こぐれ日録 KOGURE Diary 2002.3



122)3/1〜3/3

3/1(月)

雑用は即座にすますタイプなのに、それでも次から次へやってくる。朝まだき、4時半頃に目覚めるとすぐに雑用のことや先週末の反省などが頭に飛来してきてそれ以降寝直せない。
今週は、主催事業のあとの虚脱感が底流にあったのだなあと、京阪電車の車窓から外を眺めていた。

いつものように京阪電車に乗る。通勤通学の終わった遅い朝、ふと目の前の窓の外を見る。こんなにぼんやり何も考えないで外を見ることが久しぶりのような気がした。

じわじわ。中沢新一の文章をちょっと読んでは外を眺めることを繰り返していると、直前までの凝り固まった頭の筋の緊張が抜けていく。すると、からだが流れる景色に反応し出した。暢気な女子高校生達が笑っている。

楽しい春だ。大学の入り口近く、最後の急坂を上る。コートが重くて仕方がない。新入生のアパート斡旋のコーナーが生協前にできている。卒業生の不用家具が新入生らのために置いてある。

中沢新一『哲学の東北』、1998.8.25、幻冬社文庫。イギリスの禁欲主義との比較などを中心とした宮沢賢治についての論考や、羽黒山の修験道が女性解禁になったこと、ルーマニアの農民哲学のことなど。

とりわけ、森繁哉という舞踏家(大蔵村役場の職員で「踊る農業」という農業集団を主催)については平田オリザさんや遊佐町役場の池田肇さん(池田さんとはほんとに音信が途絶えてしまった〜これをもし読んでいたらメールくださいね、池田さん)から聞いていたので、とても興味を持って読んだ。

《(森繁哉の言葉)柳淵で田んぼをつくっていて感じることは、そこの人たちは、とても繊細ですよね。ひとりひとりの生きることのディテールのようなものが繊細で、みんなひとつひとつの顔をもっているんです。わたし、いま「柳淵、稲作技術の踊りシリーズ」という踊りをずっとやっていて。・・いつ、だれが、どこの田んぼで、どういう作業をしたか、というのをずっとデッサンしているんです。たまたま田植えを見ていたら、隣で植えている人とこっちで植えている人、1メーターも離れていない田んぼで、ぜんぜんちがうのですね。・・ほんとに不思議だったんです。稲を植えるというのはまったく同じですけれども、腰の沈め方とか、手の置き方とか、稲を見るとかいうもは、ものすごい個性のちがいをもっているんです。これはどういうことかな、と思って、デッサンしているんです。そのデッサンしたものを、その日の夜に踊りにして村の人に見てもらって、これはだれそれさんの踊り、というふうにやっているんですね。
《日本の舞踊のとらえ方のなかには、農耕からの発生というふうに、民俗学的に分析していく視点はあるんですけれども、農家のお父さんが苗を植えるという、日常の微細なものから踊りが発生していくというプロセスをとらえた視点がなかったと思うんですね。田植えを民俗学的視点からみていくんじゃなくて、むしろ、さまざまな土地で田植する人の瞬間、瞬間から発生している運動を、踊りだととらえていきたい。》(「踊る農業、踊る東北」より)

ここには明確に限界芸術と先駆的芸術家(もちろんここでは森繁哉を指す)の関係が意識されている。

これを書いているところにJAM Westの松本さんがやってくる。2002年度のOBPアーツプロジェクトとJAM Westのすり合わせ。

OBPアーツプロジェクトの方は美術以外もどんどん広がりそうですごいことになりそうだ。学生アートマネジメント会議が6/28.29にあるから、うちの大学も何か発表しなくちゃいけないな。うちの川上牧世さんが2週間に一回、源河君らがやっている会合に来ているから、彼女に頼もうか。

JAM Westの方は、中部部会が出来るから、また大変だ。ダブルで部会に入ってもらう(それでも5000円×2=1万円だから文化経済学会と同じ額)ように中部出身の人にはお願いしなくちゃ。そのためには私もダブル会員になろう。

なにせ、学生会員(3000円)も大切だが、法人会員の獲得が大切。そのためには部会へもお金が半分落ちなくちゃね。そしてメリットを考えよう。カンサイの企業メセナ担当者交流会とか法人参加は6名まで可能(年会費3万円のもとがこれでとれる)とか、詰めたサービスを明らかにしていくことだ。

