自然を保全し、自然と共生しながら自然を回復できる範囲内で生産活動を行うという自然共生主義も重要な価値観となる。さらに脱物資主義、反権威主義、自己実現主義など脱工業社会において一般的となったポストモダン的価値観は、新しい低炭素型社会にも適合するため、影響力を維持し続けるであろう。》p7

《 成熟した市民社会を支えるのは、社会的責任があり、自省することのできる、健全な批判精神を持つ成熟した市民である。つまり、幅広い基礎的な知識を習得し、そうした教養に裏付けられた思考力を持つ成熟した市民を育成することがこれからの教育に求められているのである。》p29

第2章 グローバル・ガバナンスの構築に向かって
《 グローバル化が不可避であることは、今や多くの人が認めている。しかし今後グローバル化が進むとどうなるのか、世界市場がどのように展開していくのか、そして各国の経済がどのように対応していくのか、誰が勝者になり、誰が敗者になるのか、見通しは不透明である。こうした未知と不確実性に対して不安を感じる人も多い。》p55

第3章 「第三の道」と日本の選択
《 小泉構造改革は、もともと米英に比べて市場主義メカニズムがあまり浸透していなかったニッポンに、それを急激に導入しようとするものであった。また欧米のいわゆる「福祉国家」体制を経験していない日本では、社会福祉制度などのセーフティネットの整備は遅れている。そのため改革の副作用は、米英以上に衝撃的なものだった。》p68

《・・「第三の道」の実現は必ずしも容易ではなかった。まず第一に「中道」政策が多数派の支持を得るんもは、きわめて難しいからである。「第三の道」とは、新しい右派(新自由主義)と旧い左派(古典的な社会民主主義)の二つの流れのなかから、いずれとも異なる新しい路線を見出そうとするものである。》p83

第4章 「欧州社会モデル」からの教訓
4-3 新しいモデルの課題と展望 p159〜162
@ ネガティブな福祉からポジティブな福祉へ
   教育と学修、繁栄、人生選択、社会や経済への活発な参加、および健康な生活を促進
A 市民の積極的な同意
B リスクの創造的利用
C 受益者の貢献
D 脱官僚的・・・脱中央集権化と地方への権限の移譲を促進し、生産者の利益に勇敢に抗する
   脱官僚化の努力は民営化とは明確に区別。
民営化は、これらの目標を追求するための潜在的な手段の一つにすぎない

第5章 新社会への価値観変革―環境とポジティブ・ウェルフェア
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9/1(水)

今日は、清風館の掃除日ということもあって、そろそろ夏休みモード返上といきたいのだが、そうなっていない自分がもどかしい。
政治学概論Uのシラバスを作って送付しておく。去年からの教科書とは違うということを伝えておく必要があるし、生協に注文しておいてほしいからだ。大平正芳さんをメインにして、その前後(戦後政治とポスト戦後政治)を探るということだが、どうしても、この秋の政局とシンクロしそうで、ドキドキである。小沢一郎さんと田中角栄さんを比較したり、菅直人さんと三木武夫さんとかを比較することになるのかどうか・・・

南弓子(ダンス)×山沢輝人(テナーサックス)「馬鹿と罪」アバンギルド。

三条京阪下車、アバンギルドへ。また、通り過ぎてしまう。
なんとなく、行き過ぎるのだなあ、ここ、木屋町というのは。

東京に移った南弓子さんのソロダンスを見られるのはとても幸せ。テナーサックスは山沢輝人さんという上半身裸で、ちょっとボクサーの亀なんとかとかいう人みたいな頭かっこうだが、吹き出すと、実は甘いメロディーもふけそうで(後半の冒頭とか最後とかにその片鱗あり)、でもほとんどは即興バリバリというそのギャップ感がなんともいえない人。

で、始まる前(19時半とあってもライブ会場というのは音楽でなくても15分ぐらいは押すのだなあ)、今貂子さんがいたので、いろいろ話す。さきらのお化け屋敷公演はなんと7回もしたのだそうだ。それでも、去年の9回とかに比べると少なかったし、ヘロヘロになり方も減少したということ。今年はいままでよりも恐怖感は少ないように演出したということ。アルティの公演にいけなかったことをわびる。

