こぐれ日録 KOGURE Diary 2002.2



115)2/4〜2/7

2/4(月)

今日から『松山賢全作品展 1997-2001』が始まる。10日までは「1997/2000 柔らかい恋人 Soft Girlfriend」で、あと3/3まで2シリーズ、アメリカ村であって、そのあとホワイトキューブKYOTOなどでもある。

HMVで奄美大島出身の女声を視聴したりしつつ、アメリカ村でホワイトキューブギャラリーを探す。案内をちゃんと読まなかったからだが、周りをうろうろしてしまい、チラシを配るお兄ちゃんに怪訝そうな目線を送られてしまう。PARCO DUEの3階にある古レコード屋の奥にあるから実は探すほどでもなかったのにな。

月曜日のアメリカ村、それも15時ぐらいはどこか間抜けな風情だ。土日の疲れ、汚れは一応ゴミ収集車がきれいにしてくれたかもしれないけれど、まだ淀んだ空気はそのままで、しかも何も始まらない空白の時。

パルコもこの春の100%ORANGEがポスターを描いているはずだが、ここには貼られていない。ここPARCO DUEや心斎橋パルコ(改装しているはずだが)をいま見ると、1980年代には渋谷パルコがモードや感じ方の最先端だったということが夢のまた夢のような感じさえ受ける。

ギャラリーに入る。手前にイラストのギャラリーがあって、左奥にはグッズの販売コーナー。そして目指す松山賢は右奥にあって、案の定、がらんとしている。店の人が少し変な感じで足早にそこを通り過ぎるぐらい。芳名帳を見ると二人目で、最初の光栄なサインをしている人は、美術関係者ではなく、女性の若そうな人だった。住所が書いてあって案内をくださいと記してあった。

(詳しい内容などはアーツ・カレンダー「こぐれ日記315」をみてね)

ごみごみした阪神高速の高架を越えて、堀江を散歩する。帽子屋が賑わっている。ぼくの大好きな手拭いもある。北堀江で「ポーポー屋」というアジアのお茶を飲ませてくれる場所を見付けた。きゃぴきゃぴしていなくて、日記と日録の添削に最適。

ミャンマーのお茶をいっぱい飲んで、仕事帰りのカップルが入ってきたので交替する。オリオンビールを注文していた。沖縄の古酒の壺が置かれているぞ(くわばらくわばら)。3階には日曜雑貨「いっぷく堂」というのも土日祝日だけ開かれるという。タフのハガキを置いていく。

2/5(火)

今日と明日は、わが京都橘女子大学文化政策学部1回生Dクラス(河原ゼミ11名+小暮ゼミ15名)の「志摩」フィールドキャンプである。今日は天気は曇りで夕方から雨も降ってきたが、6日は申し分のない天気で、一番早く春の空気と光と海、それに緑の息吹を感じられた研修旅行だった。

明日の教授会で前期の入試判定があるがこれは河原さんと私については公務欠席になる。それに文化経済学などの基礎研究会で後藤和子さん(電話でしか話したことがない)や小林真理さんらも東京(静岡)から来るのだけれどそれもすれ違いとなった。また、トリイホールのダンスサーカスもちょうど2日間が重なってとても残念だが、仕方がない。

11時半前後に近鉄鳥羽駅に到着。京都組は23名(一人次の特急になるが)、大阪組は5名の移動である。特に帰りは2階部分をほぼ私たちが占めたので、自動ドアを開けて入ろうとした中年の男性たちが一様に驚きいささかたじろいでいて、その顔を見るのが面白かった。

客観的には私は女性27人のなかにいるのだから外から見たら変な感じであるはずなのだが、もう1年近くになるとこれが当たり前になって、前にも書いたように立命館大学などで若くて大きな男性たちが集団でいると怖くて仕方がない。慣れとは恐ろしいものである。

ただ集団でいると周りの迷惑を感じなくなるという危なさが、ホテルでも海の博物館でも食堂でもあったのだろうとは思う。これはこれからの反省点である。特にホテルでの送迎バスでは実際、運転手さんに不快な印象を与えたかも知れない。

