こぐれ日録 KOGURE Diary 2002.4



137)4/22〜4/25

4/22(月)

10時過ぎに関経連の仲川さんとサントリー不易流行研究所の佐藤さんが来る。劇場文化研究会という集まりのなかで提言をするから、そのメンバーの一人になるようにという。その人選とかテーマとかを話し合う。

夕方高松からまだ会ったことのない人から電話があって、今年も人づくり講座をしてくれないかと。馬場さんが文化振興課長になったということ。今度はすべて高松の地元でコーディネートするようだ。アトリエ劇研のヤザキタケシ公演の前に会うことにする。

大阪市の文化振興課長から電話があって、いろいろレンガ倉庫のことが大変になっていて会いたいという。あらあら、色々あるなあ。

TAM研の連中は昼休みから入れ替わり立ち替わり。自分たちで教え合ったりしてかってに動き始めているように思える。

中本さんと石野さんがインターンシップなどの件で来る。二人とも私としてはアーツマネジメントを心からやっていこうと思っている学生なので推薦したいと思う。私は何もしていないという川上さんもOBPにいて知らず知らず何かを着実に学んでいるように思える。記録集のサンプルを取りに来て、カフェの雑誌を渡したら全部東京のカフェのものだったらしいが。

4/23(火)

朝、出かける前に、はなと口論。夜になると「ミュー」とか言っているはななのに二人とも言い出したら極端になる。やっぱりそれが尾を引いて帰るまでずっとわだかまったままだった(こういう私的な感情が授業などに出るのは避けないといけないのだが・・それでもバスの中でブルーハーツを聞いていてかなり心が治まった)。

『あいだ』75号の倉林靖による連載で、芸術の起源と終焉をめぐった論考があり、考えさせられたので、とりあえず抜き書きしておく。

《芸術が、かつての芸術自身のような、あるいは宗教や哲学のような、人間知のための最高の可能性、心理、生命をすでに失っているのかどうか、という第一の論点(アーサー・C・ダントーによるもの)については、わたしはまだ大いなる疑義をはさみたい、と思っている。だがこのことは別にして、芸術が「諸目的に奉仕する」機能をもっと肯定的にとらえて、現代社会における芸術の役割、存在意義を再編すべきだ、と私は考える。実際、娯楽や気晴らし(あるいは、流行の言葉でいえば「癒し」)、装飾といった方向での芸術の存在意義が多大にあるだろうし、その一方、今日のアートが表現しようとしているのは、さまざまな社会的問題、人間の問題(性やジェンダー、メディアと管理社会、人権、経済と政治・・・といった問題)をアートのかたちで提起し、それについての議論をまきおこし、あるいは積み重ねていく、そういったコミュニケーション手段としてのアートの機能である、と思われる。》

この文章でも分かるように筆者倉林靖は後者に力点があるのは明白だ。前者の目的である「癒し」は芸術の世界ではしょせん流行のことばであって、本質は気晴らしとか娯楽と同じであるという意見かと思われる。このあとにもう少しコミュニケーション手段としての芸術の意義を「アートが今日の社会に対して持つ可能性」へと拡大していく。

その1つは「公共性」である。「個人が他者の前に『現われる』ための、公共的空間、それが持つ性格としての公共性」を芸術を通して形成すること。そして「通約不可能なものへの倫理的関係の醸成」。ここになるともっと言葉を足して分かりやすくしていかないと学生には皆目理解されないだろうが。
もう一つははっきりとは書いていないが、「自己反省をすることができる主体」としての人間精神の醸成、これがモダニズムの到達点としての芸術の意義だったと読みとれる。つまり「公共性と人間精神」ということ。

文化施設を説明しながら、アーツをまちづくりに導入する究極の設置目的は、「他者との交通による自立する市民(「コモンズ」)の発見と形成」だとつねづね言ってきた自分と重ねながらこの文章を引用している。みんなだいたい同じ所をぐるぐるやっているのである。問題はこのプロセスをどう作るのか、そしてマネジメントするかにかかっている。