学生支援課の荻野さんからインターンシップについて嬉しい内諾が続いているという電話あり。よかった。逆に、滋賀のブラームスホールからはインターンを受け入れたい申し込み。とりあえず、行ったことがないので一度見学に行かなくちゃいけない。

どうも翻訳物の演劇というものには馴染みがないせいか、どう見たらいいか分からないまま、終わっていた。19:34〜20:59。應典院5周年記念連続提携公演、南船北馬一団『大典礼』作/F・アランバール、構成・演出/棚瀬美幸。谷弘恵という新しい劇団員が「せむし」の息子を演じている。腰が痛くなるだろうな。息子を閉じ込めている母に藤岡悠芙子、太く大きな声。息子が行う性的儀式の犠牲に自らすすんでなる女が片桐慎和子。末廣一光は、犠牲になる女の元彼。

母から息子へ、息子から犠牲になる女へ、儀式は模倣反復される。母は夫から同じ虐待を受けたのかも知れない。息子は結局人形に対する耽溺に戻る。5人の人形が動き(いまいちその動きはぴんとこない)、主人公と母の内面の声を替わりにあるいはダブって語る。ク・ナウカみたいな感じも部分的にある。まあ、私はこういうもろ非日常世界が舞台になるのが苦手なのだと思う。文章ならば大好きなのに。なぜだろうな。

3/2(土)

はなが清水俊洋さんらに連れて行ってもらったという木屋町五条のカフェに行く。食器類などの小物も販売、みんな洗練されたデザインである。
カフェ雑誌で有名だった『efish』。Cafe and Products、サカナのマーク、黒猫がそのサカナを想っている図柄。鴨川が目の前に広がる抜群のロケーション。黒のスタイリッシュな手拭いを買う。オクラと大豆のカレー。

京都芸術センター・フリースペースで若々しいダンスを観る。今週はずっと自分の客席内(=ここは「好きなトコロ」であると先週の日曜日に明言していたわけなので)で不調をかこっていた。終わるまで椅子に座ることが出来なかったほどだ。きっと趣味が合わないのだろうし、こちらの感度が鈍っているんだなと思っていた。

確かに少しずつ疲労が回復してきたということもある。でも、同じように頭痛は公演が始まる直前までがんがんしていた。ところがである。終わったあとの解放感。未来は確実に彼ら彼女らの手に委ねられている、そんな喜びに満ちて四条通を闊歩した。

確かに見終わって一夜を過ごした朝にこれを書いているから「印象批評」であるに違いない。まだ興奮による余韻があるだろうが、でも鑑賞時の興奮がすぐに減衰するものが多い中で今回のダンスは珍しく後を引く。劇団態変のステージほどではないが(態変の場合は、1週間ぐらいしてからかってに蘇ってきたり自分の中でかってに増殖したりすることがよくある)。

でも、この印象はかなり根深いところを動かすものだから、きっとここで踊った人たちなかの幾人は確実に次の関西ダンスシーンを動かしていくだろうし、私もダンスを将来に渡って鑑賞し反すうするときにこの時を思い出すだろう。

特に最後の藤野直美(“untitled”)の動かないように禁欲を課した踊りが自分のツボに入った。じっとひとところに止まっている表層とは裏腹に、実はめちゃめちゃ動き回っていた内部の葛藤が美しかった。もっと不動のままでいて欲しかった。あと1時間ぐらいただただ背伸びと膝かがめを繰り返していて、客席に私が一人になっても観ておこうと決意していた。

《このあと「こぐれ日記」の載せる分ぐらいを一気に書いたのだが、保存せずにインターネットをしていたらマックがフリーズしてここから先がなくなってしまった。回復できなくなったし同じことを書くのも無理なので、ゆっくりとまたいつか書くことにしよう。》

ソロで踊った人は藤野直美以外に西嶋明子(“未来ネコ”)、岩澤尚美(“since1975”)。西嶋は瞬間芸をライブみたいにMCつきでするが、後半に迷いがあった。岩澤はヒップホップからコンテンポラリーに移ってきた人。今年5月からずっと海外に行く竹之内淳志さんがゆっくり動くところなど舞踏などを通過すると見違えるほどよくなるのではないかと言っていた。