タラサ志摩の大阪営業所の山崎さんから鳥羽ではエビの大きさで有名な漣という料理店がいいですよと聞いていたので、そこまで行くと今日は定休日だったので(翌昼13名は再挑戦することになる)、向かいのうどん屋へ入った。関西よりは濃い出しで海鮮物入りに特色がある(アサリがでかい)。

駅前から、「タラサ志摩全日空ホテル&リゾート」へと送迎バスに乗る。曲がりくねり上下する道。やはり日常から離れる感じがして気持ちいい。ただ、工事があってリゾートホテルとかマンションとかも既に建っているし、大丈夫なのかなあという気持ちも強い。養殖の海。ホテルの前の白浜の海岸の真ん前に見る島も採石場となって面影がなくなってしまっている。

タラサ志摩は自分が自治省企画室にいたとき、当時、西洋環境開発の猿谷さんの紹介で聞いていて、国土庁の半島振興室長になったときに担当だから紀伊半島視察で海の博物館とともに行ったことがある。

それからリゾート法もバブルが消えてうやむやになり、オーナーも替わって(西洋環境開発からアールヴィヴァンになったというから変な感じである〜インテリアアートの代表選手たち、例えばイルカの絵とかがホテル内にあって結構笑えたが、そんなに嫌みな感じが全体ではしなかった)、それでも再出発している。

そんなわけで、ここがヨーロッパから導入した海洋療法(タラソテラピー)のサービスはどんなものかに興味を感じた。「セラピー」ブームの実体を見たいし、そしてどんな人が来ているのかと思いつつ、ここをフィールドキャンプの場所に選んだのだ。
近くの海水を720m沖合から生きたまま導入して使っているので(プランクトンが死滅していない)、医者のチェックがいるという(淡水ジャグジーに入ると塩素の匂いがきついから逆にここの生きた海水のありがたさが分かる)。

ただ、テラピーを受ける経費(13500円を12000円などにしてはもらったが)は大学からは出ないことになったので(旅費と宿泊費のみ)、学生で受けたのは5名であとは二人の教員。それ以外は、ホテルのサービスを体験したり環境を満喫しつつ、今日から海の博物館へとワークショップをしに出かけていた(10名)。

私以外の6人はビューティコースで4つのメニューのうちアルゴテラピーやアルゴバスで海藻を身体に吸収させていたはずだが、私はリフレッシュコースを選んで、次の4つのメニューをした。待ち時間にはサウナに入ったりゆっくり海水プールで泳いだり、屋外の淡水ジャグジーにちょっと寒いけれど浸かったり、香のルームで休んだり。いろいろリラックスのための場所がある。ハーブティサービスもいい。

1)アクアジム:5人が参加(たまたま河原さんも)。指導する男性が歩いて回るようにいう。後ろ向けに回ったり、止まって片足出しをしたり。なかなかストップ出来ない。バランス力の不足を痛感。運動はしなくちゃあなあ。浮き板を使って自転車こぎ、ジャンプなど。ぼくは海水でなくても良く浮くので特に難しいのじゃないかと思う。

2)エアロゾル:白い色が蛍光色になる青い空気が充満したような部屋に入る。海水がマイナスイオン化して霧状に充満しているという。腹式呼吸をしながらいい気分になる、アルファ波はたぶん出ているのだろう。隣の女性の寝息を聞きながら。参加している人はアベック以外はみんな女性で親子とか友人同士(20代中盤〜30歳代、50〜60歳代とかいろいろ)、ただ40歳ぐらいで一人行みたいな女性もいる。

3)プレシオテラピー:これは足の浮腫(むくみ)を取るもので、プレス(空気圧)を足に4段階ぐらいに下からかけていって一気に圧力を抜くというもの。足に何かの液体をまず塗られてきちんとパックされるのは確かに怪しい感じがして面白い。もっと強くしてもらったらソフトマゾぽくなるんだろうなとか変なことを考えてしまう。

4)ジェットシャワー:これはあらっぽくて海の漁師みたいでいい。消防士のホースみたいなので背中や足、そして正面の手足を吹き付ける。最後に頭もしてもらった。これですっきりした気になったのは錯覚だろうかも知れないが、何となくふわふわした身体に確かになった。