で、「馬鹿と罪」。まあ、表題はよくわからないけど(笑)、南弓子さんのまじめな一面が良く出ていて、綺羅座のときとは違うなあと思いつつ、もちろん、瞬間瞬間にある舞踏的な味わいや癖もまた、面白く観た。

前半の終了のときの突然さと、せっぱづまった感じと、一転、黒い前半(少女、リボンを首から胴に変えるところなど小物づかいも繊細)から赤い衣装へと大変身なる後半への衣装転換もまた楽しく。

ダンボールに八つ当たり?と思わせて、ダンボールでヴィクトリープレゼントありーの、最後、撮影会ありーの楽しいダンスライブだった。

それにしても、彼女がそこにあって、後ろの壁に影が映るだけで、こんなにここが美しかったのかと思わずつぶやいた。いままで、色々なものをここで見てきたが、それだけ、彼女の研ぎ澄まされた一挙手一挙手へのこちらの集中が場への感応度を高めてくれたのだろう。期の長いす3つを並べる舞台美術の初めも、ありそうで、けっこう巧妙な場所区切りであり、それをつみあげてしまって、後半へと続けるあたりも、シンプルでうまい。
照明操作が壁にあって、たけちよさんが一所懸命しているのも含めてダンスの楽しさだったなあ。

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政治学概論Uのシラバス(参考まで)2010.後期 
科 目 名 政治学概論U  金曜日3限目
担 当 者 小暮 宣雄
テ ー マ 日本の政治―具体的な政治家・政治現象の事例研究から―
獲得目標 戦後の日本政治を概観する。
日本における政府の仕組み、とりわけ政党と官僚との関係を知る。
政治家・政治過程の実際について自分で考え論評できる。
内  容
1)オリエンテーション―教科書必携 毎回ミニペーパー提出 欠席の場合の代替措置
2)政治学理論の復習―新自由主義と社会民主主義―効率(市場)と平等(福祉)
3)社会史のなかに政治位置づける―戦後政治から、ポスト戦後政治へ
4)官僚と政治家の実際―大平正芳を例にして
5)保守・保守主義とは何か
6)内政と外交の実際―日米関係と日中関係
7)地方の時代、文化の時代、田園都市国家構想とは
8)族議員と派閥がいかに形成されてきたか
9)政権交代と派閥間抗争との関係とは
10)国家財政―消費税と赤字国債
11)大平正芳と他の政治家との比較論
12)いま、日本の政治はどうなっているだろう
13)政治を映画はどのように表現してきたか
14)政治への参加とその手法、マスコミとインターネットとの関係
15)まとめ


授業以外での学習方法
『大平正芳―「戦後保守」とは何か』という教科書は必携(最初の回などはなくても大丈夫)。予習として、教科書を読み、そこに登場する政治家を事前に調べておくこと。ミニテストや発言を求めることがあるので。また、欠席した場合は、それに変わるミニ調べを提出するか、以下に明示した参考書や授業中紹介する書物を1冊読んで、レポートを提出する。
教科書
福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』中公新書、2008年

参考書
吉見俊哉『ポスト戦後社会』岩波新書、2009年
飯尾潤『日本の統治構造』中公新書、2007年
竹中治堅『首相支配』中公新書、2006年
辻井喬『茜色の空』文藝春秋、2010年
国正竹重『権力の病室―大平総理最期の14日間』文藝春秋、2007年
田中良紹『裏支配―今明かされる田中角栄の真実』廣済堂出版、2003年
アンソニー・ギデンズ+渡辺聰子著『日本の新たな「第三の道」―市場主義改革と福祉改革の同時推進』ダイヤモンド社、2009年
成績評価 試験( %) 小テスト( %) 授業中課題<提出物・レポート>( 40 %) 参加度( 40 %) 授業中発表等( 20 %)


9/2(木)