ということで、このあたりを次回で話すことが必要なのに、スムーズに今回は説明できなかった立命館大学における「アートマネジメント論」の第3回目である。

まず、表示装置を使おうとするとBGM(ブルーハーツのベスト版の1つ「east west side story」)が消えてしまうしまた真っ暗になったりするしで、今日は去年みたいにおどおどしっぱなしだった。朝にレビューを書いていた映画『害虫』の話をちょっとした。これを位置づけるためには視覚芸術の類型説明(映画館のあり方)に入らなくてはいけなかったのだが、実演芸術の説明で手間取ったのだわ。

内容も迫力がなかったのだろう、3人の学生がずっと話し続けていて、それを直接に注意するしか黙ってもらう手がなかった。本当はひきつける話題を出したかったのだが。
OMSの取り壊しやトリイホール、アスベスト館についての残念な話を新聞記事によって後半話したのだが、これをもっとはじめに話しながら、アーツマネジメントの類型(実演芸術のみ今週は提示した)の説明をした方が具体的でよかったのかも知れない。

水戸芸術館のレジデント劇団の名前を忘れたり(ATMというのはホール名でACMが劇場名でありカンパニー名だった。最近の公演実績を見るとどうもダンスが主流のようだ、これも来週フォローしておかなくちゃ)、散々。自信なくしゃべるとどじるのだから固有名を確認するぐらいの準備を朝にしておくべきだった。

5/7の小テストの書き方は次回にちゃんと話しておく必要がある。5/7に出られない人のためにも、ここへまず書いておこう。1)〜5)。

5/7の小テストを躯得られない学生へ→【A4版1枚にワープロで1600〜2000字ぐらいにまとめて、次回4/30に提出してください(か間に合わなければ郵送で提出)】。

1)2)〜5)に内容を説明しているが、そのタイトルについては自由。ただし、2、3)の芸術環境の観察と4)公演内容の記述は区別されて必ず両方含まれること。
配布するのは、B4の紙(原則表面)様式H03。イラストなどの記入は可能だが文章もちゃんと書くこと。

2)芸術環境の観察:主に公演が始まる前に行われるもの。施設面(アクセス、雰囲気、BGM、照明音響ブースなど)、サービス面(客入れ、問い合わせ、前説など)、情報面(チラシやサイトのあり方など)、経営面(料金体系や協賛など)、観客層などの観察。

3)この際、ほかの類似芸術施設(劇場、ホール)と比較することが有効。そのような観劇経験が少ない場合は、ライブハウスや映画館、あるいはファーストフード店の対応やメニューと比較することも可能。

4)演劇ダンスの公演内容と感想:軽いレビュー形式。タイトルや劇団名、公演時間など最低限の項目と簡単な内容紹介。それについての感想は、主観的なものでいいが、どうしてそう思ったかを自分自身に問うように書くこと(ただ、面白かった!だけでは分からないので)。

5)観賞後の観察、あるいは芸術環境の課題や問題点など自由に記述する:たとえば、この公演の前後に関連企画があるのかないのか(アウトリーチ的な企画)。観劇後の感想を言い合う場(サイトを含む)があるのかないのか。鑑賞者が少なかったり偏っている場合、その主催者などが努力すべき点はなんだと思うか、などなど。

京都芸術センターに寄って、【several situations(それぞれの状況)】を見る。ここの山本麻友美(アートコーディネーター)のキュレーション。京都スタイルラボの第2回。このシリーズは芸術と産業がテーマで、今回は「デザイナーではなく、美術作家による服飾作品」を取り上げている。展示の仕方も工夫があってなかなかに感じがいい。監視員(ボランティアなのかも知れない)の案内も親切。

ギャラリー南の方は二人の作家(石垣陽子、川瀬香林)の作品が2つずつ、合計4つの部分に分かれる。そのそれぞれが薄い半透明の布で円状に覆われていて、鑑賞する人は、外からでも展示された作品の後ろ側などが観察できるし、もちろん中に入って静かに向き合うことも出来る。

石垣の作品は、針が内側に向かってびっしりとさされた着物と、これもびっしりと縫い糸で覆われた手袋。攻撃性が突出していないが、針の先が飛び出していない分、表皮に対する強い意識が目覚めさせられるもの。