5〜6人の学生が浜辺で砂遊びをしている。壊れたバケツをつかって結構真剣だ。6日の朝浜辺に落りると、結構大きな城山みたいのが出来ていて、階段があったり変な棟が建っていたりする。砂浜遊び療法を自分たちでかってにしたところが面白い。学生たちも小学校に戻ったみたいだと話していた。丸い石が壁に並んでいる。

19時から1時間、ホテルのマーケティング担当の濱口さんと濱田さんに案内してもらう。これがまあ狭義のフィールド授業であるけれど、なかなかに面白かった。スウィートルームを見るのもそうだし、それとぐっと違うバックヤードが興味深い。

普通には見られない場所(ホテルでアルバイトをした経験のある学生もいたが)だから、事前に頼んでおいて良かった。階ごとにあるサービスステーションというのか用品をストックする場所には、たとえば、子ども用のスリッパがリクエストがあればすぐに渡せるように置いてある。

20時からの私たちのディナーづくりのために、厨房の渡辺グランシェフは急がしい真中なのに、「フォンドボー、これが決め手だ」ともうもうの湯気があがる大きな鍋に学生を誘う。防災管理室やオフィスも見学。うちのゼミ生は誰も体験しなかったテラピーゾーンも案内してもらい、最後に質問や感想を学生から出させた。けっこう、色々なことを聞くようになって、1年間で少しは変わったな(外見はもちろん変わったけれど)と思った。

ルミエールでディナー。今回は3人部屋で朝夕食つき12600円というコースだった(もちろんドリンクは別)。ヘルシーコースは河原さんと私と一人の学生だけだった(あとは志摩コース)が、4人のテーブルで食べ合いっこ(オードブルやメインディッシュも3つから選べる)するから、カロリー計算はあんまり無意味になる。蝦夷「鹿」を食べたことがちょっとした話題になるかも知れない。

フレンチと言っても、ディッシュには日本的な繊細さが際だっていて、やっぱりデザートはしっかりと食べたい人向きという構成になっていた。ヘルシーコースは白いドーナツ状のムースが心憎い。

2/6(水)

学生は宵っ張りだから寝たのは4時頃とかいっていた。わたしの部屋からはみんな2時前にはいなくなっていた。それでも、6時前には目が覚めてしまう。予報通りいい天気になりそうだ。日の出前の空と海を眺めている。

デジカメを持って海岸へ。遺跡の表示、夏には海の家が出来る鉄骨がある。昨日彼女たちが創った砂の城。昨日案内してくれた濱口さんが海岸にテーブルを出してカメラマンとともに撮影をしていた。マーケティングという仕事の実際がそこにある。

海の博物館への散歩道近くへと足を運ぶ。国土調査の四角い青の標識が小径に点々と埋められている。水仙がところどころに植えられて揺れている。午後に学生らと歩いたらこの匂いが大嫌いだという者がいた。ユリの花とかも。彼女たちの嗜好をいちいち聞いているとばからしくなってしまう。

10時にホテルのバスに便乗して海の博物館まで乗せてもらう。歩いても知れていたので、わざわざチェックアウトが遅れている学生たちを待ってもらったのはこちらの失敗だった。少し彼女たちの時間厳守能力の欠如、だらだら歩きを甘く見てしまっていた。
体育教師みたいな規律はいやだし(できないし)、難しいところ。

建築家、内藤廣。彼の建築学会賞受賞作品『海の博物館』(1992)には、タラサ志摩と同じく1993年6月16日に訪ねている。内藤さんから、時が経つとともによくなっていく建築を自分は造りたいという話を聞いていたが、今回、その「時の経つ」ということがどんな風なのか感じたくなったというのもここを選んだ動機の1つだった(高知県に出来たはずの牧野博士の植物園とかにも行ってみたいものだ)。

国土庁時代のその紀伊半島視察では、前日に贅沢なバブルの象徴でもある川九ホテルも見学していた。いまではオーナーがいなくなり大衆路線に変更していると日経アートテクチャーに去年載っていたが、確かにタラサ志摩もオーナーが変わっていたわけだ。ただ、それなりにテラピーゾーンにパステル画を描いたりしてホテルを継続するという生き残りに懸命な感じがよく伝わっていた。