帰り坂本さんに、男同士のむさ苦しい感じが、グルノーブルの工場街をテーマにしたダンスを観たときを想起させてくれたと話す。丸井さんに言ったのは、関係者によると思われる拍手のタイミングが早すぎないかということ。コンサートと同じく公演のあとの拍手のタイミングは観客の重要な反応の1つだし、これでダンスを提示した側と受け止めた側による「終了と了解」が成立する重要なポイントだからだ。

コンサートでは、演奏後の無音を聴くことの大切さが言われる。ダンスでは踊られた身体からその身体が普段の身体にかわる移行の間のなかで、鑑賞者はダンス鑑賞の最後の闇や空白な時間を通って、やっと拍手する意識の転換を持つ。つまり、拍手は鑑賞を完結させる瞬間の自己決定だと大げさに言えば言えるのだなあと、たまたま拍手のフライングをきっかけとして考えさせてもらえた。

いい気分で京極東宝へ。『千と千尋の神隠し』。宮崎駿は自己模倣をしているばかりではなく、ためがなくなったなあと思う。確かに歌もひどい、しつこく耳に残るが。テーマパークの残骸というのは惹かれたのになあ。

あっという間に、お父さんとお母さんは豚になって、やせっぽちで恐がりの千尋は、手柄をたてる「千」になる。子どものための成長を描く「教養(主義的)」娯楽映画なのだから、もっと苦労しなくちゃ。なんで、「白」とかいう男の子(千尋が溺れた川の神様)がすぐに寄ってきて助けるのかね。味方ばかりがどうして都合良くいるのか。そして、結局トンネルを抜けるともとの社会になにもかわらず戻るのだからなあ。

でも、何も社会を批評したり変えるための勇気を与えないこういうなぐさめ癒しアニメを観た後も、いいダンスを観たので、元気のままだ。ストーリーとしてはハリーポッターの方がまだ滋養がある。「千と千尋」は電通など商業資本が作ったしょうむないコマーシャルだ。

しかし、東アジアテイストのいい加減な「油家」のセンスの悪さや、ブタになるというステレオタイプの差別意識感など、気になることは色々ある。ゴミを食べた神様に顔なしというお面のお化け。みんな飽食への眼差しなのだろうが、浅すぎてそこからどこにも気持ちが続かない。宮澤賢治が観たら私の銀河鉄道も色あせて模倣されているなあと思うだろう。ひょっとしたら続編が出来るかも知れないが、こういう過去の作品の寄せ集めなら、その方が助かる。見に行く必要がなくなるから。

3/3(日)

雛祭りといっても何もない。そういえば一昨日つじとみで新潟の吟醸酒を買うときに福岡産の甘酒が売っていた。
この日録を書いていたらフリーズしてしまい消失。誰にも当たってはいけないのだが朝からいまいち調子が悪い。今日はできるだけ自重しておこう。

JAM West例会。大阪城ホールの見学。理事長の山幡一雄さんからあいさつをうける。市民局長時代に前文化振興課長の下津さんなどから私のことを聞いてもらっていたようだ。プロッパーの朝永事業部主幹の案内。20年前の設計当時からいつかここを小劇場にするかも知れないと言うことで空白のままになっている「秘密」の場所まで案内してもらった。もし、大阪市内に小劇場空間が必要になる事態が起きたとすると、ここも1つの候補地になるのかも知れない。

劇団四季の営業の人からお話を聞いていまキャッツをやっている劇場を案内してもらう。演劇は人間の浄化だという主宰者の言葉を聞くとちょっと神経によくないので、パナクリエイトをお借りし劇団衛星のご招待状を芳江にファックスしてもらい出席していた川上さんに渡したりしている。

キャッツの舞台監督は29歳で若かった。入り口から客席までテーマパークになっている。演劇のマクドナルドだ。劇場は見飽きているので何も感じることもないが、台詞が替わったと言うことで、扉のところに「構造改革」と書かれてルビが振られていたのが面白かった。

新しく長谷川光子さんという池田市の方が入会してくれた。なかなかしっかりした人で日本アートマネジメント学会中部部会に(も?)入るかも知れないという。名古屋芸術大学の藤木周さんに話したらいいよと言っておいた。


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