あさ、このCDを聞きながら運動。なんか、背骨がゆるむ〜 『オールアバウトウメキチ』桧山うめ吉(唄、三味線)。俗曲師。文化芸術振興基本法第11条の「歌唱」というのは、彼女のような寄席芸人的な人(彼女はもっと幅広い活動をしているが)をイメージしていたのかも知れないな。

後期からうちの大学の授業をしていただく方からも「お忙しいところ・・」とメールがあったが、じつは、ずっとツイッターで時間ばかり浪費していて、まったく暇というか、無駄に時間を費やしているじぶんが、ほとほといやになる。

でもまあ、今回の中之島での検討ワーキングとかいう会合は、すこし気分穏やかにすぎた。
関西アーツカウンシルというのものが、まったくいまはないと考えるのではなく、微細に見ればその一部分は無意識に動いているのではないか、問題は、専門的な自覚のあるスタッフによって構成されるようになることである・・・言わなかったが、あるいみ、日本版アーツカウンシルとして構築しかかった財団法人地域創造の専門スタッフ配置が、自分から関西では後輩が育たないのでと志願して事前に来てくれた演劇プロデューサだけになってしまって、あとは府県・政令市などからの出向・研修生、そして、ノンキャリの跋扈となってしまった失敗を思い出しつつ。

よるは、看護の関係のセミナー。
かえりに、看護の先生ふたりと串かつ。
大学の利害関係の方々と話すのは、まあ、アーツマネジメントがらみの話をしたあとだったので、より、きいていただけたのだろうが、楽しい限り。


9/3(金)

栗東のさきらへふらふら歩いていくと、西川部長さんや担当者さんがびっくりしていて、こっちもびっくりした。ぼくも、京都府のコンペの委員会があるとかないとか(委員長がダメになったら副委員長ってあるじゃんとか、いささか、むかっともしたが)という話だったので、委任状も出しつつ、京都府の委員会が延期になったらいくよといっていて、まあ、そうなったので、きたら、みんな委任状になって、中止だという。

まあ、儀式みたいなもので(文化庁の補助金の始末)、そんな委員会に出たいものでもなかった(滋賀県の音楽協会の人などがいたりしたら遭いたくもない)ので、逆に、喫茶店で、生ビールをおごっていただいて、雑談するほうがずっといい(でも、通風予備軍で夏太り真っ最中の私はこのあと、また、帰り、チュウハイストロングなど飲みつつ帰ったわけで:それに中日勝もんだから、戦勝祝いまでしたし、自分が悪いので、仕方がないが、また悔やまれる)。

なぜか、さきらの喫茶店で検察の取調べを受けたときのことを思い出す。

話していて「今太閤」から「闇将軍」にマスコミを尖兵として貶められていった田中角栄さんと、マスコミとの複合体である特捜検察(占領軍によって活用された色々な歴史をもつ非常時権力装置)という話を思い出す。さらに、小泉ポピュリズム政策によって民衆裁判制度化がすすめられていて、視聴率アップとしか思えない裁判員制度だけではなく、検察審査会制度などいうものまで拡充され、大衆操作をより巧妙にできるようになってきている。よわったことだ・・・

「権力は腐敗する」というのは絶対的な政治学的真理なので、その権力をいかに分立することで、腐敗を続けられなくするか、チェックアンドバランスの工夫が政治制度の民主化の要諦であるのはいうまでもなく、検察と警察をもういちどきちんと分離し(捜査は警察権力に限り、検察はそれを受けてチェックし起訴し公判する権力)、双方を弁護側との間で対等にするために可視化するということの必要を痛感する。

一度だけ、小さな話だが、徳島現職市長(山本さん)の汚職問題で、徳島地検の参考人招致を受けたことがあり、こういうところでずっと待たされていると気持ちが滅入って早く向こうのストーリーに乗ってあげようかという気持ちになるのだろうなあ、と思ったことを思い出す。

今朝は、小沢一郎さんが、民放のスパモミとかいう番組に、鳥越さんなど比較的良心的なキャスターによって質問を受けていて、生でお見受けしていた小沢さんに近い姿をマスメディアという中ではじめて伝えられたなあと思って感慨深かった。
ツイッターで知ったのだが、夜、NHKに生出演するということだったので、その生の小沢一郎さんインタビューも、21時から見ることにした。