内藤さんの建物が黒い板塀とネズミ色の瓦、木造の大架橋の内部構造によって、余りにもこの地域に息づいているのに対して、やっぱり白くて平板なタラサ志摩の外観は商業ベースのものだなあと(清水建設)思ってしまう。その違いを河原さんと話しているが、学生にはその会話の中には入れないようだ。

各倉庫などにあった大扉の、ぼこぼことしてつい触ってしまうことになる仕上げが画家の松田研一になることや、池に浮かんでいる蓮みたいなオブジェが小清水漸であることなどはカタログ(モノクロの写真が石元泰博による美しいもの、3700円)を買ってから知ったことだけれど、現代美術を語るときにふと学生の記憶をたずねてみるもの一興かも知れない。

海の博物館資料室長/学芸員、平賀大蔵さんが10:30に着くと待ち構えてくれていた。1時間では収蔵庫を見れませんよ。じゃあ、12時まででお願いします。まず映像をホールで見てもらいましょう。ここで全体の説明あり。そして、1つの展示物が出来上がるまでの映像。丹念な聞き取り調査と錆落としや実測、コンピュータデータ化などの作業が伝えられる。

海にまつわる人びとの暮らし、特にありふれているが、どんどんなくなっていくものを資料にしている。だから、その始源は分からないし、選択基準もなくて全部集めようとするらしい。
ただ、その道具〜たとえば伝統漁のための突き棒を使ったことのある漁師さんがいなくなると価値はほとんどなくなる。そのために急ぐべきことが多いし、守るための運動も一方で必要だ。うちの木下さんが特に博物館の専門だが、学生も含めて普段着の私たち全員が考えるべき素材がここにはある。

収蔵庫は木の箱と思ってください。ほら湿度が一定になっているでしょう。木が呼吸しているからです。自然の調整だけですが、急激な変化がないこと、資料の性質によって倉庫を変えています。

展示室へと移る。企画展は「鯛」にまつわるものだった。大漁旗が鮮やか。鯛は長生きするのだ。鯛の骨が喉に詰まった話をしたりみんな賑やか。常設展の展示室の高さは12メートル。いまでも海女さんたちはこれぐらいを潜るのです・・・。

ここは民間の財団で、前の建物を開館してからでも31年がたっている(館長は石原義剛さん)。多いときは5人の学芸員だったが、4人になり、いまは2名だという。入館料だけで維持するのは大変なのは決まっている。すぐ学生は、一般で800円(私たちは720円)は高いというが、公立博物館が入館料の全収入に占める割合が1〜2割ぐらいだということを知らないのかとそれを聞くとため息がでる。

昨夜の疲れからか、平賀さんの説明がきっちりとあったからか、全体の説明の時の学生から質問がほとんどでなかった。はじめに質問をするのは彼女たちでは難しくて、本当は館内を案内してもらってからもう一度ホールで話すぐらいでないといけないのだろう。が、平賀さんには謝礼もなしに案内してもらっているからとてもありがたいことである。

旅先で読んだ本。須賀敦子コレクション『ミラノ霧の風景』(白水uブックス、2001.11)。彼女にとっては初期のエッセイ。少し退屈になるものもあった。レナード・コーエンがムスタキと比較されて出ていたり、それでも思わぬ発見が多い。イタリアの上流社会の話とミラノ座の世襲席のこととか。

夏目漱石『硝子戸の中』(角川文庫、1954.6初版)。夏目漱石が修善寺温泉菊屋本店で吐血し一時危篤状態になったのは、43歳の時だった。そして旺盛に執筆したが、「明暗」を書いていて49歳でなくなる。
伊豆修善寺の大患後に書かれた「思い出す事など」にとても心が同調していくのが分かって、やっと漱石と同じような感慨が沸くようになったなとヘンに愉快だった。

いまの中学生ぐらいがこれらを読んでもただ明治時代の古文(風習)の学習でしかないという気がする。はながあるとき夏目漱石を千円札にするぐらいだったら、宮澤賢治にすべきだと主張したとき、それもそうだと前は頷いたが、これを読んだら意見が変わって、今度はあと30年生きてみろとそう言い返してやろうと思う。