川瀬作品は、自分の部屋の写真を服に写したもの。wearing may room。2002のものはポシェットや靴下まで反映してしまっている。日常の記録とそれを着ることの接着度が異常なまでに接近している感じがして薄気味悪い。

ギャラリー北は、方形に紗(うすぎぬ)が使われていて、呉夏枝(オ=ハジ)の3つの作品の方は、それぞれが区切られてある。
真ん中の「ある少数民族に捧げる婚礼衣装」が特に今回は強く反応した。「絞り」を和物として認識している自分があったので、それが鮮やかなアジアのどこかの少数民族の色彩や帯と対比されることに驚きがある。

両側の作品はには額縁やロケットを使う工夫がある。特に、「roots」の家系図と毛細血管はおぞましい形象なのに白く柔らかな衣裳によってそれがどぎつくなく展示されている。

他方、井上裕美子の作品は脱皮というテーマ。色合いとかなかなかに美しい。はっとする驚きとは違う穏やかな生活がそこにはあるように思う。

なお、全体の展示の工夫としては、作者名とタイトル、そして、「あなたのおかれている現在の状況とは?」という質問に対する答えが、壁に直接1行で書かれていて、しゃれている。

4/24(水)

基礎ゼミは、今週のアーツ体験を話したあとに、キャンパス歩き。前期の最後に「本を読む」ワークショップをするので、その心の準備なのだが、ちょっとまだぴんときていなかったようだ。

学生の一人が、加藤健一事務所をアルティで見たのだが、1列がダブルブッキングされていたという。自分はその席に座ったが、同じ席を予約した人は別の席にあてがわれて、担当者はそういうことはよくあることですよと言ったそうだ。
「それはないだろう。アルティの対応が悪い」と彼女は思っているが、それも違うだろうと思ったので、主催事業と貸し館の違いについてちょっと説明。

そのほかのゼミ生のつぶやき。
ハリーポッターを再び読んでいる。1度目とは違う発見がある。授業で狂言を見た(醍醐寺)。古いアパートにある古本屋さんにやっと行けた。東北に住んでいるお母さんから下宿のそばのライトアップされたお庭を見るように言われた。

いろんな国の人が下宿しているアパートでクラブ風の会合があってみんな思い思いに踊っていた。映画の話はハルマゲドン、シーズンチケット。スティングを聴くと落ち着く人、スケッチブックを広げて何を描こうかとぼんやりした学生等々。

午後からは教授会はないがいろいろな打ち合わせ。文化政策研究センターでのコンテストについては、学校表彰を追加することについて。あと、提言の審査員に上田假奈代さんを入れることが全員一致で決まる。

総合計画委員会で2005年度あたりの改革についての議論が始まる。京都橘高校はいま府内でもかなりいい線をいっているが(定数充足などの関係では第4位らしい)、大学の方は2極分化のなかではしんどい方のトップになって、受験者を伸ばす上位女子大学との開きに焦りがある。

高校が来年度に完全にそうなることもあり、男女共学化の問題があるし、学科再編のことも議論に。文化政策という分野では女性(そもそも「女子」大学というのはいまでは庇護的なネーミングである))に限ることは何も必然性はなく(政治経済が男性で芸術文化が女性という役割づけの方が〜実際多くの芸術の分野でもコントロールしているのは男だ〜擬制である)、文学部のことは分からないが女性研究もジェンダースタディーズとして何らおかしくもない気もする。

また、全国型の大学として考えるのならば、もっと活動的になれる下宿環境なども考慮する必要がある。そもそも文化政策学部はこのままでもっともっと面白くできるし(何もまだきちんと始まっていないとすらいえる)、目先だけのことにあせって、予備校などの情報に振りまわされ、主体性なく後追いするのだけは避けないものだ。

ちょっと遅れたが、文化サロンでは、ケインズの消費論が中谷さんから話された後、文化芸術振興法の立法論の話が渡部さんからあり、現行制度の仕組みがよく整理されていた。でも法律の「文化芸術」の定義が余りにも変だということにつきる。私の考える「文化芸術」(対「非文化芸術」)ではなくて。