見終わったあとの感想。ひとことでいえば、NHKというのは、もうその使命は終わったので、いかに、仕分けるか(娯楽番組などは別会社で作っているのだから)を国民が考えるときがきたな、ということ。それでも、昔の映像を見たりすると忘れていたことなどを思い出して、楽しかった。

菅直人さんという人は本当に知らない人で、断片的に、学生時代、右翼にちょっと染まって(石原慎太郎さんの応援団組織)から、市民運動の関係に移ったというぐらい。あと、ロッキード事件のとき、勇ましく、田中角栄さんの自宅で、正義の尖兵として大声をあげたり、と、野党的な責任ない場面でニュースになろうと発信運動をするような人かなとうっすら思っていたぐらいなところ。

薬害エイズ事件では、大臣なのに、厚生省官僚の言いなりにならなかったというのは、手柄だとぼくも思うが、それももう10数年前。それ以前とそれ以後はどんなことをしてきはったのか、まあ、興味はないが、応援している人は知りたくはないのだろうか、とは思ったりする。どうしても、仙石さんというもっとしたたかな政治家のほうが、気になるのは、まさに、鳩山さんが総理のとき、みんな結局小沢幹事長に注目したのと同じなのだが、では、枝野さんという幹事長についてはなかなか興味がわかないのも不思議だなあとも思ったりする。

西川さんが、文化庁に行くと、いまからでもいいから、現政権の成果をつくれと発破をかけられていたとのこと。あと、平田オリザさんは、松井議員さんとつながっていて、いまは、松井さんが小沢派なので、力がなくなりつつあるということ。


9/4(土)

午後に見たのは、映画『小説吉田学校』(132分、1983年)だった。監督が、森谷司郎、原作が戸川猪佐武(映画は、その小説吉田学校の第一部保守本流をだいたい忠実に再現している)。
吉田茂に森繁久弥、吉田の娘、麻生和子に夏目雅子(麻生太郎がこんなにきれいに描かれている和子母さんの長男というのがどうしても想像しにくいのだけれどww)。芦田伸介が鳩山一郎(彼はやっぱり宇宙人ぽいように描かれている)、そして、圧巻は三木武吉を演じる若山富三郎の姿である。もう、梅宮辰夫が河野一郎を演じることもあって、親分子分の姿などほんとに仁義ある任侠世界と瓜二つに描かれているのが、実に面白く見た。

『自分史の朗読〜今、ココにある人生〜』。
ゆっくり、19時半開演と思って、東山青少年活動センターへ向かったら、実は19時開演で、すでに、大藤寛子さんらの前半ははじまっていて、残念なことをしたが、なかなか有意義な企画だった。なにせ、ファック・ジャパンさんはうまい役者だからなあ。耳塚であそんだ戦後という話はかなりぎょっとする内容だったなあ。

昨日は、小沢一郎さんをテレビでよく見たし、政治のことを引き続き勉強したいなと思った。
茂木さんとかいう、マスコミ受けする(あるいはしていた?)人が、マスコミが歪めてしまった田中角栄さんの報道のことを書いているのも面白かった。

さて、ツイッター上で、障害者を障がい者って書くのは、おかしいよね、という話をし合ったとつぶやいたら、
九州のほうから、とても興味深いサジェスチョンをいただいた。
つまり、知り合いのなかでは、
「有障者と未障者」というようにしているという話である。
障碍が有る人を「有障者」というのだけで、なるほど「害」を避けてうまい!と思ったが、
いわゆる「健常者」を「未障者」と呼ぶのも識見である。いつしか、体も脳もダメになっていずれ有障者になるのは、確定しているのだから、未来の有障者というネーミングは実に平等で正しいなと思った次第。

出典は以下だとまた教えられた(感謝)。
http://bit.ly/bvSwHD
http://bit.ly/9JPaMq


9/5(日)