《病の重かった時は、もとよりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変わっていった。自分にもわが心の水のように流れ去るさまがよくわかった。自白すれば雲と同じくかつ去りまつ来たるわが脳裡の現象は、きわめて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥とも思わず無邪気に重ねつつ移ってゆくうちに、それでも他日に参考に日ごとの心を日ごとに書いておくことができたらならと思いだした。その時の余はむろん手が利かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭をかすめて去る心の波紋は、したがって起こるかと思えばしたがって消えてしまった。余は薄ぼけてかすかに遠きにゆくわが記憶の影をながめては、寝ながらそれを呼び返したい心持ちがした。》

素敵なリズムである。それが少しずつ回復してくると芸術哲学へと誘うようになってくる。芸術の価値とは自由な精神生活にある、まあ、現今の社会組織ではそんなに簡単ではないと後続される部分である。つまり、オイッケンの説では芸術は職業とはなりえないという悲観論が続いてしまう。ここから脱することができなかったら、92年前とおんなじになってしまうわけであろう。

《しばらく哲学者の言葉を平民にわかるように翻訳してみると、オイッケンのいわゆる自由な精神生活とは、こんなものではなかろうか。──われわれは普通衣食のために働いている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪選択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そういうふうにほかからおしつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向かってみずから進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、おのれ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。
《こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとはいうまい、コムトは倦怠(アンニュイ)をもって社会の進歩を促す原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけだすよりも、内におさえがたきあるものがわだかまって、じっと持ちこたえられない活力を、自然の勢いから生命の波動として描出し来たるほうが実際実の入った生きかたといわなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌でも、すべて芸術の価値はここに存じていると評してもさしつかえない。》

2/7(木)

東京へ。原宿から竹下通りを通って表参道へ。NADiff。松陰浩之。YVES RED CAP KLEIN〜インターナショナル・クライン・ブルーのある美しい暮らし〜。イヴ・クラインのすごい鮮やかで毒々しい青で彼が創らなかった物を創る。見慣れた人たちのサインの次に書く。
大きな星に世界地図が凸凹しながら描かれている。アメリカの天下に点火するアラブの飛行機。激突したまま突き刺さっている。時が止まっている。判断ができないもどかしい時間の端境みたいな展示だ。赤い帽子(=日の丸)がアホみたいに若いおじさんの頭に被さっていたはずだ。

君が代は気味が良くも悪くも平成の、
弊政のまま、ど突き当たりぬ。月豚

変な短歌(というか川柳?ダジャレのみの)が出来てしまった。漱石なら俳句なのだが。
1200円で高いかと思ったが、Crocodike Creekのアヒルとカエルを買う。お風呂で使うものなので、洗えるからこれにしようかな、1回生ゼミの魔法のトークぬいぐるみは。あと、92年に京都で結成されたというグルーヴィジョンズの絵による同じくナディフで、『灰かぶり』(グリム兄弟、矢崎源九郎訳。2001.3、spiral、新風舎)。

d2000の成果、『社会とアートのえんむすび』=銀本(「つなぎ牛」とも呼ばれている)が川俣正と一緒に平づみに。ナディフは50部ずつ買い取ってくれている。売れ行きはよかったという。

15時から東銀座の日産本社でd2000プロジェクトの会議。増刷をあと500部にするか1000部にするか。最初の1000部がなくなりそうなのは嬉しいが、まあ2000部を全体で売れば良いところだろう。それも、増刷オフセット500部であとはデマンド印刷ということになりそうだ。

ポストd2000について。結論は出なかったが、何か私たちに続く人たち(30歳前後を中心に)を東西30名ずつぐらい、3年間に限って応援していくという話が森司さんからでて、ぼくはそれがいいと思った。アーツNPO法人へ(加藤さんの提案でもある)。そうなれば、OBPアーツプロジェクトやJAM West、それに京都橘女子大学大学院構想とリンクできる。


KOGURE Diary/こぐれ日録》の扉へ戻る