生活文化の例示的説明もかなり不思議なものだが、「国民的娯楽」というのが、文部科学省設置制令から基本法における用語として使われてしまったというのも、非国民的娯楽とは何かということも含めて(たとえば、麻雀やパチンコはどうなのだろう)、思い出したくないものをまたここで見てしまったという感じだ。

4/25(木)

アーツ&セラピー論(コンソーシアム京都)の第3回目。先週に続いて中原昭哉さん。先週の受講生コメントを整理していただき、リクエストにも応えてピアノを弾いてもらう。準備が大変だったろうと思う。どうしても盛りだくさんになるので10分間オーバー(ショパンの「別れの曲」でちょうど12:10だったので、ここで終わるのかとばかり思っていた)。

ルーツ・ハンペ博士が講演したときに使われたセリーヌとキャサリンのドローイングやデザインを見せて、回復に従ってどう変わっていくかが示される。このあたりはビジュアルとしては分かりやすいが、実際の動きは臨床心理学できちんとフォローしてもらっておく必要はある。今回はその入り口ということなので。

受講生の感想は、ほとんど中原さんのピアノ演奏や持ってきた音楽で「癒された」というもの。特に彼が指導していた子どものコーラスの歌声の印象が強かった。

ただ、気骨のある感想もあって、こういう意見がでるあることの方が健全なことだと思う(全員賛成=陶酔よりも)。

《今日は様々な音楽、しかも自分が聞かないようなものばかり聞いて、癒されるというよりも何か疑問が色々出てきました。特に音楽とともに示されたビジュアルは、いわゆる癒しと言われている典型的な型にしか思われず、それが少しいやらしい感じがします。
《例えば私にとって癒しを感じる音楽とは、ボサノヴァであったりシカゴの音響系の音楽であったりです。そこでイメージするビジュアルは・・時によって違いますが、たいていグレーな感じです。あとはたいてい絵を描くときに聞くので、人であったり日常的な風景が少しこわれたようなものです。
《中原先生の感じるビジュアルとは違うものを思いながら音を聞いていました。もしも人を癒そうと思うのならば、私は音楽とビジュアルを両方見せるのではなくどちらかでよいような気がしますが・・・》
美術をやっている学生だろう。確かに水族館の絵はがきとかキッチュに近いものが今回は多かった。

もちろん、内容について丁寧に咀嚼しつつ、好意的に受け止めている学生も多い。
《授業の前半で、心を閉ざしたセリーヌとキャサリンの回復過程を見せていただきましたが、その中で印象に残ることがありました。それは、セリーヌが最終的にたどりついたグラフィックデザイナーとして働きたいという希望を受け入れてくれる体制が社会になかったということです。
《現代社会は、心に病をかかえる人びとの増加にそういった現象に対する社会の認識が追いついていないと言うことです。またもう一つ印象に残ったことは、セラピーを施すセラピスト自身が自分を癒す場を求めているということです。人を癒しに導く人までも癒しを求め苦しんでいるストレス多い現代、社会の闇のようなものを感じるとともに、癒しの重要性を痛感しました。》

大学に戻って、劇団洗濯氣の劇団改名第1弾、兼、新1回生歓迎公演『ボーダレス』を見る。いま、彼女たちにもらったチラシを研究室においたまま書いているので、きちんとした役者やスタッフ紹介ができないが、25分間ぐらいの小作品で、インターネットか何かでフリーな戯曲を探したと中條さん(彼女だけ文化政策なので名前がすんなり頭に入っている)が言っていた気がする。

観客は、8名(うちのゼミ生もいた)。16時公演とあったが、チャイムがなるのでそれを避けるために16時半公演に変更になる。男女の性別や年齢について意識することがタブーでそれに反すると犯罪になるという未来社会の話。出てくる3人は警察、でも、何かの勧誘人で、賞金狙い、しかも都市リーダー選挙に出たい者たち。

とにかく、1回生が何人か入ってくれるといいなあ。スタッフでもいいし。続かなくては劇団にならないから。初めの中條さんの声が小屋に比べて大ききすぎるぐらい大きくそして太く、あとの3人(子ども役が似合う役者たちかも知れない)もがんばっているから、200人ぐらい観ているところでいつか芝居をさせてやりたいと思う。


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