久しぶりに大学へ。
11時過ぎに、後期、木曜日3限目の授業(空間デザイン論)を担当していただく、井上信太さんが来られて、予定している教室(C-201、児童教育学科が使っている保育などの遊戯に使えるいい空間)の鍵をあけてもらってみせたり、むかしは、清風館の1階下がタフで使っていたが、いまは、無残になっている様子などを案内。

14時から、大学院の説明会。鳥取大学からの学生さんで去年も来てくれた。
実に熱心な学生さんで、色々話し合う。悩ましいのは、指導教官選びだという。市街地活性化から徐々に広く文化政策やアーツマネジメントへと興味が拡がっていて、ちょうど、アーティストンレジデンスをしおわったあとだという。博士課程前期をでたあとは、市役所を考えている・・そういえば、彼女、昼ごはんも食べずにふらふらと清風館あたりを歩いていて、説明会の清香館へ案内し、16時のバスに乗らせたのだが、熱中症気味だったかも知れない。あわてて、売店がしまっていたので、自販機でクラッカーとお茶を買って渡したが・・・

帰って、岡本喜八監督作品『日本のいちばん長い日』(158分、1967年)を見る。東宝。見たことがあると思っていたが、ちゃんとは見ていなかったと思う。中心は1945年8月14日正午から15日正午までだが、その前の翼賛記者クラブの様子、政府の発表よりもエスカレートして、好戦的にあおるマスメディアを興味深くみる(もちろん、いまに続く話を思いつつ)。

あたりまえだけど、戦争映画だし、被害者はきほんいないので男ばかり。軍人さんがいっぱいだ。
だから女優さんは一人。
つまり、笠智衆演じる鈴木貫太郎を気転で逃がす女性を演じる新珠美千代のみ。
宮内庁で当番で勤務する侍従と玉音放送をするために命がけになってしまう放送局などのことなど、やはり興味深い点がいっぱいある。
近代以降、日本でのクーデター未遂事件の一つなのだろう。近衛師団の反乱っていうのかな?

地域集権(「地域主権」)・地方自立や脱国家官僚依存が、国政レベルの論戦ではどうして人気がないのか、その理由をすこしだけメモっておく。

1)
国会議員(与党であった自民党が中心だが野党も比例区以外はかなり同じ活動をしていた)は、もともと、票田である地域利益誘導とか地元陳情受付とか特定業種利権支援とかの保守的あるいは自由市場主義的立場での活動を行ってきたため。

あわせて、万年野党を自他共に認めていた革新側は、厚生省、労働省などを中心とした取引を通じ、組合組織や支持宗教団体など支援団体との関係を活用して集票する社会民主主義(福祉国家主義)的活動を行ってきたというのも理由になる。

2)
これが地域に任せるということになったら、中央とのパイプ、特定省庁部局とのパイプづくりによって情報リークや利益誘導とかいうような仕事(これが自民党政調による族議員形成となる)がなくなり、どうやって、選挙に勝つかが判らなくなる。

3)
都道府県議員、市町村議員においても、実は、地域集権が行われると、自分たちで政策研究をして国政レベルの政治家や官僚組織とのつながりは不要だとしているごく少数の人たちを除けば、地方に任せるとかいう方針だと、いままでのような陳情・利益誘導という中間的な口利き政治ではやっていけなくなる。

4)
地域主権は口だけで、実際は官僚やマスコミ(それを従順に受け入れ信じている一般有権者)と一緒になって、結局は、ひも付き補助金を残してくれるような候補者Aに味方して恩を売っておけば、族議員的活動、地域利益誘導の政治活動は温存できる。

5)
ところが、本当に「地域主権」をやってしまいかねないような、候補者Bに応援して、もしも、候補者Aが勝利したとすると、その不利益は目に見えている。
したがって、候補者Aを支援しておいて、万が一、候補者Bになったとしても、「地域主権」をするというのだから、報復されることは相対的に少ないはずで、もし、報復するために、地域主権政策をしないようであれば、それを大声で言っていくことで、なんとかなる。

1)〜5)でみてきたような理由により、かつての地域分権(私は地域集権と呼ぶ)、現在の「地域主権」キャンペーンは、国政レベルでは、どうしても、不利な主張になると思われるのだけれど、今回はどうだろうか?


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